兗州にもどってきた曹操は、快進撃を続けているようだった。
曹操軍は南部にある城のいくつかを落とし、定陶に迫っていると
城内を見ているかぎり、民心にまだ乱れはなかった。道行く人々の穏やかな顔。もともと周辺の民政を担当していた
早急に兗州を再制圧し、豫州に向かう。曹操の考えは、そこにあるのだと月は思っていた。そして、定陶といえば守将として
少し身体が辛くなって、石組みの段差に腰掛けてしまう。このところ、日に何度か気分が悪くなることがあるのだ。呼吸を落ち着けて休んでいれば、段々と辛さは引いていく。着用したままになっている革製の首輪。触れていると、ちょっと心が安らぐような気がしていた。
休んでいる自分の顔。横に座った何者かが、覗き込んでくる。腰より下まで自由に伸びた金髪の持ち主。風のぼんやりとした顔が、そこにはあった。
「お久しぶりなのですよ、月ちゃん。なんだか具合が悪そうですけど、お医者さんでも探してきましょうか?」
「んっ……。平気ですから、気遣いは無用です。それよりも、定陶にいる
「みなさん、お元気に過ごされていましたよ。……今頃は、お兄さんの軍勢と闘っているのかもしれませんね。できれば争いが丸く収まることを、風も望んではいるのですが」
そう言うと、色の付いた飴を取り出し、風は舐めはじめた。
「張邈殿は、どうあっても戦をなされるおつもりのようです。あなたも、その後押しをされているのですよね、風さん」
「おおっ。これは、手痛いところを遠慮なく突かれてしまったのですよ。ふむぅ、しかしですねえ」
飴を口に含み、風は考え事でもしているような仕草を取っている。
叛乱当初から惜しまず協力を続けている風のことを、張邈は強く信用するようになっている。事実、風が鄄城を簡単に明け渡していなければ、今のように勢力図は塗り替わっていなかったはずなのである。
風の狙いがどこにあるのか。月には、それがよく理解できていた。無用な血をなるべく流さず、兗州に潜む叛意をあぶり出す。より強固な地盤固めが、孫家と闘う上では必要になってくるのである。その考えにのっとり、風は諸葛亮の整えた叛乱の舞台を利用したに過ぎないのだろう。
「あまり大きな声では言える話ではありませんから、こっそりと。今回の叛乱、誰かが人身御供にならなければ、収まりがつきません。実力があるとはいえ、単なる客将でしかない呂布軍では、分不相応ですね。それに、恋ちゃんたちの帰参を、お兄さんも望まれているはずです。個人としても、曹家当主としても、あの方は呂布奉先の存在を欲している。月ちゃんにしたって、それは同じです」
飴で口もとを隠して、風がささやくように話している。
叛乱鎮圧のために死ななければならない誰か。そう言われて、思い浮かぶのはただひとりだけだった。
「兗州内部に、実力者は二人もいりません。そして、誘いに乗ってしまった張邈さんには、死んでもらうほかありません。お兄さんには甘さがありますが、今回ばかりは事情が別です。許されることなど、ありはしないでしょうね。どこかでそれがわかっているから、張邈さんも頑なになっているのでしょう。なにも、私の扇動だけがすべてではありませんよ」
風は、自分にそのことを言い聞かせたくて、訪ねてきたのかもしれない。
暗い現実を突きつけられて、また気分が沈み込む。この程度のことは、いくらでも経験してきたはずだった。国家再興。それを大義に掲げ、多くの人々の命を奪ってきたのが自分という女なのである。
董卓の名。捨てたことで、弱さが勝るようになったのか。かつての自分が今の姿を見れば、滑稽だと笑うのかもしれない。
「そこのお方、少しよろしいか」
男の声。張邈や、城郭の知り合いの誰かではなかった。
月が、伏せていた顔を上げる。赤い髪。引き締まった身体。そして、片手にぶらさげた四角い箱。眼の前にいたのは、月の見知っている人物だった。
「なっ、あなたは……。いや、さすがに他人の空似だとは思うが、しかし……」
「ほうほう? この男の方は、月ちゃんのお知り合いなのでしょうか?」
自分の顔を見て、男が戸惑っている。
それもそうだ。表向き、自分は抹殺されたことになっている。そのような女と、街角で偶然再会することなど、まともに考えればあり得ないことなのだ。
華佗。こうして会うのは、長安にいた時以来になるのか。当時、ほとんど毎日のように世話になっていたことが、懐かしくなってくる。
「慌てる必要はありません、華佗殿。私は、今もこうして生きている。それがすべてなのです」
「なにか事情がありそうな気はしていましたが、そうですか。しかし、兗州に流れ着かれていたとは思いませんでしたよ、董太師」
「華佗殿。私のことは、どうか月とお呼びください。かつて暴虐を振るった女は、もういない。そのことを、今になって痛感していたところです」
「月殿? ともあれ、先程のご様子、なにか身体に不調を感じているのでは? こんな俺でよければ、診察の機会をいただきたいのですが」
「ふふっ。変わらず元気なお人なのですね、あなたは。でしたら、館までいらしてくださいますか? ここでは、人目がありますし」
華佗の好意を、月は素直に受け取った。
不調に思い当たる節があるものの、なんとなく医者に行く機会を逃していたのである。長安でも華佗は、董卓のような女にすら親身になって治療をしてくれた。
それに、あの鍼には間違いなく特別な力がある。鍼による治療を受けてしばらくは、身体と気分が劇的に軽くなったことを記憶している。時には、施術中に眠ってしまうことすらあったくらいなのだ。
「ふむ。華佗さん、私もご一緒しても? 友人として、月ちゃんの具合が気になっていましたので」
「もちろん。ご友人がいてくだされば、月殿も安心できるでしょう。では、参りましょうか」
館にもどり、その一室で月は華佗による質問を受けていた。
不調はいつ頃からか。そして、原因になりそうなことがなにかなかったか。
寝台で横になった身体に、鍼が打たれていく。痛みはほとんどなく、あるのは滞ったものが流れていく感覚だけだった。
あれから、華佗は
「よし、今日はこのくらいでいいでしょう。俺の出した結論を、ご友人にもお伝えしても平気ですか、月殿?」
「構いません。隠しておくようなことではありませんから」
華佗に呼ばれて、風が部屋に入ってくる。
鍼のおかげで滞りがなくなり、全身がかなり楽になっている。寝台の端に座って、月は乱れた着衣を整えていた。
「それで、月ちゃんはどうなのですか、華佗さん。まさか、悪い病気などではありませんよね?」
「ええ、その心配には及びませんよ。月殿の身体に、新たな生命が宿っている。不調を感じていたのは、そのことが原因だと考えて間違いないでしょう」
「むむっ? それでは、おめでたということにー?」
「その通り。まだ身体的な変化はほとんどありませんが、それも徐々にあらわれてきます。なので、どうかご自愛くださるようにと、お話ししていたところです」
さすがの風も、華佗の見立てに驚きを隠せないでいる。
出陣の日。あの朝に注がれた子種が、実を結んだのかもしれなかった。破壊と殺戮に塗れていたような自分。そんな身であっても、こうして新たな生命を宿すことができている。
自分のような女に、母となる資格があるのかまではわからない。だが、やはり喜びが大きかった。服の上から腹を撫でてみる。この中に曹操の子がいるのだと思うと、不思議とあたたかな感情が溢れてくる。
恋しいと思う気持ち。急速に湧き出し、切なさが募った。
あの人の存在を、肌で感じたい。心と身体の両方を、甘く満たされたい。考えないようにしていた反動が、今になって出てきているというのか。誰かを愛し、また愛されることで、人はこんなにも弱くなってしまうのか。
「ふふっ。おめでとうございます、月ちゃん。これは、早くお兄さんにも聞かせてあげなければなりませんねえ。もちろん、ご自身のお口でですよ?」
「ありがとうございます、風さん。あの方には、きっと」
華佗には、父親が誰かまでは教えていなかった。ただし、望んだ妊娠だということだけははっきりと伝えてある。
自分の話を聞いた華佗は、それだけで十分だ、と笑ってくれていた。
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