主の変わった鄄城に、静かな時が流れていた。普段と変わりなく暮らす人々。その間を、
張邈の挙兵に応えて集まった兵は、五万から六万ほどか。その多数の中にあっても、
あの呂布が加わっているのなら、張邈に味方をしても構わない。豪族たちからそんな声が上がるほど、恋の武名は広く浸透していると言ってよかった。
「これは、月殿ではないか。どうされたのだ、斯様な場所にひとりで」
「少し、お買い物をしておこうと思いまして。張邈殿も、こちらに来られていたのですね」
「買い物くらい、従者に任せられればよかろう。私の方から、誰か人をつけてもよいのだが」
「それには及びません。この鄄城では、私はただの月でいられますから。これで、顔なじみになったお店もいくつかあるんですよ」
「うむ……。貴公がそう申されるのなら、私は引き下がるしかあるまい。しかし、御身には気をつけられよ。曹操との戦も、じきに始まろう。間者の出入りも、今よりかなり多くなる」
「ご心配は、ありがたく受け取っておきます。それよりも、やはり戦をされるおつもりなのですか、張邈殿」
人のよさそうな顔をちょっと歪め、張邈は黙り込んでしまう。
陳留太守の張邈とは、洛陽を治めていた頃から面識があった。名家出身の御曹司らしく、振る舞いは爽やかで人当たりもいい。恋について幾度か交流をしているうちに、気づかれたのが始まりだった。
たぶん、興味を持たれている。かつて宮中を牛耳った女。それが、すべてを捨ててこうして生き延びることを選んでいる。無様。あるいは、その逆の印象を抱かれているのか。
「止めてくれるなよ、月殿。最初は、曹操の暴挙を止められればそれでいいと思っていた。あいつには、兗州牧にとどまらない器量がある。天下を狙う野心もある。なにより、友としてその道を支えてやることが、私にくだされた天命なのだと信じていた」
輝く日輪。
じっと睨みながら、張邈は言った。
「だが、これだけ多くの人が、私の陣営に集ってくれている。その期待に応えるのが、私の役目なのではないかと思えるようになった。たまには、誰かの前を走ってみるのも悪くはない。過ぎた野心なのかもしれないが、私は自分自身に賭けてみたくなったのだよ、月殿」
「張邈殿……」
天運のめぐりが、ひとりの男を変えてしまった。
一度燃えた野心の炎。それは、早々消えるようなものではないのかもしれない。
確かに、張邈には力がある。名声も人も、曹操の下についていた時とは比べ物にならなくなっているはずである。
だが、やはり抜けきらない甘さがある。泥と屈辱に塗れるような戦をしたことがない。激情のほとばしるままに闘いを繰り広げ、多くの人を惹きつけたことがない。それらの差は、戦場では如実に現れる。だから、踏みとどまる機会があるとすれば今だけだった。
「それにしても、程昱の選択には助けられたな。あの者が早くに城門を開けてくれたおかげで、無駄な血を流さずに済んだ。下手な恨みなど買うものではない。それでは、統治もやりにくくなる」
そのあたりの寛容さは、群雄として必要不可欠なものではある。文官たちのほとんどは鄄城に残り、曹操のいた頃と変わらない民政を行っている。だから、民衆はさしたる不満もなく、同じ暮らしをすることができている。風の狙いについて、月はなんとなく察しがついていた。だからといって、干渉しようとしているわけではない。最終的に、見ようとしているものが同じだということはわかっている。ただ、それまでの過程が違っているというだけなのだ。
「私からも問いたいが、貴公は表舞台に戻る気はないのか。確かに、董卓のやり方は性急過ぎたのかもしれない。それこそ、いらぬ恨みを多く買ったことだろう。だが、その手腕のおかげで宮中に滞っていた澱みがなくなったのも事実なのだ」
「張邈殿。以前お話ししたように、私にそのような気はありません。董卓の名は、葬られているべきなんです。そんなもの、今更掘り起こしたところでなんになりましょう」
董卓は、長安で抹殺されたのだ。
旧き名を旗印などにするべきではない。時代は、今を生きる人々が築いていくものではないか、と月は思う。
「軍議があるから、私はそろそろ失礼させてもらうよ。また話を聞かせてくれるか、月殿」
そう言って踵を返し、張邈は去っていった。
曹操と闘う。その決意に、曇りはないようだった。
自分は無駄なことをしているだけなのか。袖の内側。再び持ち歩くようになったものに指で触れ、月は蒼天を見上げていた。
†
曹操軍が、徐州から立ち去っていく。
安堵のつぎに湧いて出た感情は、いかなるものだったのか。風を浴びたくなって、
呂布、そして袁紹の来訪は、想像していた以上の影響を残していった。
曹袁両家の合流は、天下の情勢を大きく変えていくのだろう。中原の曹操。そして、南から覇を唱えようとしている孫堅。流れは、この二人にほぼ集約していくと考えてまず間違いなかった。その中で、自分はどう動くべきなのか。問題となってくるのは、そこだった。
ちょっと強くなった風。それで、朱里はわずかに足をふらつかせた。天下三分。考えたところで、絵空事に過ぎなかった。なにより、桃香自身がそんな状況を望んでいないことを朱里は知っている。
どこかから、声が聞こえたような気がしていた。見回す。城壁の内側からではない。だとすると、やはり外からのものだったのか。
また、声が響いてきた。城壁の
「はわわっ。あれって、確か曹操さまのところでお会いした……?」
白い着物の袖をはためかせ、女が自分に向けて手を振っていた。
趙雲。夏侯惇、夏侯淵に並ぶ有力な将軍で、先の戦でもぶつかったばかりの相手だった。
『曹』の旗は掲げておらず、護衛は連れているが闘いに来たような雰囲気ではないようである。
「劉備殿はご在城か。もしそうであれば、わが主からの言葉をお伝えしたいのだ。お主の顔は覚えているぞ、諸葛亮。焼いて食うたりはしないゆえ、なにとぞ誰かに取り次いでもらいたい」
「しょ、少々お待ちいただけますか、趙雲さん。兵のみなさんには、攻撃しないように厳命しておきますので」
「うむ、よろしくお願いする」
城中に駈け足で戻り、朱里は桃香の姿を捜した。
今日は、各所を視察して回る予定になっていたはずだ。一難去ったとはいえ、いきなり守りを解いていいものではない。桃香が直に声をかければ、軍勢の士気はあがる。戦のために退去させた住人たちも、徐々に戻していくべきなのだろう。やらなければならないことは、まだ多く残されていた。
「もちろんお会いするよ。すぐに行くから、門を開けてあげて、愛紗ちゃん」
桃香の決断は早かった。それも、自ら直接会って話すつもりのようなのである。
いくら知らない相手でないとはいえ、趙雲とは戦をしたばかりの間柄なのである。そうであっても、自然と無二の友人のように迎えることができる。桃香の懐の深さは、やはり普通ではなかった。でなければ、あの曹操が一目置いたりするはずがない。桃香は謙遜するのだろうが、肝の座り方は群雄として十分なものがある、と朱里は思っていた。
「久しぶりだね、趙雲さん」
「ええ、ですな。先日は、途中で持ち場をほっぽり出してしまい、申し訳なかった。ですが、われらにとって主の御身はなにより大切なものでしてな。決着なら、いずれつくこともありましょう。それで、平にご容赦を」
「そんなの、私は気にしてないってば。だから、決着なんて無理につけなくていいんだよ。あっでも、
「ふむ、それは残念。存外、あなたはいい戦をなさると思っていたのですよ、私は。真っ直ぐで、力強い采配でした。ふふっ。早くにお会いしたのが曹操殿でなければ、私の仕官先も違っていたのかもしれませんな、劉備殿? ……っと、無駄話はこのくらいにしておいて、主からの伝言なのですが」
「うん。聞かせて、趙雲さん」
趙雲の軽口が続いている。
わだかまりはないようだった。桃香に対する印象も、あるいは真実を語っているのかもしれない。
「今回は手を引きますが、徐州は別のかたちで貰い受けると主は仰せです。それから、劉備殿たちともまたお会いになりたいと。次回は、できれば戦場ではないことを、主はお望みのようでした」
「そっか……。ありがとう、趙雲さん。曹操さんには、私も是非そうしたいと言っていた、って伝えてもらえるかな。関羽ちゃんや張飛ちゃんも、きっと私と同じように答えるんだと思うよ。それに孔明ちゃんも、ねっ?」
振り返った桃香が、いたずらの成功した子供のように笑っている。
胸の中心。そこが、一瞬跳ねたような気がしていた。桃香というのは、ほんとうに食えない人なのである。隣に控えている愛紗も、思わず苦笑いを浮かべていた。
言うだけ言って、趙雲がそそくさと帰っていく。兗州に帰れば、曹操軍をまた戦が待っているのだ。だからこそ、趙雲ほどの将軍を、遣いとして出してきたことに意味があると言ってよかった。
自分は、これからどうするべきなのか。そんな思いが、朱里の中でまた強くなっている。
「少しいいかな、朱里ちゃん」
「はい、なんでしょうか桃香さん?」
城門を通過する傍ら、桃香が話しかけてくる。
雰囲気は柔らかい。曹操との関係修復に、大きな筋道が見えている。そのことが、桃香は嬉しくて仕方がないのだろう。顔にこそ出さないが、愛紗も同じ気持ちを抱いているはずだった。
「陳珪さんのところに、戻ったっていいんだよ。孫堅さんが豫州に出てきたって知った時から、ずっと心配しているんでしょう?」
「桃香さんのお気持ち、とても嬉しく思います。ですが、徐州は完全に落ち着きを取り戻したわけではありません。それを放って、帰ってしまうというのは」
「大丈夫。今度の戦だって、みんなで協力してなんとか乗り越えられたんだもん。あははっ……。だけど、
「うふふっ。本音が洩れちゃっていますよ、桃香さん」
心が大きく揺れている。
孫堅の侵攻に、
「朱里には、ここまで世話になってきた。かといって、ずっと徐州に縛りつけていいものではないと思っている。私も、気持ちは姉上と同様だ」
「愛紗さんまで……。ほんとうに、ここを離れてもいいんでしょうか、私は」
「ふふっ。そんなに頼りなく見えてしまうのか、われらは? だとすると、ちょっと心外だな。
どちらも、後腐れなく自分を送り出そうとしてくれている。嬉しさで、胸がいっぱいになりそうだった。雛里とも相談をした上での結論なのだろう。それだけに、ありがたさが強く募る。
豫州に入れば、流動的に袁紹軍との合同戦線を築くことになるはずだ。それが意味することは、自分にとって決して小さくないものなのである。
曹操とのつながり。長く失っていたものを取り戻す時が、今なのか。だが、どんな顔をして、あの人の前に出ればいいのかわからなかった。嬉しさで満たされていた胸が、考えるにつれて辛くなってくる。
同盟以上の関係を結ぶようになった袁紹はともかく、反旗を翻した張邈と呂布を誘ったのも自分なのである。やれることをやったと言えば聞こえはいい。しかし、立場が変わればその感じ方も大きく変わってくるのではないか。
「朱里ちゃんのおかげで、私たちは動くことができた。あの進言がなかったら、徐州はもっと悪い方向に行っていたかもしれないんだよ。だから、自分の選択に自信を持って、朱里ちゃん。えへへっ……。私にそう言われたって、あんまり納得できないかもしれないけどね」
「そんなことはありません。桃香さんは、私のような者を信じて、策を実行に移してくださいました。そのことは、感謝してもしきれないと思っています」
桃香の言葉で、少しずつ勇気が湧いてくる。
やるしかない。動いてみることが肝心なのだと思えてきた。曹操に恨まれ拒まれたのなら、そこで陣営を去ればいいだけだった。
「行ってきます、私。桃香さんたちの思いを無駄にしないためにも、あちらで精一杯やってきます」
深々と拝礼し、朱里は決意を述べていた。
R-18回の頻度について
-
今くらいのペースでいい
-
もっと多い方がいい