張邈軍に出陣の動きあり。城内に忍び込ませていた間者からの知らせを受け、曹操は心を勇ませていた。
率いる軍勢は五万。陳留にいる張超への備えとして、
「号令をお願いしてもいいかしら、一刀。みんな、あなたの声を待っているのよ」
「すぐに行く。兗州奪還の総仕上げだ、俺もそうするつもりでいた」
様子を伺いにきた
そのまま軍の中央までひと駈けした。参集している将兵の顔を見渡し、曹操は右手をかかげた。
「みなに今日まで苦労をかけたこと、ひとえにこの曹操の不徳によるものである。しかし、それもじきに終いだ。敵将張邈は、卑劣にも刺客を用い、私を亡き者にせんとした。だが、天命はこちらにあったのだ」
馬上で背を伸ばし、曹操は軍の最先鋒を見ようとした。
深紅の騎馬隊。生まれ変わった呂布軍が、そこで戦闘の開始を待っているのである。
「叛乱を起こした呂布軍を、許せぬ者も中にはいることだと思う。しかし、みなもその眼で見たであろう。あるいは戦友から伝え聞き、少なからず胸を打たれたのではないか。あの神弓の一撃がなにをなし、誰を護ったのかを」
ざわめきが拡がる。張邈による暗殺の失敗を、徹底して利用してやろうと曹操は考えていた。
天命は自身にこそあり、そして神がかり的な射撃をやってのけた恋は、以前にも増して畏敬の念を抱かれることになっている。守護神としての印象。その確立は、間違いなく呂布軍復帰の手助けとなったはずである。
「深紅に染まった『曹』の旗が、これより幾度となくわが軍に勝利をもたらすことであろう。張邈軍の負けは、すでに決まっているようなものだ。今こそ、出動の時である」
剣を抜き、天高くにかかげた。ざわめき。徐々に喚声へと変化していき、熱気が軍全体を包み込んでいく。
駈けていく軍勢の姿を見ながら、曹操は大きく息を吐いていた。桂花と
「動きだしたわよ、張邈のほうも。向こうだって、死にもの狂いの戦を仕掛けてくる。油断だけはしないでよね、一刀」
「鄄城には、
「
絶影の馬首を巡らせ、曹操は戦場に向かっていく。
原野を覆う土埃。その先にある深紅の旗の勇躍する姿を、曹操の眼ははっきりと見通していた。
†
閉じていたまぶた。ゆっくりと開け、恋は手にしている方天画戟を前方に倒した。
真新しい深紅の旗。風に揺らめく『曹』の一字が、いつまでも誇らしかった。腿で赤兎の馬体を締め上げ、突進を開始する。先の戦により出られる兵は四百と五十に減っていたが、不安は少しもなかった。
副将を務める
小細工なしの戦は、自分たちがもっとも得意とするものでもある。赤兎のいななき。先陣を切って数人の首を跳ね飛ばし、恋はさらに突き進んでいった。
恐怖が拡がる。深紅の曹旗の前に、敵兵はしかばねを晒すだけなのである。
どこかから、曹操は自分の闘う姿を見てくれているのだろうか。騎馬隊の勢いを止めようと、矢が飛来する。難なく打ち払うと、恋は弓兵の一団に進路を向けた。
「この旗の邪魔をすると、死ぬことになる。それが嫌なら、今すぐどこかに行け」
「う、うわあっ……!」
無謀にも斬りかかってきたひとりを瞬時に片付け、一帯に血の雨を降らせた。
「なんや。柄でもなく、あんたも興奮しとるみたいやな」
「んっ……。どきどきしてるのは、たぶんそう。戦場で、こんな気持ちになったことは今までなかった。張遼も、私と同じ?」
「おう。血が滾りまくって、どうにもならんわ。天下奪りの戦がここからはじまると思うと、抑えようとしても抑えられん」
会話の最中も霞の得物は動き回り、切っ先が敵兵の血で赤く染まっていく。
未来を手にするための戦。殺すことしかできない自分に、曹操は護り神のような役割を与えてくれた。悲壮感はどこにもない。あるのは、新たに生まれた希望だけだった。
「行こう、張遼。曹操の進む道を、私たちで切り開く。それができるって、この旗を見ていると信じられる」
「おっしゃ、やったろうやないか。この勝負、張邈の素っ首ねじ切ったほうが勝ちやで」
小さくまとまっていく騎馬隊。留まることなく、敵軍の中を突き抜けていく。
後方からは、主力となる
「この戦に勝てば、月ともきっとまた会える。だから、無事でいて」
自分の気持ちに呼応するかのように、赤兎が猛々しい疾りをみせている。人馬一体。赤兎といると、手足が長くなってような感覚にすらなるのだ。長い距離を一息に飛び、将と思わしき者の身体を両断した。
何段にも渡る敵の守り。苦もなく打ち破り、呂布軍はいきいきと戦場を駈けている。張邈の旗はどこにある。霞との勝負だけではない。この戦を終結させるために、なにが必要となってくるのか。本能で感じ取り、恋は原野を荒らし回った。
†
朝からはじまった戦は、昼過ぎになると戦局がほとんど決まっていた。深紅の曹旗をかかげる一団。その活躍により、張邈率いる軍勢は散々に敗走させられているようだった。
曹操の号令のもとで闘う戦が、恋に強い輝きを与えている。その事実を、月は自分のことのようによろこんでいた。
「もどっておいでになるのでしょうか、張邈殿は」
呟き。
出動の時よりも、城内はかなり騒がしくなっている。飛び込んでくるのは敗報ばかりであり、動揺を隠しきれなくなっているのだ。
姑息な策を用いずとも勝てるくらいの力を、曹操軍は有している。将卒の質という点でも、張邈はかなりの劣勢に立たされていることはわかっていた。その上、野戦において圧倒的な力を発揮する呂布軍が、指揮系統に完全に組み込まれるかたちで戦場に出てきているのである。
前曲崩壊の影響を止められず、敗残兵は張邈のいる本隊にまで逃げ散ってきているようだった。もはや、戦をできるような状態ではないのかもしれない。曹操軍の誰かの手によって、張邈は斬られていてもおかしくなかった。
城門が開く。傷ついた将兵が、転がり込むようにして内側に入ってくる。帰還できた人数は、半分にも満たないのではないか。あとの者は、曹操軍によって掃討されたか、よくて捕虜となっているのだろう。
路地に出て、月は張邈の姿を探した。
「張邈殿。よくぞ、ご無事で」
馬上で俯いている男。着ている具足から、それが張邈なのだとすぐにわかった。
さすがに、かなり気落ちしている。意気揚々と出動していった時の元気は、戦場に忘れてきてしまったようだ。
「ああ、月殿か。こんな情けない姿を、貴殿に見せたくはなかった。なにをしているのだろうな、私は」
堂々と勝利し、凱旋する様子を張邈は思い描いていたに違いない。
敗戦時の振る舞いが、人の運命を左右する。そんな風に、月は感じることがあった。
帝を奪取された時。それに、長安に移ろうとする董卓軍に打ちのめされた時。自分に負け続けていても、曹操は一度も闘志を捨てなかったのである。その姿勢はやがて結実し、男を兗州の主へと押し上げた。そして張邈の叛乱を経て、曹操を中心とした結び付きはより強固になろうとしているのだ。
城塔に登ると、数多の軍旗が眼に飛び込んでくる。中でも、色鮮やかな深紅の旗に月は眼を奪われた。そこにある一字は『呂』ではなく、『曹』なのである。
深紅の曹旗。曹操が求め、恋が掴み取った明日の姿が、そこにはあった。
「これだけの人々が、曹操殿のところに……」
「人望の違いに、私は負けたのかもしれないな。その差を、もっと理解しておくべきだった。これこそが、曹操という男の力だったのだ」
包囲している軍勢の圧力に、張邈は気持ちを折られかかっているようだった。無理もない。必勝を期した一戦に、完全敗北を喫したのである。
援軍として期待していた弟の張超も、どこかで足止めを食っているのではないか。陳留の軍勢が、鄄城周辺に現れるような気配は今のところどこにもない。曹操のことだから、そのあたりの備えは周到にしているはずだった。
「一緒にきてくれるか、月殿」
「あっ……。どちらへ、張邈殿?」
手首をつかまれ、有無を言わさず引き寄せられてしまう。
張邈の瞳が宿しているのは、ある種の覚悟のようなものなのか。危険な輝き。だが、それも覚悟の上だった。
「きてくれ、と言っている。こんなかたちで、思いを遂げたくはなかった。だが、私にはもう」
抵抗する間もなく、城主の館に連れ込まれた。静寂。使用人たちは、どこかに逃げてしまったのだろう。
軍人ではないから、張邈と生死をともにする必要など少しもない。それでも、拭いきれない寂しさがやはりあった。
小綺麗な居室。そのまま、月は寝台に押し込められた。
張邈が、煩わしそうに具足を床に落としている。仰向けに寝たまま、月はその様子を観察していた。懐に秘めた短剣。守り刀のように持ち歩いていたその鞘を、指で撫でて確かめる。
刃。曹操との対峙では、意味をなさなかったものだ。
着物一枚になった張邈が、忙しなく寝台にあがってくる。自分にあるなにかが、この男を狂わせてしまったのか。荒い吐息。恥じらいから、顔を背けたと思われているのかもしれない。ふるえる指。着物を乱される前に、短剣は身体の下に隠した。
「もっと早くに、こうしていたかった。貴殿のように美しい女を、私は知らないのだ。だから、その気高さを自分だけのものにしたいと思っていた。戦に勝てば、それが叶うと信じていた」
張邈の洩らす胸の内の叫び。静かに聞く月の心は、ひたすらに冷えきっていた。
乱雑な愛撫だと思った。外気に晒した乳房を、執拗に揉み込まれている。解き放ってしまった情欲を、どうすればいいかわからないのかもしれない。自分を犯そうとしている男のほうが、かえって苦しそうにしているのである。
滑稽な姿だった。節くれ立つ指が、秘所の入り口を何度も擦っている。その奥側だけは、曹操以外の誰にも犯させない。なにより自分は、最愛の人の子を身籠っているのだ。その命を守るためには、手段を選ばない。一度は憐れんだ男を、殺すことすら厭わない。
決意をもって、月は張邈の背中を撫でていた。
「あっ、んっ……。ごめんなさい、張邈殿。今まで、思いに気づいてあげられなくて」
「そのようなこと、もうどうだっていい。月殿が、こうしてそばにいてくれる。それだけで、私は満足なのだ」
胸の先。強く吸い上げられたせいで、少し痛みが走っている。乱暴なだけで、なにも感じるところがない触れ方だと思った。
荒々しさの中に、自分を気遣う優しさがある。そんな曹操だったから、はじめて結ばれた瞬間から自分は乱れることができたのだろう。感情を殺し、月は男の背中を撫で続けた。なにもかもが違いすぎていて、悲しさがあふれてくる。
乳房の味に夢中になっている張邈。隠しておいた短刀を取り出し、密かに鞘を抜き払った。仕留める時は、一撃で終わらせる。両腕で柄を握り、切っ先の狙いをつけた。
「月殿。私は、もっとそなたと」
二本の腕による感触。それで、抱きしめられているとでも思ったのか。
涼州で暮らしていた頃は、武を振るう機会も少なくはなかった。狩った鹿にとどめを刺すのは、恋よりも自信があるくらいなのである。呼吸の感覚。張邈が息を吐いたのと同時に、刃を押し込んだ。
声にならない叫び。理解が及ばず狼狽する男の身体に、深々と刃先が刺さっている。吹き出す鮮血。間近で浴びるのは、いつ以来なのかわからなかった。
「虚しいお人。せめて、安らかにお眠りください」
ねじ込み、容赦なく急所をえぐった。嗚咽と同時に、張邈が口から多量の血を吐き出した。それでも、眼を背けるつもりはなかった。肩をつかまれる。その力はあまりにも弱々しく、払いのけようとすら思わなかった。
やがて全身から力が抜けていき、言葉を発さない亡骸ができあがっていく。男の着物の端で刀身を拭い、月は変わり果てた張邈を身体の上からどかした。
結局、自分は他者の死から逃れることなどできないのか。汚れた着物を着直すこともなく、月は冷たい表情のまま立ち尽くしていた。
「紅波です、月殿。ここにおいでなら、どうか返事をしていただきたい」
曹操の差配する間者の声。気力を振り絞って応えると、影は瞬時に現れた。
恋を思い起こさせるような、赤い髪。褐色の肌も、今は懐かしいくらいだった。血まみれの自分に驚いたのか、紅波が身体に触れてくる。おそらく、風が行方を捜すように命じてくれたのだと月は思った。
「終わったのですね、すべてが」
「ええ。終わりです、これで。帰りましょう、殿のもとへ」
紅波のかけてくれた声。うれしくて、涙を我慢することができなかった。
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