長時間に渡る闘いの末、
駈けっぱなしになっている赤兎の首を優しく撫で、
自分のわがままに、麾下は文句ひとつ言わずに付き従ってくれている。誰の眼からも、まだ闘志は消えていない。抗おうとすれば、抗えるだけの力はある。だが、ここまでにするつもりだった。
物見として離れていた五騎が帰ってくる。周辺には曹操の軍勢が溢れていて、包囲の輪を狭めてきているようだった。
馬超らの伏兵部隊と合流した曹操は、息を吹き返したかのごとく攻勢に転じていた。数字上の劣勢は、どうあっても覆せない。退路は趙雲軍によって断たれ、
『曹』の一字の旗をかかげた一軍が近づいてくる。
先頭にいるのは、見事な体格をした黒馬に乗った男である。曹操が常に前にいることで、その軍勢は士気を落とさず自分たちに食らいついてきた。あの男の備える気力は、やはり普通ではない。そのことを、改めて知らされたのが今回の戦だったのか。
「……ありがとう、みんな。この闘いで、やれるだけのことはやりきった。なにも恥ずかしいことはない。私たちの意地は、曹操にしっかり伝わっていると思う」
方天画戟を握っていた手が、少し緩む。
別れ際、曹操は天意を示せと言っていた。どうすれば、自分はそれをなせるのか。なにがあれば、曹操は満足できるのか。
絶影の足が止まる。曹操との距離は、まだ四百歩はあるくらいだった。
護衛の兵が動いて、絶影の隣に一本の戟が突き立てられた。か細い枝。見ようによっては、遠くにある戟はそのようにも見える。
「この戟の中心を射てみよ、呂布」
曹操のよく響く声が、谷間をふるわせる。
そういうことか、と恋は小さく頷いた。名手と謳われる人物でも、まず命中させられない位置にある戟。その中心を射抜いてこそ、自分は天意を全軍に示すことができる。
ざわめきが両軍に拡がっている。曹操の麾下などは、まず無理な話だと思っているのかもしれなかった。
「弓。なるべく大きくて、強いものがいい」
麾下の中には、槍や戟よりも弓を得意とする者がいる。
方天画戟を近くの兵に預ける。弓が届けられるのを待つ間、恋は馬上で精神を研ぎ澄ませていた。
射抜く。自分に、やってやれないことはないと言い聞かせた。矢に込めるのは、練り上げた思い。曹操に思いを届かせたくて、起こした戦だった。それを、天などに阻ませるものか。この地に生き、血を流しているのは自分たちなのである。その願いはなによりも強く、尊いものでなければならない。
「どうぞ、将軍」
「んっ……、ありがとう」
剛弓を持ち、大ぶりな矢を番えた。
戦場を静寂が包んでいる。そこにいるすべての者が、自分の行いだけに意識を集中させているようだった。
曹操との思い出が、脳裏を駈け巡る。そして、それはこれからもずっと続いていくのだ。弓がきしむ。息を止め、恋は戟に狙いをつけていた。
外さない。心におそれはなかった。鍛え上げてきた武が自分を支え、守ってくれていると信じた。
「曹操」
矢を引き絞りながら、恋はかすかに声を洩らす。
異変。反応できているのは、たぶん自分ひとりだけだと思った。
曹操の背後に、不穏な影が見えている。これまで潜んでいた暗殺者が、全員の意識が逸れる瞬間を狙って動き出したのか。
「一刀っ!」
迷いはなかった。
曹操を護る。腕が引きちぎれてもいいと思った。大切な人。絶対に、失ってはいけない人だった。
静寂を切り裂き、放たれた矢が真っ直ぐに駈けていく。突き立つ。男が倒れたのと同時に、曹操軍から一段と大きなどよめきが聞こえた。
†
絶影のすぐそば。短剣を手にした男が、頭から血を吹いて倒れている。
見事だ、と曹操は感じ入っていた。狙いには寸分の狂いもない。眉間の中心を射抜かれ、痛みを感じる時間すらなく絶命したのだと思う。
旗本たちが、水を打ったように動き出す。自分の命を狙った間者が、近くに潜んでいた。おそらく、張邈の手の者なのだろう。自分を亡き者にすることができれば、戦局は大きく変わる。決して、悪い手ではなかった。
あの張邈が、暗殺のごとき手段を使うようになったのか。運ばれていく男の亡骸を見ながら、曹操は心に猛りを感じていた。それだけ、張邈は切羽詰まっている。追い詰めたのは、言うまでもなく自分だった。
離れたところにいた
「ご無事ですか、殿」
「なんともない。神弓が、俺を守護してくれたのだ。戟を射抜くよりも、遥かに重大なことを恋はなし遂げてみせたのだよ」
「率直に言って、信じられません。あれだけの距離から、いきなり狙いを変えたのです。しかも、その矢はきれいに眉の間に突き立っていました。弓を扱う者として、おそれるばかりです。あれが人中の呂布。冗談などではなく、天に愛されているとしか思えませんな」
「ははっ。おまえにそれだけ言わせたと知れば、恋も喜ぶのではないか? すぐに、使者としてあちらに向かえ。示された天意に、曹操が感服しているとな」
「仰せのままに。姉者のほうも、仕上げに入っている頃合いでしょう」
拝礼し、秋蘭が部下のところにもどっていく。
提示された降伏を受け入れる。その返答を秋蘭が持ち帰ったのは、しばらくしてからだった。
呂布軍の武装を解除し、そのまま軍勢を進めた。
討った敵軍は五千。帰順の申し出には、曹操は寛容な態度で応えた。
夜。がら空きとなった城の制圧を終えた曹操は、御殿に将らを集めていた。
「一刀。全員、揃っているわよ」
左右には、軍師である二人が控えている。そこから将の面々が拡がるようなかたちで、中央にいる恋たちを囲んでいた。
「先の行い、見事であった。余人にはできぬ振る舞い、さすがは呂布奉先である」
「曹操を、死なせたくなかったから。だけど、そのせいで戟には矢を当てられなかった」
「またしても、俺はおまえに命を救われた。それに、戟よりも難しい的を、見事に射抜いたではないか」
床に片膝を立てたまま、恋は自分の言葉に返事をしている。
さすがに、顔は疲れ切っていた。ありったけの集中力を使って、あの矢を放ったのだろう。何度もやれと言われて、できるようなことではないのかもしれない。それでも、恋はやってのけたのだ。
その様子を、
「今日この場で、私は曹操に臣従を誓う。戦をするのは、曹操の命令がある時だけ。その言葉は絶対。死ねと言われれば、今ここで死んだっていい」
恋が、粛々と言葉を述べていく。
両隣にいる張遼と陳宮も、
「ははっ。俺の言葉は絶対、か。ならば、少々腹が減っても我慢をしてみせるというのだな、恋よ?」
「あうっ……。それも、がんばって耐えてみせる。曹操がいいって言うまで、ご飯は我慢」
「よい心がけだな。しかし、臣下の腹を満たすのは、全体を取り仕切る俺の務めでもあるのだよ。なるべくそうならないよう、励むつもりだ」
そのやり取りでちょっと安堵したのか、恋が固かった表情を緩ませている。
「詠、あれを恋にやってくれ」
「了解よ、一刀殿」
詠が一度奥にさがり、用意していたものを取りに行く。
呂布軍は、ここから正式に直属の臣下となる。その証を、曹操は公に示すかたちで与えたいと考えた。
「ありがたく受け取りなさいよ、恋? この旗は、あなたの軍のためにわざわざ作らせたものなんだから」
「あっ……。詠、これって?」
恋の背中に、一枚の大きな布が被せられる。
象徴的な深紅の地に、黒の『曹』の一字が鮮やかに染め抜かれている。隣にいる張遼と陳宮には、全体像がはっきりと見えている。かかげる旗が変われども、深紅の軍団の威容は変わらない。その思いを込めて、曹操は真新しい軍旗を送った。
「へへっ。深紅の曹旗か、粋なことしてくれるもんやな、一刀」
「深紅の、曹旗? んしょっ……。これが、恋たちの新しい旗になる」
張遼が照れくさそうに笑っていた。この瞬間より、呂布軍は生まれ変わる。そのことを、強く感じているのだろう。
手にした旗をまじまじと見つめてから、恋は立ち上がった。
深紅の軍旗。誇らしく背中にまとい、恋はその場にいる面々に披露する。
「うむ、似合っているではないか。恋がもどってくれたこと、主同様にうれしく思うぞ。なあ、春蘭?」
「もちろんだ。天下に轟かせた武勇、殿の御為いかんなく発揮してみせるがいい」
将軍たちが感想を述べる中、曹操は恋に歩み寄った。
「おまえと麾下とを、切り離したりはしない。命令に背けば死。軍規に従い、われらに勝利をもたらせ。与えた『曹』の旗は、そのためにある」
神妙な面持ちで、恋は首を縦に振った。
曹操がほほえんでみせる。つられて、恋も笑顔になっていた。
褐色の肌。やわらかな頬。長く遠ざかっていた感触に、指がよろこんでいる。
おもむろに、恋が瞳を閉じた。長いまつ毛が揺れている。なにを欲されているのか、考えるまでもなかった。
「んっ、んむっ……。一刀、んあっ……」
恋の口で、優しげに真名を呼ばれている。
それで火がつき、すぐにやめるつもりだった口づけが、止まらなくなる。
くちびるでの戯れが、やがて舌を使った愛撫へと変化していく。水音を鳴らし、恋が遠慮なく自分の唾液を吸い上げる。
「一刀。ちゅっ、ぷあっ……。ちゅっ、ちゅっ……。もっと、一刀っ」
情炎が、瞬く間に全身へと拡がっていく。止めようとは思わなかった。思うさま身を焦がし、感情をぶつけ合う。自分たちに必要なのは、そんなつながりなのではないか。
すがりつくような恋の愛情表現。深く受け止めながら、曹操は猛りをさらに大きくしている。
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