戻ってみると、袁紹はまだ嬉しそうに喋り続けていた。勢いは、とどまるところを知らないようだ。
広間に入ると、田豊と視線が交差する。なにか異変があったということを、察しているのかもしれない。
「少しいいか、袁紹」
「お邪魔ですわよ、曹操さん。せっかく、わたくしがありがたーいお話をしてあげているというのに」
「いいから耳をかせ、袁紹。お前にしか、頼めないことがあるのだ」
「はあ? わたくしにしか、頼めないことですって? ま、まあ、それなら仕方がありませんわね。いいでしょう、言ってご覧なさいな」
袁紹の顔が、少し綻んでいる。解放されたことにほっとしたのか、華侖がこちらを見ながら苦笑していた。
頼られることは、きらいではない質なのである。曹操も、そのあたりの機微はよく理解していた。
「潁川の荀家は知っているな」
「ええ、もちろんですとも。わが袁家には到底及びませんが、あちらもそれなりの名門でしたわね。それで、その荀家が曹操さんとどういった関係があるのです」
「荀
「し、室ですって……? むむ、なんだか話が見えてきませんわね。つまり、あなたはわたくしになにを言いたいのです」
室という言葉に、袁紹がわずかに反応を見せた。それには気づかないまま、曹操はまくし立てていく。
「そうだな、回りくどい言い方はやめにしよう。洛陽からの迎えが、もうすでに来ているのかもしれないのだよ。もしそうだった場合、俺は力ずくでも荀彧を奪い返すつもりだ。わかるだろう? そうなれば、宦官どもに一泡吹かせられることにもなる」
「その企みに手を貸せ。曹操さんは、そう仰っしゃりたいと」
「その通りだ。ここには、手勢も連れてきているのだろう? 俺の行いのせいで、荀一門にまで累が及ぶのは気が引ける。そこで、荀彧の家族の護衛を、袁家の兵に頼みたいのだ。逃がす先としては、冀州が適当だと思っている」
冀州への退避。それは、
潁川郡は都に近いだけあって、大きな政変があれば真っ先に巻き込まれる土地でもある。いまの漢は、不穏当な空気が常に漂っているような状態なのである。
冀州は豊かな国だから、暮らしに不自由することもないだろう。桂花は一族にそう勧めていたようだが、これまで実現してこなかったことでもあるのだ。
「冀州牧である
「ええ。確かにわたくしから話を通せば、韓馥さんだって住まわせることを快く了承してくださるでしょう。ふむう、そうですわね……」
袁紹は、なにやら思案をしているようだった。顎に当てられた指。時折、ぴくりと動いている。
会話を聞き終えて、田豊はなにか言いたげな表情をしていた。袁家の軍師としては、思いとどまらせるべきだと考えているのだろう。また、苦しそうに腹のあたりをさすっている。
「わかりましたわ。ですが曹操さん、そのためにはひとつ条件を飲んでもらいますわよ」
「れ、
「
田豊の諫言を、袁紹はぴしゃりと遮った。一度こうと決めたことを、そう簡単には曲げない女なのである。袁紹が乗ってくれば、計画は格段にやりやすくなる。
「条件というのはなんだ、袁紹」
「うふふ。袁家に無関係な面倒事に付き合ってあげるのです。ですから、その見返りは相応のものでなくてはなりませんわ。今後なにかあったとき、こちらの言うことを文句を言わずにひとつ聞く。恩情をかけて、そのくらいにしておいてあげましょう。よろしいですわね、曹操さん?」
「承知した。ならば、善は急げだ。まずは、潁川にある荀家の屋敷まで向かうぞ。情報がつかめたときには、臨機応変に動くこととする」
「いいでしょう。
立ち上がり、袁紹は配下に命令を下していく。食べ物を口に含んだままの文醜を引っ張り、顔良は退室していった。
ある意味、これは中央政界との前哨戦なのである。小さな自分に、どこまでのことができるのか。気分をちょっと高揚させながら、曹操は
†
地面を焦がすような熱。それを背中で受けながら、曹操は馬を駆けさせていた。後方には、
とにかく、急ぐことだった。
駆けているのは、きらいではなかった。風を切り、全身で馬を操る。そうしていれば、余計なことを考えずに済むからである。郷里を発ってから、五十里(約二十キロ)ほどは駆けたのだろうか。それでも、目的の潁川まではまだ距離があった。
春蘭たちのさらに後ろ。おおよそ百の騎兵が、ひと纏まりとなって動いていた。『袁』の一字の旗。それが伸びやかに掲げられている。騎兵を率いているのは、実質的には文醜と顔良の二人である。それでも先頭に袁紹がいることで、兵たちの士気は高かった。それで突然の進軍にも、不満をもらさずしっかりとついてきているのである。
「待っていろ、
曹操が、馬上で独り言のように言った。
焦りがないわけではない。だが、どうにかできるという自信もあった。馬の腹を、さらに蹴る。打てるだけの手は、打ってきたはずだ。そう思って、曹操は前だけを向いている。
どうせ、郷里で気ままな生活を送っているだけの身なのである。だから、万が一目論見が外れたところで、なんの後悔があろうか。
ここで動かなければ、桂花を失ってしまうことになるのである。それだけは、看過できることではなかった。
腰につけた剣。確かめると、闘争心が湧いてくるようだった。戦場へ向かっているわけではないが、奮い立つものがあるのだろう。春蘭のあげる雄叫びを、星が笑って聞いている。
「桂花」
もう一度、荀彧の真名を呟いた。力任せに、あの小さな身体を抱きしめたい。耳がじんとするほどの怒声。途切れることなく、浴びせられることだろう。それすらも、いまでは恋しいと思えた。
桂花を、もう手放す気はなかった。文句であれば、いくらでも聞いてやるつもりをしている。失うのは、簡単なことなのである。なんであろうと、気を抜けば今回のようにするすると指の間を抜けていってしまう。
はっ、と曹操は叫んだ。
駆け続けるにも、限度というものはある。夜間に必要なだけ休息をとり、また馬を駆けさせた。潁川郡に入ったのは、翌日のことだ。街道を行く曹操。そこに、一騎が近づいてくる。
一騎は、先行させていた
「
「報告がございます、殿。荀彧殿は、まだ屋敷におられるようでした。しかし、周辺には三百ほどの兵が配されています。あの様子では、明日にも出立する予定なのではないかと」
「わかった。おまえは引き続き、警戒にあたれ。
「御意。しからば、袁紹殿のところへ行って参ります」
星と紅波が、それぞれの役目をもって飛び出していく。
潁陰に到着したのは、日が昇りきる前のことだった。物々しい騎兵の入城を制してきた門番も、袁紹の名には勝てなかったらしい。曹操たちは、そのまま荀家の屋敷へと直進した。
騎兵を引き連れ、袁紹は屋敷の正門まで来ている。なにごとかと、具足をつけた男がやってくる。それが、宦官の寄越した部隊の隊長だった。兵の掲げる旗など、眼に入っていないのだろう。
「ちょっとよろしいかしら。わたくし、こちらのお宅に用がありますの。ですから、邪魔な兵士さんたちにはどいていただきたいのですが」
「何者だ、貴様。われらは、都からの遣いとして参っておるのだぞ。それを妨げるのであれば」
「妨げるのであれば、なんですの? それとも、あなたが方は四世三公の名門、袁家の当主であるこのわたくしに、弓引きたいとでもおっしゃりたいのかしら? ふんっ。あなた、見れば見るほど、つまらないお顔をされていますわね。もういいですわ。猪々子さん、斗詩さん、この者たちを軽く揉んでやりなさいな」
袁紹が、ぱちんと指を鳴らす。
巨大な武器を担いだ文醜と顔良。その威容に、隊長はごくりと喉を鳴らした。しかし、いくら恐ろしくとも逃げ出すわけにはいかないのである。花嫁を連れてくるだけという初歩的な任務をしくじったとあれば、首が飛ぶことは確実だった。
「へへっ、そうこなくっちゃ! 姫は、そこでゆっくり見物しててください」
「もう、文ちゃんたら、張り切りすぎないでよね? ここでだれかを殺してしまうようなことでもあれば、余計な責任を負わされるのは姫なんだよ?」
「んなこと、わかってるってばー。そんじゃ、いくぜっ!」
大剣を地面に突き刺し、文醜は走り出した。宦官の兵は、大した軍装をしていない。だから戦意を奪うだけなら、素手で充分と判断したのだろう。
一人二人。すぐに、打ちのめされていった。隊長が慌てて、兵らに集結するように言っている。しかし、すべてが手遅れだった。
混乱が起きたのは、正門だけではない。屋敷の東西でも、同様のことが発生していたのだ。春蘭と星。稀代の武人にかかっては、ただの兵卒などデクの坊となんら変わりがないのだ。
ことは、万事自分の狙い通りに動いている。混乱を横目に、曹操は駆け出していた。
†
「さっきからなんなのよ、外の騒ぎは。ただでさえ、こっちは苛々してるっていうのに……」
唇を強く噛みながら、桂花は拳を握りしめていた。
政略結婚が、ごく当たり前に起こり得ることは、よく知っていた。それでも、まさか自身が当事者になってしまうとは、想像していなかったのだ。
荀家の名声を、宦官は欲しているのだろう。力を持つ宦官からの提案を断れば、朝廷内での立場はかなり苦しくなる。ある日突然役職を解かれても、なんら不思議ではないのだ。両親も、簡単に決断したのではないのだと思う。これは、だれが悪いという話ではなかった。
婚姻が決まってからというもの、母とはなんとなく気まずくなってしまっている。桂花も、べつにそれで母のことを責めたいとは思っていなかった。けれども、胸にわだかまりがあるのはたしかなのである。たぶん、それは母も同様なのだろう。
そういうとき、脳裏にはいつも決まって、曹操の姿が浮かんでくるのである。
会いたくない、とは思わなかった。ただ、会えば確実に決心は鈍ってしまう。曹操は、いつも自分の心を簡単に溶かしてしまうのだ。女たらし。けれども、温かさをもった男だった。言葉では拒絶していても、曹操にかまってもらいたいと思う自分がいる。そのことに、気づいていない桂花ではなかった。
曹操のくれる、菓子の味。いまさら、それが恋しくなってしまっている。自分の足で買いにいってみたこともあるが、やはりなにかが違うのである。心まで満たされるような甘さ。きっと、自分が欲しているのはそれだった。
部屋の前で、争うような物音がしている。そこには、警護の兵がひとり立っていたはずだ。知らない男に見張られているような気分で、桂花はずっと機嫌を悪くしていたのだ。
「ひゃっ!? な、なんなのよっ!?」
物音は、兵が打ち倒された音だった。開け放たれた扉の向こうに、男の失神した姿が見えている。
飛び退き、桂花はとっさに部屋の隅に身体を隠そうとしていた。押し込みのたぐいに捕まることを考えれば、政略の道具となって嫁ぐほうがいくらかましなはずだった。
誰だっていいから、早く助けにきてほしい。そう願い、桂花はきつく眼を閉じていた。
「桂花」
「や、やめなさい! 何者だか知らないけど、他人の真名を勝手に呼ぶだなんて、そんな……あっ」
「遅くなったが、迎えにきたぞ。おまえを宦官の嫁にくれてやるくらいならば、謀反人となって死んだほうがまだましだ。桂花、俺にはおまえが必要なのだよ。軍師としても、女としてもな」
眼を開けると、見知った顔がすぐそばにあった。幻でも見ているのかと、手を伸ばしてみる。温かい。血が通った、温かさだった。
額には、汗が浮かんでいる。よく確かめてみると、ちょっと酸っぱさのある匂いが鼻についた。それでも、いやな感じがしないのはなぜなのだろう、と桂花は思う。それに、普段であれば瞬時で湧いてくるような憎まれ口が、欠片も湧いてこなかった。
「ん、んふっ……!? んんっ、ちゅう、んはぁ……。あむっ、ン、ちゅく、ちゅう……。んぷっ、んんっ。かず、とぉ……」
初めての口づけ。だが、汚されたという感覚はなかった。
むしろ、曹操の荒々しさを間近に受けて、桂花は心をふるわせていたのだ。
抱きしめられたかと思うと、曹操の舌が有無を言わさず口内に入ってくる。こんなにも、すんなりと受け入れられるものだったのか。桂花は、おのれの変化に驚くばかりだった。
そこからは、夢中だった。舌を絡め、唾液を分かち合っていく。胸の高鳴り。息が、つまるほどだった。
薄っすらと眼を開け、桂花は曹操の表情をうかがおうとした。余裕など、どこにもない。自分のことだけを、必死になって求めてくれている顔だった。
もう、どうなってもいいとさえ思えた。きっと、これが自分の天命なのである。曹操と歩み、その志望を支える。それが、自分に与えられた道なのではないか。
喧騒に湧く、荀家の屋敷。
曹操と桂花。二人の道が、まさしく重なった瞬間だった。