一 詠の覚悟
兗州への帰路の途中。曹操は、
小川のせせらぎが心を穏やかにしてくれる。
「豫州に行ってもよかった、などと言うべきではないのだろうな」
「うん。ありがとう、一刀殿。だけど、ほんとにボクは平気だから。水、気持ちいいね。ねっ、一刀殿もやってみなよ?」
詠に勧められて、素足を川の流れに浸してみる。
行軍で火照った足に、冷えた水が染み渡る。この感覚は、嫌いではなかった。
間者の調べによれば、
不安がなにもないわけではない。しかし、恐れを抱いただけ剣は鈍るものだ。
兗州奪還は、はじまりに過ぎないのである。豫州では、孫堅が自分の到来を待っている。天下をかけた前哨戦。かの地での闘いは、自然とそうなっていくように曹操には思えていた。
「一刀殿のことだから、呂布軍ともう一度全力でぶつかるつもりなんでしょう? あの子たちにどんな大義があったにせよ、離反は簡単に許されるべきじゃない。最終的に戻すにしたって、なにか過程が必要よね」
それに、と詠は言葉を続けた。
強がりでもなんでもいい。ただひたすらに前を向く。今すべきことは、それだけなのである。
内省をしている暇があれば、軍略でも練っていた方がずっと有益なのではないか。動く時は動き、止まるべき時が来れば止まる。その塩梅を間違えないことが、全軍を率いる将に課された責務なのだと曹操は思う。
「ボクに黙ってこんな一大事をしでかすだなんて、許しておけないもの。呂布軍のやり方は、これでも熟知しているつもりよ。だから、今度の緒戦をボクに任せてくれないかな、一刀殿」
詠の瞳に闘志が宿っている。
戦というのは生き物同然で、支配しようとしてできるものではない。それでも、意思だけは捨てるべきではなかった。
思いを届けたい相手がいる。恋の守る定陶。それを越えた先に、月が待っているのだ。奇しくも、反董卓連合軍として闘っていた頃と似たような状況が生まれつつあった。
あの時は、
現在の状態は、あの時から大きく変わっている。袁紹軍は戦意高く豫州に行っていて、董卓のそばにいた詠は自分の軍師となっている。
「いいだろう。詠の考えを第一として動くこと、
「ありがとう一刀殿。あなたがはっきりと前を向いてくれているから、ボクらも迷わずに済むんだろうね。ほんとに、不思議な人だよ。あの袁紹まで、自分の陣営に引き込んでしまうんだから」
「腐れ縁がいいほうに働いた。その程度のことなのだよ、きっと。縁というものは、切りたいと思って切れるものではない。月たちとだって、それは同じだ。そうだろう、詠?」
「信じたいな。ううん……、絶対にそう」
川に浸けていた足をあげ、詠が水を払っている。
休息は十分に取ることができた。詠が立ち上がったのに合わせて、曹操も同様に出立の準備に入る。
「いこうか、詠。香風と凪には、礼を申しておかねばな」
「そっちは、ボクから言っておくよ。二人には、変に気を使わせてしまったみたいだし」
詠の明るい声が、川面に響いていた。
†
兗州に入った曹操は、軍勢の再編を行っていた。
自分が帰還すれば、散らばっていた残存戦力が集ってくることはわかっていた。それだけでなく、二万の青州兵が一箇所に集結しているという情報がもたらされていたのである。
それらとの合流が叶えば、自軍は一気に七万にまでふくれあがる。総数が増えただけ兵糧のやりくりは簡単でなくなるが、一応領内であるからつぶしは効く。桂花はそちらの対応に追われることになるのだろうが、主戦軍師として詠が手を上げている。軍容としては、それで問題なく闘えるはずである。
「
「いいや、俺ではない。桂花でもないということは、もしや」
青州兵は、曹操個人とのつながりで成立している特殊な部隊だった。
それ故、他の兵のように張邈軍に吸収されることなく、兗州内を放浪していたのだ。青州兵自体の結束は強固だから、下手に兵を差し向けると損害を生むことになる。それで、張邈軍も手を出せずにいたのだろう。
桂花が、なにかを察したように表情を変えた。表舞台から退いた人和が、自ら号令をかけるような真似をするはずがない。そして、人和の居所を知っているのは、曹操にごく近しい側近だけだった。
おまえなのか、
心中で呟きながら、曹操は人和の待つ地点に向かっていた。本意でないとはいえ、いい仕事をやってくれた。元来、そうした立場において力を発揮するのが人和なのだろう。ただ、だからといって今後の戦に同行させようとは考えていなかった。
「久しいな、人和」
「兗州を出てから色々とあったそうね、一刀さん。あれから、気持ちに整理はついたの?」
「そう簡単に、全てで納得がいっているわけではない。しかし、俺には進むべき道がある。支えてくれる、みなの心がある。それがあるから、こうして兗州にもどって来られたのかもしれないな」
自分の話を聞きながら、人和がかすかに笑顔をのぞかせている。
なにもかもに折り合いをつけることなど、できるはずがない。それは自分だけでなく、人和にしてもそうなのではないか。青州兵を参集させることについて、大小の葛藤があったはずだ。それでも、人和はこうして自分のために動いてくれている。そのことが、曹操は嬉しかった。
「私にしたって、そうなのかもしれないわね。あの日、あなたという人に心を救われたから、私は今も自分として在り続けている。程昱といったかしら。少し前に、あなたの軍師から要請があってね。規律の乱れた青州兵を、どうにかしてほしいと言ってきたのよ。だけど、こんなことはこれで最後よ?」
「約束しよう、人和。一両日は、ここで野営をするつもりだ。その間くらい、一緒にいてくれるのだろう?」
「ふふっ、それはどうかしら?」
差し出した手を軽やかにかわし、人和はその場で華麗に一回転してみせた。
後方から、
「ははっ。残念だが、逃してもらえそうにないようだな。しばらくゆっくりしていけ、人和」
反撃に出るための条件は整った。
張邈との勝敗を迅速につけ、返す刀で勢力の増長にかかる孫堅を叩く。切り替わった思考の中にあるのは、そのことだけだった。
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