豫州沛国。
旅立った時には、今のような戻り方をするとは思わなかった。人の一生というのは不思議なものだ。曹操との出会いに、天命を感じなかったと言えば嘘になる。だが、自分は一度その手を払い除け、原野を放浪することを選んだのだ。それでもなお、曹操との結びつきは消えはしなかった。
「よし、行こう。袁紹さんにも、お礼を申し上げないと」
手元に置いておきたい数冊を選び、背負っていた鞄にしまい込んだ。徐州に残った雛里の分も、その中には入っている。
いつかまた、笑顔で再会する日のために。私塾時代からの親友の無事を祈りつつ、朱里は草庵を後にするのだった。
来訪した袁紹軍を、燈は領内に迎え入れていた。
孫堅が腰を上げ、豫州の切り取りに動いたからには、旗色を鮮明にする以外に道はないのである。当然のように燈は曹操の支持を表明し、戦支度にかかっていた。孫家方、あるいは中立の立場にある豪族の調略を進めながら、兵の調練を進めている。朱里が沛国に帰還したのは、ちょうどそんな頃だった。
城外に設営された袁紹軍の陣。自分が
「ご無沙汰しています、袁紹さん。徐州では、私の無理なお願いを聞いてくださり、ありがとうございました」
「ふうん? こんな場所にまでお礼を言いに来るだなんて、殊勝な心がけですわね。わたくし、あなたのようなお方は嫌いではありませんわよ、諸葛亮さん」
袁紹の高らかな笑い声が、幕舎に響き渡る。
派手な衣装に身を包んでいるのは、以前面会した時と同じだった。だが、確かになにかが変わっている。雰囲気も、心なしか明るくなっているように感じさせるのだ。曹操との関係性の変化が、袁紹の内面にまで影響を及ぼしているのかもしれない。
拝礼を終えて顔をあげる。袁紹の表情はとても穏やかで、母性すら醸し出しているようでもある。
「ここへは、お礼を申し上げに来ただけではありません。陳珪さんにご助力し、孫家の軍勢を退ける。そのための闘いを、私はしたいと考えています」
「あら。あなたも、わたくしたちと目的は同じということですの? ですが、諸葛亮さんは劉備さんのもとで軍師をしていらしたはずではなくて? その任は、もうよろしいのかしら」
「いいはずがありません。それでも、劉備さんは躊躇いなく私を送り出してくださいました。その優しさに応えるためにも、この地で精一杯がんばりたいんです」
「そう、あの劉備さんが。いいでしょう、諸葛亮さん。わが
「受け入れてくださりありがとうございます、袁紹さん」
袁紹の言葉に丁寧な拝礼で返し、朱里は決意を新たにしていた。
自分の道を、もう一度ここからはじめてみせる。割れた天下をひとつにし、国を再興させたいという思いが強く湧いてくる。その夢を託せるのは、きっと曹操だけなのだ。紆余曲折を経た今、朱里はみずから導き出した結論を苦しむことなく飲み込めるようになっている。
豪壮な幕舎を離れ、朱里は袁紹の軍勢を見て回っていた。
戦意は高く、調練にも活気がある。家の立場が変わっての、最初の戦なのである。軍人たちにも、それぞれの意気込みがあって当然だった。
その途中、声をかけられた。眼鏡をした女性。風貌にはやや鋭さがあるが、敵意まではないようだった。たぶん、袁紹麾下の誰かではない。軍監のようなかたちで、曹操が人をつけたのではないか。直感でしかないが、朱里はそう確信していた。
「諸葛亮孔明。あなたが、そうなのですね。私は郭嘉、字は奉孝。わが君、曹操のもとで軍師を務めています。孔明殿、とお呼びしても?」
「はい、それで構いません。郭嘉さんのお名前は、以前から存じ上げていました。公孫賛さんのところでは、劉備さんたちと一緒に食客をされていたと伺っています」
「ええ、そんな頃もありましたね。あの時から変わらず、劉備殿はお人好しのようだ。それで、わが君にお仕えする気になったのですか、孔明殿?」
「今の私は、陳珪さん預かりの雇われ軍師です。それ以上は、まだここでは」
「心得ておきましょう。確かに、わが君との再会を前にして、仕官を口にするのはいささか無粋でしたね」
鋭かった郭嘉の表情が、朗らかなものに変わっている。
内心、ほっとするような気持ちがないわけではなかった。最側近である郭嘉の自分に対する態度は、曹操の意思にそのまま直結していると言っていい。ここで無下にあしらわれていたのでは、その先のことなどあるはずがなかった。
「郭嘉さん。孫堅さんの動きは、どうなのですか?」
「予想していたものより、ずっとのんびりとしている。それが、正直な感想ですね。豫州西部の制圧は進めているようですが、あの御仁の性格ならばすぐさま沛国に侵攻していてもおかしくはなかった。足場を固めている段階だと考えられなくもありませんが、それにしても……」
「そうですか。でしたら、こちらには多少時間があるということですね。この付近の地形は、何度も調査しています。知りたいことがあったら、なんでもお聞きになってください」
「助かります。これから、陳珪殿を交えて軍議をする予定なのですが、孔明殿もご一緒に?」
「はい、郭嘉さん。着くまでに、孫家方の陣容について、詳しく聞かせていただいても?」
孫堅は、曹操がやって来るのを牙を研ぎながら待っている。朱里には、そんな気がしてならなかった。
おそらく、郭嘉も自分と同じような感じ方をしているのだろう。だから軍を必要以上に押し出さず、今日まで沛国内に留まり続けているのだ。
そのあたりの連携は、袁紹ともよく取れているのだろう。戦をしたがる将兵を抑え込むのは、簡単なことではないのだ。そこからも、曹袁両家の一致ぶりがよく伝わってきていた。
†
七万となった曹操軍は、西への進軍を続けていた。
再度先鋒を務めることになった
納得したうえでの退却だとはいえ、春蘭は特に徐州での鬱憤が溜まっている。それだけに、詠は自由にやらせることを選択したのだろう。
定陶から十里程度離れた場所に、曹操は陣を置いた。領内だという意識はとっくに捨てている。奇襲を受けてもすぐさま対応できるように、将軍たちには交代で周囲を警戒させていた。
しかし、張邈軍の動きはどこか鈍さを感じさせる。勢いで自分から離反したまではよかったが、その後のことが定まりきっていないのではないか。豪族たちの思考は現金なもので、劣勢が続けば日和見をする者が多く出てくるはずだった。
叛乱軍など、所詮一枚岩ではなかったのだ。
「定陶城には、十分な兵力が入っている。籠城されれば厄介になるわね。どうやって攻略するのか、方針は決めてあるのかしら、詠?」
軍議の席。時間はまだ昼過ぎで、幕舎の外から兵士たちの声が聞こえている。
詠と
「本格的な城攻めとなれば、必要以上の時間がかかってしまうわね。向こうには、陳留も鄄城も残されているもの。普通なら、いくらでも援軍を出せる状況よね」
「ほう? それでは、われらは手詰まりだということになってしまうな、詠よ」
秋蘭が、ちょっと訝しげに腕を組んでいる。
定陶攻めに、時間はかけていられない。軍全体として、その認識を持っているからだ。
詠の言葉を、桂花は黙って聞いていた。打ち合わせは、事前に何度かしてきているはずである。使い物になる街道がどこかはわかりきっているから、桂花は難なく仕事をこなしていた。その合間に詠の話し相手になっていることを、曹操は桂花から直接聞いている。
「定陶に入っている将の中で、呂布に意見できるような格を持った人物はいない。それは、事前に調べがついていることよ」
「呂布の気ままに戦をするのなら、間違いなく野戦になる。つまりは、そういうことか」
「ええ、秋蘭殿。ほとんど毎日、呂布は騎馬隊を外で訓練しているみたいだしね。端から、野戦しか頭にないとボクは思っているわ。だからまずあり得ないことだけど、もし呂布が籠城を選んだ場合、定陶は捨て置くつもりよ。二万くらいは抑えに残すことになるけど、張邈に動く時間を与えるよりマシだもの」
「詠の考えに、私も賛成よ。それに、張邈は冀州からの出兵をおそれているのではないかしら。わざわざ鄄城に入っているのも、なにかあった場合に陳留だと対応が遅れるからだと思うわね。だとすると、援軍を送るような余裕もあまりないと見ていいんじゃないかしら。一刀の狙いが、当たったようね」
補足するように、桂花が現状の分析を述べた。
敵味方に別れていようと、詠は仲間たちを信じている。
気持ちをぶつけ合うのなら、野戦に決まっている。呂布軍の有する騎馬は、原野にいてこそ力を発揮できるのだ。それを破り、改めて自分たちの力を示す。帰順への道は、その先にしか存在しないと詠は覚悟を決めているようだった。
「行動は日の出る少し前から行うことにする。騎馬隊が通りそうな場所に、伏勢を配しておきたいの。予想は、だいたいついているからね」
そう言って、詠は机に拡げた地図に印をつけていく。
余計な口を挟むことなく、曹操は軍議の成り行きを見守っている。定陶攻めは、詠に任せると決めてある。作戦にも、表立って反論するような箇所はないと思えていた。
戦の大枠は決まった。あとは、その時その時で動いてみなければわからないことだった。
夜明け前。具足を身に着け、曹操は絶影に騎乗していた。近くでは、眠そうにまぶたを擦っている
「深紅の呂旗との戦、ここで終わらせるぞ。総員、油断なく事にあたれ」
風とともに、曹操軍は一斉に動き出した。
ありえんくらい久しぶりに名前が出てきた公孫賛さんでした。
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