来た時とは違って、周囲を袁紹軍の騎兵が固めている。
必要ないと一旦は断ったのだが、
こちらを向いた麗羽が、ちょっとはにかむように笑んでいる。爽やかで澄んだ風。全身に受けながら、曹操は絶影に鞭をくれた。
「貴方さま。徐州からは、もう兵を引き上げられるおつもりですのよね。でしたら、袁家の軍勢も、兗州に向かうと思っていてよろしいのかしら? わたくしの麾下はほとんど疲弊していませんし、お命じくだされば先鋒を受け持ちますわよ」
麗羽の分析は間違っていなかった。
戦意の昂揚している袁紹軍に前線を任せれば、いい働きをしてくれることだろう。叛乱の旗手となっている張邈も、自分たちの合流は予想していないはずだ。
それでも、と曹操は思うことがあった。なにか感じるものがあったのか、麗羽は滅多に見せない神妙な表情で言葉を待っている。
「
紫水、と曹操は張邈の真名を惜別の感情を込めて呼んだ。
かつての友。そして、自分を兗州の主にまで押し上げてくれた同盟者。その張邈に鄄城を急襲され、領土の多くを失う事態に陥ってしまっている。
だが、裏を返せば現状は、兗州の主導権を抑えきるいい機会と取ることもできるのではないか。呂布軍のことは気がかりだが、流れの上で対処する以外の選択肢が今はない。結局、こうなった要因は自分にあるからだ。
「貴方さまのお考え、よーくわかりましたわ。ですが、わたくしにできることがあれば、なんでもおっしゃってくださいな。それが、夫婦というものでしょう?」
「わかっている。麗羽には、別方面での戦線を任せるつもりだ。
朝、麗羽の陣屋を出てすぐに、二人から真名を預かっていた。
直接的な主君は麗羽だが、その夫たる自分にも変わらぬ忠義を尽くす所存なのだという。斗詩と猪々子の二人が態度を鮮明にしたことで、袁紹軍に対する指揮が格段にやりやすくなる。
これは想像でしかないが、冀州を発つ前に軍師の田豊と将来に向けた話し合いをしてきたのではないか。
「任せてください、一刀さん。わたしも猪々子も、やる気は十分ですから」
「へへっ。斗詩の言う通りだぜ、アニキ。そうだ、ちゃんと仕事はこなしてくるからさ、今度時間ができたらご褒美くれよな?」
「ちょ、ちょっと文ちゃん、姫の前だし少しは遠慮しなってば」
「えー、別にいいじゃんかー。それに斗詩だって興味あるんじゃないの、アニキとするいいことにさあ?」
至極愉しそうに弾む声。
『いいこと』の内容を察したのか、斗詩は明後日の方向に顔を背けてしまっている。
「ねえ、いいことってなんですの? はっ……! まさか猪々子さん、わたくしに内緒で一刀さんと……」
「おっ? さっすが姫、するどいなー。ほらほら斗詩、もう答えがでちゃうかもよー?」
「やっぱり、思った通りのようですわね。ですが、知ってしまった以上は勝手は許しませんわよ。わたくしに黙って一刀さんと遊びに出かけようだなんて、そんなのずるいじゃありませんか」
「へっ、遊びに……? あははっ、アニキとやることやったってのに、姫ってば天然すぎるでしょ。まあ、らしいといえばらしいけどさ」
「あら。今なにか聞き捨てならない言葉が聞こえましたけど、わたくしの気のせいなのかしら、猪々子さん? わたくしと一刀さんが、一晩中しっぽり仲良くなにをしていたですって?」
風向きの変化。よくないように感じたのか、猪々子が眼の動きで助けを求めている。
こうなった麗羽を止める手立てなど、どこにもない。自分で掘った穴をどうにかできるのは、やはり自分だけなのである。
「やっ、ちょっと、あたいはなにもそこまで……」
「黙らっしゃい。こそこそ聞き耳を立てるような配下には、なにかお仕置きが必要ですわね。わたくし考えておきますから、よく覚悟しておくことですわね、猪々子」
「そ、そんなあ。なっ、アニキも静かにしてないでなんとか言ってくれよー!?」
原野に絶叫がこだまする。
懐かしいにぎやかさ。快く思いながら、曹操は自陣を目指し駈けている。
†
妙にしおらしくなった袁紹一行を引き連れて、曹操は陣に戻ってきた。
後々そうなった場合に備えて、田豊とは意見を交わしていたのだ。それにしたって、早すぎるのではないか。和解と同時に、夫婦となる契りを結ぶ。そのような脈絡のないやり方は、桂花には考えられないことだった。これが、曹操の話していた袁紹という女の規格外な部分なのか。ともかく、今回はそれがいい方向に作用したのだろう。
星は笑って話していたが、願いを瞬時に受け入れる曹操もやはりまともではない、と桂花は密かに悪態をついている。
「あら、あなたは」
「こうして見えられるようになったこと、嬉しく思います。荀彧です、袁紹殿」
「ああ、やっぱりそうでしたのね。田豊や一刀さんから、お話は聞いています。わたくしのことは、麗羽と呼んでくれて構いませんわ」
「は、はあ。それでは麗羽殿も、私のことは桂花と」
「ええ、よろしくお願いしますわね、桂花さん。同じ妻の立場にある者として、合力して一刀さんを支えていこうではありませんか」
「つ、妻ですって!? っと、その……。私はそんなのじゃなくって、ただ軍師としてあいつのことを……」
他人の領域に土足で踏み込んでくるという意味では、麗羽も曹操といい勝負ができるのではないか。
やはり、厄介でしかない二人を結びつけるべきではなかった。そんな後悔の念が、ちょっと桂花の中で生まれている。
「むっ……? なにか違いますの? あなたは誰よりも早く、一刀さんの子を生んでいるではありませんか。まさか、それも軍師の仕事だなんて言いませんわよね」
「ぐぬぬっ……。それは、そうかもしれませんが」
「うふふっ。だったら、素直に認めてしまいなさいな。そうした方が、きっと楽になりますわよ? それに、わたくしあなたには感謝していますの。あなたがいなければ、わたくしが一刀さんとあのような約束をすることはなかった。徐州にまで来て、思いをぶつけることもなかったのでしょう。ですから、恩人であるあなたを差し置いて、一刀さんを独占しようとは思いませんもの。とはいえ、桂花さんが妻ではないと言い張るのであれば、考えを変えてしまうかもしれませんけど」
言いたいことを、好き勝手に言ってくれる。
これが三公を何代にも渡り排出した名門の余裕なのか。麗羽の持つ豊かな二つのふくらみさえも、無性に腹立たしく思えてくる。
曹操と視線が合う。どうあっても、傍観者を貫くつもりでいるらしい。ならば、この状況を覆せるのは自分ただひとり。唇をぐっと噛み、桂花は思いを紡いでいった。
「つま……。そう、私はその男の妻なんでしょうね、間違いなく。あなたが袁家の当主だろうと、勝手気ままになんてさせてやるもんですか。ここにいるだけじゃない。たくさんの妻に支えられて、一刀はこの場に立っている。そのことだけは、はっきりさせておこうじゃないの」
一度口にしてしまうと、止まらなかった。
自分が最初に子を宿したのは偶然で、そのことで主導権を握ろうとは少しも思わなかった。連れ添ってきた年数だけなら、夏侯の二人はずっと長い。自分のようにあえて反発することもないし、良妻と形容されるべき存在なのだろう。
それに事情があって敵陣にいる
なぜだか、麗羽は高々と笑っていた。喧嘩をふっかけたつもりなのに、肩透かしを食らったような感覚なのである。麗羽がやけに上機嫌なのも、そこに拍車をかけている。
「上等ですわ。そうでなくては、一刀さんの妻など務まりませんもの。改めて、よろしくお願い申し上げますわ、桂花さん。ふふっ。それ以外のみなさんも、わたくしとは気軽に接してくださいな。それでは参りましょうか、貴方さま?」
曹操の腕を取り、麗羽は軍議の場へと進んでいく。
無茶苦茶な女だと思った。しかし、意外なほどに気分は悪くない。これが、袁紹本初という女の本質なのか。呆気にとられたまま、桂花はその背中を見送るしかなかった。
少々陣屋が手狭になっているが、予定外に人数が増えているのだから仕方がない。
曹操を麗羽と挟み込むようなかたちで、桂花は机に拡げた絵図に視線を落としていた。全員が立ったままであり、弛緩した感じはどこにもない。あれだけ騒がしかった麗羽も、ここでは将の顔に変わっている。
「われら曹操軍は至急兗州へと立ち返り、張邈軍に占拠された城を強襲いたします。定陶のあたりまで進めば、張邈の本拠である陳留にも揺さぶりをかけられましょう」
「今こうしている間にも、孫堅は豫州を荒らし回っていることだろう。袁紹軍には、その相手を任せたい。豫州から叩き出せとは言わん。だが、陳珪殿には恩もある。あの親子だけは、保護してこちらに留め置いておきたいと思っている」
桂花に続いて、曹操が戦の展望を口にした。
曹操は、麗羽の力を信じている、だったら、自分はその考えに乗るだけだった。
袁紹軍が豫州入りすれば、こちら側に傾く勢力が確実に出てくるはずである。今は孫権が上手く抑えているが、袁家にゆかりのある汝南にも影響を与えることができるかもしれない。汝南で叛乱でも起きることになれば、孫家の出足は鈍ることになる。そうなれば、打てる手は確実に多くなっていく。
「でしたら、田豊さんに文を送って、兵と一緒に出てこさせましょうか。孫家と闘うのでしたら、あの方が必要ですし」
「いや、それは待て。俺たちの動きは、じきに知られることになる。ならば、冀州の守りは手薄にするべきではないだろうな。しかし、軍師不在のままではなにかと戦もしにくかろう。それゆえ、こちらから郭嘉をつける」
「んっ……、わかりましたわ。貴方さまが推薦なさるのですから、力は間違いないのでしょう。よろしく頼みますわよ、郭嘉さん」
麗羽の言葉に、
安静にする時間ができたことで、稟の体調は快方に向かっていた。従軍しないという選択ができればいいが、そうは言っていられない。兗州での作戦を、曹操は長々と続ける気はないはずである。ならば、守りに主体を置く豫州に行くほうが、現状の稟には適している。
田豊が守兵を率いて冀州に残留していれば、期せずして北から張邈軍に圧力をかけることにもなる。動かない相手には、常に気を払う必要があるのだ。そして、その中で自分たちはひたすらに攻め続ければいい。
そのことを踏まえて、曹操は麗羽に援軍は無用だと言っていた。
「陣払いは明日。兗州での戦を終えたら、俺たちも豫州に向かう。それまで、あの女傑に全てを狩られてしまうなよ」
「豫州はわたくしたちの故郷なのです。いつまでも、孫堅さんの好きにさせてなるものですか」
気合いを発して、麗羽が決意を述べている。
戦がはじまる。まだ前哨戦に過ぎないのだろうが、今度の勝ち負けがやがて天下の行く末につながっていくのではないのか。
陣屋の外。空を見ながら佇んでいたところで、星に声をかけられた。ちょっと顔がにやついている。たぶん、麗羽にぶつけた内容がすでに伝わっているのだろう。
「おお、聞いたぞ軍師殿。なにやら、あの御令嬢を相手取って、啖呵を切ってきたらしいではないか」
「耳の聡い女ね、まったく。だけど、あんたは一刀の愛人でいいんでしょ? いっつも、そう紹介しているみたいだし」
「いや、それについてはしばし待たれい。私がなんであるのか、最終的にお決めになるのは主なのでな。うん、きっと大丈夫」
「……ったく。なにが大丈夫なのよ、なにが」
星を軽くあしらって、桂花は再び空を見上げていた。
青々としていて、それがどこまでも続いている。見通しは悪くない。その下を、思うさま駈けていける。そんな気分にさせる、空だった。
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