張邈が死んだ。それも、拍子抜けしてしまうくらいあっけない最期だった。
旗頭をなくした叛乱軍は、さしたる抵抗をすることもなく城門を開けた。引き際さえ間違えなければ、許される。鄄城に来るまでの措置が、よく知れていたのだろう。しまいには、残された張邈の残党にすすんで攻撃を加える者すら出てくる始末だった。
「義理すら果たせぬ連中に、かける慈悲はない。指揮官の首を刎ねよ。それで、兵の命は助けてやってもいい」
「そうされるのがよろしいかと。加えて、張邈さんの陣中にいたついでに、処罰するべき対象を数名書き記しておきました。それで、兗州における叛乱の芽は完全に潰えると言っていいでしょう」
平坦な口調。帰参した
ところどころに戦闘の傷跡を残す城内を、曹操は側近を連れて見分している。少なくとも、数日は民心の安定に力を注ぐべきか。孫堅との対決は喫緊の課題だが、統治は疎かにしていいものではない。それに、徐州との戦から動員したままの兵に、少しは休みをくれてやる必要があった。
「まったく、涼しい顔してえげつないことばかり考えているんだから。だけど、あなたの働きがあったから、私たちは滞りなく作戦を遂行することができた。感謝しているわよ、風。昂のことを含めてね」
「いえいえ、ご主君さまに黙って動かれていたという意味では、
「わかってて言っているんでしょう、あんた……。とにかく、これでようやく孫家と闘う体制が整ったということね。
桂花が話したように、風との無言の連携があったから、戦を早期のうちに終熄させることができたのである。その功績は誇るに値するものではあるが、当人の性格からして表立った褒美を望むことはないのではないか。
謀臣であればこそ、身代は小さく清廉に保たねばならない。そのことを、風は強く意識しているのかもしれなかった。花形ではないが、天下平定のためには欠かせない共謀者。その席を絶やさず用意してやることが、風に対する最大の報い方になるのではないか、と曹操は思っている。
「そういえば、田豊からこちらに向かっているとの知らせがあった。糧食も、いくらか用意してくれているようでな」
「ふうん。よろこんでもいいのよ、一刀。かなり前から、あの子にはちょっかいをかけていたそうじゃない。今なら、堂々と好き放題できるわよ?」
「古い話を掘り起こすな。拗ねているおまえも、嫌いではないが」
「ち、違うってば!? だいたい、あんたみたいな節操なしの行動にいちいち目くじらを立てていたら、こっちの身がもたないっての」
短かった桂花の髪。肩を少し越えるくらいまで伸びていて、先に波打つような癖がついている。
在陣が長引いたせいで、切り揃えている暇もなかったのだろう。そのせいか、風貌がちょっと大人びた印象になっている。
「くふふー。嬢ちゃんと兄ちゃんの夫婦漫才、なんだか懐かしくなってきちまったぜ。相変わらずの、熱々ぶりだねぃ」
「またあんたの寝言に付き合わされるかと思うと、私は今からげんなりしてきたわよ。……けど、おかえりなさい、風」
「おおっ!? これがご主君さまを魅了してやまない、桂花ちゃん特有の緩急というやつなのでしょうか。さすがの私も、どきりとさせられてしまったのですよ」
「うっさい。ほら、さっさと次に行くわよ。視察しなきゃいけない箇所は、まだまだあるんだから」
口を尖らせた桂花が、足早に進んでいく。
所在なく揺れている風の右手。なにも言わずに握り、曹操は小さく頷いている。
†
夕刻。長らく留守にしていた自身の館にもどり、曹操は会談をこなしていた。
降伏した者の反応。それを実際に見て、細かな処遇を決めていく。またしばらく兗州を空けることになるから、この過程で手を抜くわけにはいかなかった。飴と鞭。その両方を使い分け、曹家に帰属していることの重要性を説いていった。
「待たせてしまってすまなかった。しかし、おまえが無事でいてくれてよかった、
「気にしないで。ボクも、こうしていつもの一刀さんとまた会えて、うれしいんだと思う。待つくらい、なんでもなかったよ」
最後のひとりを帰した頃には、あたりはかなり暗くなってしまっていた。篝火。その明かりが、喜雨の笑顔を照らしている。
軍事に関わる気がない娘を、手元に置いていても意味がない。
「ここをわが家だと思い、自由に使ってくれていい。近く、俺も豫州に入ることにはなるがな」
「ありがとう。母さん、一刀さんが来るのを愉しみに待っているよ。珍しく、やる気になっちゃってさ」
孫堅軍が大きな動き見せたという報告は、今のところ入っていない。
「それと、この前あの子が徐州から帰ってきたよ。諸葛亮孔明。陳家の客将って立場は同じだけど、袁紹さんたちとも仲良くやっているみたい」
「ほう? 風向きが変わってきたかな、これは」
袁紹軍への助力。すなわち、それは自分との共闘に他ならなかった。
徐州での闘いを経て、諸葛亮の心境にもなにかしらの変化が起きているのかもしれない。またひとつ、豫州に入る意味が増えた。諸葛亮の示した決断。それは、歓迎するべきものだと言っていい。
少し眠いのか、喜雨が眼鏡をあげて眼の下を指で擦っている。疲れがあって当然だった。母を残し、おのれだけが避難してきている。そうした思いも、どこかにあるのではないか。
「もう休め。話しの続きは、朝になってからでいい。屯田に関して、いくつかおまえの意見を知りたい部分があるのだ」
「うん、わかった。寝食を与えられて、なにも返さないんじゃボクも納得できないし。開墾の仕事だったら、惜しまず協力させてもらうよ」
拝礼し、喜雨がその場から去っていく。
窓の外。静寂に包まれている。空。静かに浮かぶ
「失礼いたします、曹操殿」
声。聞こえていたが、月に視線をくれたままにしていた。
足音が近づいてくる。それでも、振り返りはしなかった。あの時二人で見上げた月も、今のように儚く光り輝いていたのだろうか。そんなことを、曹操は考えずにいられなかった。
「呂布軍への寛大なご処置、感謝しております。理由があったにせよ、叛乱は叛乱でしかない。それを上手く収束に導かれたあなたの手腕と天運、見事なものでした」
述べられていく謝辞。聞きたいのは、そのような言葉ではなかった。
後方。ようやく、声の主と曹操は向き合った。鋭利さを含んだ視線。口は、一文字に結ばれている。
首もと。指で触れると、革のかたさが伝わってくる。自分が送った首輪。変わらないその姿が、そこにはあったのだ。
「着けてくれていたのだな、ずっと」
「ええ。これをしていれば、あなたとのつながりが消えることはない。そんな風に、私は感じていたのだと思います」
冷淡な声が響く。
首輪に触れていた指。動かし、顎の輪郭をなぞっていく。瞳。かすかに揺らめいている。見逃さず、曹操は顔を近づけた。
「あっ、曹操殿……」
わずかな湿りだけを感じるような口づけ。それ以上のことは、不要だと思った。
「おかえり、
「んっ……。ただいま帰りました、一刀さま」
穏やかにほほえむ月。これで、ほんとうに兗州での戦が終わったのだと曹操は実感していた。
卓。月の用意してくれた酒が、ほどよく思考をやわらかに変えていく。先ほどから、飲んでいるのは自分だけのようなものだった。はじめに一度だけ味わってから、月の杯は置かれたままなのである。
「酔う気分ではなかったか?」
「いいえ、そういうわけでは。ただ、一刀さまに知らせておきたいことがあるのです。わかったのは、つい最近なのですが」
そう言って、月は照れくさそうにちょっと俯いてしまう。酔っていないはずなのに、顔が赤い。どうやら、悪い報告ではないようだった。
「一刀さまとのつながりは、いただいた首輪だけではなかったのです。その……、どうやら子ができたようでして」
「ほんとうか? そうか、酒を控えているのはそのせいか」
「私のような女が、母になれるとは思いもしませんでした。それも、お慕いするあなたさまの子を宿すことができるなんて。えっと、その……。よろこんで、くださいますでしょうか?」
酒杯を置き、曹操は椅子から立ち上がった。
戸惑う月。その背後にまわり、腕を伸ばす。
「うれしいに、決まっているだろう。元気な子を産んでくれるな、月」
「はい……。はいっ……、一刀さま」
桂花に続いて、月が新しい命をその身に宿している。たとえ事実であろうと、数年前の自分が知らされても間違いなく信じなかったはずだ。
それは、世の中が絶えず変化していることのあらわれでもあるのか。予想のつかないような未来。それがあるから、人は希望を捨てずに進んでいけるのか。
「生きながらえていてよかった。そのことを、以前よりもずっと強く感じているんです。
「ン……。運命は与えられるものではなく、自分から手繰り寄せるものだ。苦しんでいるのがおまえだったから、恋も必死になって助けようとしたのだろう。そして、かつては敵だった俺でさえも、月と一緒にいたいと思わされている」
「うれしい……。私も、一刀さまのことを深くお慕いしております。この身、そして心までも、あなたさまに縛られていたいと願ってしまうくらいに」
狂おしいほどの思いだった。
抱きしめた身体から伝わってくる熱。ほのかに甘い髪の香り。手放してはいけないものがすぐそばにあるよろこびに、曹操は心をふるわせていた。
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