定陶にある城塔。そこから、広々とした原野を
徐州の民衆を意味もなく殺せば、曹操の目指す覇者への道に影を落とすことになる。悩んでいた時にちょうど現れた諸葛亮も、自分と似たような苦しみを抱えているような気がしたのだ。だから、手を貸してもいいと思った。曹操と闘い、別離してでもやるべきだと思った。自分にできるのは殺すことだけだった。その力が必要なのであれば、いくらでも振るってやる。一陣の風。ずっとそばにあればいいと思っていたぬくもりは、今は遥か遠く離れている。
粛清を急いだ結果、優しかった
「恋さんや
月の決意を蔑ろにはできなかった。
それに、巻き込んではいけないと思う反面、月の存在は自分にとって心強くもある。
徐州での戦は、どうなったのだろうか。曹操と直接刃を交えてきた霞は、相変わらず無茶をする男だ、と笑って話していた。
霞とのやり取りの中で、恋は確信していた。曹操は間もなく立ち直り、兗州に軍を反転させてくる。その時、自分たちはどう振る舞うべきなのか。真っ先に降伏して、どうにかなるような問題ではない。そして、たぶん曹操もそんなやり方を望んでいないのではないか。誇りを失った帰参を、誰か認めるというのか。ましてや、相手はあの曹操なのである。
闘いの最中、自分たちは絆を深めてきた。城壁に立つ深紅の呂旗が眼に入る。闘志。捨てた時、自分は自分でなくなるのだろう。通り抜ける風。今度は、寒さを感じなかった。
「恋ちゃん、少しよろしいですか?」
「風? んっ……、いい匂いがする」
のんびりとした声。風が両手で抱えている袋からは、食欲を刺激するような匂いが漂っている。
「はい、どうぞー。恋ちゃんと話をするのに手ぶらで来るのもなにかと思いまして、肉まんを買ってきたのですよ」
「……いただきます。あむっ、はぐっ」
「おうおう。何度見ても飽きない、いい食いっぷりだねえ」
弾力のある白い皮。噛み切ると、心惹かれる茶色い中身が姿を見せている。
三つほど瞬時に平らげ、恋は一息ついている。曹操に買ってもらった洛陽の肉まんの味。今となっても、かすかに記憶されている。あの時は、とびっきり腹が減っていたのだ。
好きなだけ食べていい、と曹操は自分に言ってくれた。味方ではない。むしろ、敵に近かった自分にである。嬉しかった。一食の恩義は、是が非でも返さなくてはならない。だから、簡単に討ち取れる曹操を見逃したこともある。
「あっ、お水もありますから、いつでも言ってくださいねー。それで、張邈さんのことですが……」
「張邈は、悪いやつじゃない。あいつも、一刀に無理な戦をしてほしくなくて、立ち上がった。月も、そう言っている」
ゆったりと肉まんを食していた風の声が、少し鋭くなる。
張邈も、自分たちのように曹操を制止したくて軍を興した。ただ、それだけのはずだった。
「ですが、張邈さんは気づいてしまったようですねえ。あの方が旗印となれば、兗州の豪族がこんなにも多く駈けつける。しかも、今はあの呂布奉先の軍勢までもが味方についているんですから」
「それは違う。恋は、張邈に味方したくて闘ってるんじゃない」
「はい。しかし張邈さんからしてみれば、それも違った見方ができてしまいます。ほんとうに、罪なお方なのですよ、一刀さんは。一刀さんの動きひとつが、なにもかも壊してしまう。だからこそ、新たなものを作り上げることもできるのでしょうが」
うっすらと目蓋を開けたまま、風は肉まんにかじりついている。
月は、なんとか張邈を曹操の側に戻そうとしているようだった。それが張邈のためであり、ひいては曹操の利になると思っているからだ。
静かに、恋は皮の端を食い破った。自分たちの作った渦は、想像以上に大きくなってしまっている。止めるためには、どうするべきなのか。曹操は、どうやって止めるつもりでいるのか。
ぼんやりとしているはずの風の相貌が、ちょっとおそろしく思えてくる。
「くふふー。ではでは、風はこのあたりで退散するとしましょうか。残りは、恋ちゃんが食べちゃってください。あっ、お代はつけでいいですからねー」
さらりと背筋の凍るようなことを言い残し、風は城塔から去っていった。
決めてきたはずの覚悟。それでも、まだ甘い部分があったのかもしれない。無性に、赤兎と原野を走りたくなっている。肉まんの袋。片手で揺らしながら、恋は厩舎に向かった。
†
汝南に敷いた陣中で、
「曹操と劉備の闘いに、袁紹が割って入ったようですね。あの御仁、なにを考えているのやら。私には計りかねます、母さま」
「チッ……、だからおまえは青いんだよ。人の感情の動き、興味を示すもの。そのあたりにも、もっと気を配れ。しかし、ここで最も大事なのはやつらのぶつかった結果だ、蓮華」
「はい。曹操と袁紹の合流、これはわれらにとっても看過できるような事態ではありません。兗州が乱れているとはいえ、曹操は豫州にも兵を入れてくることでしょう。この汝南と関係の深い袁紹が出てくることも、十分に考えられます」
「あの曹操のことだ。まずは張邈の野郎をぶっ潰し、全力を傾けられるようになってから豫州に出てくることだろう。汝南の豪族どもを、きっちりと締め上げておけ。場合によっては脅してもいい。そのあたりは、おまえに全て任せる」
「承知いたしました、母さま」
強引だったが、袁紹にしては冴えた手を使ったと炎蓮は受け取っている。
曹操への強い思いがそうさせたのか。あるいは、ほかの誰かによる手引があったのか。どちらにせよ、曹操は自身に対する脅威のひとつだった袁家を、丸ごと呑み込むことに成功している。
冀州は豊かな土地だった。黄巾の乱の途中逃げ込んだ者も多く、人口は増している。糧食と兵。その両方を、曹操は労することなく手に入れたような格好だった。
「そういえば、姉さまの当たっている方面はどうなっているのでしょうか。先の徐州牧である、陶謙殿の捜索にも人数を割いていると、
顎を指で撫で、炎蓮はかずかに笑みを見せた。
「ああ、それに関しても上手くいっているようだ。先日、
「雪蓮姉さまが徐州を
「だが、そうした時ほど気を引き締めておけ。戦とは生き物だ。なにがどう作用するか、わからん場合も少なくはない」
立ち上がり、炎蓮は南海覇王を腰に佩いた。
馬に跨ると、護衛の兵が整然と集まってくる。もう少し、本陣を前に動かすつもりだった。その視察を、自ら兵を率いてするつもりなのである。
「私も連れて行け、孫堅。陣にいるだけでは、腕が錆びついてしまいかねん」
「勝手にしやがれ。だが、とっとと準備しねえと置いていくぞ」
華雄に笑って言い放ち、炎蓮は馬を駈けさせた。
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