曹操着陣の知らせが入っていた。
気持ちが落ち着かない。普段以上に喉が渇き、
張邈討伐の手際は、さすがだった。最期は、虚しいくらいの散り方だったと聞いている。戦場で死ぬこともなく、城に逃げ帰った張邈は、何者かによって命を奪われた。顛末を教えてくれた郭嘉が、表情を変えないまま、これでよかったのだ、と言っていたことを朱里はよく覚えている。張邈に秘めた野心があるかぎり、いずれ二人はぶつかることになっていた。それが今回たまたま、自分の誘いによって早期に表出しただけなのではないか、と郭嘉は言うのである。
そこには、慰めの意味もあったのかもしれない。しかし、仮に自分がやらなかったとしても、曹操帷幕の誰かがいつか雌雄を決するしかないような状況を作り出したのではないか、という気にもなってくる。
忠義と愛。その両方を、曹操の麾下たちは主君に対し抱いているのだ。自分も、そうなることができるのだろうか、と朱里は俯きながら思った。忠義も愛も、一方的に捧げることができないわけではない。だが、その空虚さはやがて人を破滅させる。受け取り、返してくれる相手がいてはじめて、その二つの関係はまともに成立するのである。
「行ってみよう、曹操さまのところへ」
会いたいと強く思った。会って、新たな関係を結びたいと思った。
帽子を手に取り、小走りに駈けだす。考えはまとまっていないが、今はどうでもよく感じている。『曹』の旗。乱立する中を抜け、曹操の姿だけを朱里は求めていた。
「あ、あの、すみません」
「んあ? なんだちびっこいの、っとその顔は確か……?」
曹操の陣屋と思わしき場所の前に、殺気立った女がひとり陣取っている。
夏侯惇。曹操軍きっての武闘派であり、深い信頼を寄せられている将軍だった。眼帯。はじめて会った頃には、していなかったものだ。闘いの中、傷を負ったのだろうか。だが、その意匠が無骨なだけではないあたりに、夏侯惇の女性としての側面もよくあらわれていると朱里は思っていた。
「ご無沙汰しております、夏侯惇さん。以前お世話になった、諸葛亮です」
「おお! そうだ、その顔は諸葛亮であったな! 私も、徐州では貴様の世話になった。よろしくやってくれたな、諸葛亮」
「は、はいっ。ですが、そのことに後悔はありません。やるべきだと感じたことを、私はやりきりましたから。劉備軍のみなさんも、それは同じです」
威圧するような闘気。浴びせられても、尻込みだけはしたくなかった。
丹田に力を入れ、朱里は夏侯惇の顔を真っ直ぐに見つめた。
「あははっ! そう、怖い顔をするものではない。防御を抜ききれなかったことは悔しいが、殿の御意志こそが私のすべてだ。よって、貴様に特段思うようなところがあるわけではない。一度は、飯をともに食った仲でもあることだしな」
「ありがとうございます、夏侯惇さん。みなさんのおやさしさは、なにも変わっていないんですね」
後腐れなく笑う夏侯惇。
なにもかもが、懐かしく思えてくる。夏侯惇や曹洪と一緒になって食した粥。あたたかく、特別な味わいがあったように記憶されている。
「曹操さまと、お会いしたいんです。なにとぞ、お取次ぎください、夏侯惇さん」
頭を下げ、朱里は願い出た。
すぐそこに、曹操がいるのだ。気持ちが急く。それでも、夏侯惇の返答をじっと待った。無言の時。なにか、不備でもあったのだろうか。腰を折った体勢のまま、夏侯惇の表情を覗いた。困惑。もしくは、逡巡しているというべきなのか。
ゆっくりと頭をあげる。頬をかく夏侯惇。いい予感は、少しもしなかった。
「承知したと言ってやりたいところだが、荀彧と内々のことを相談されている最中であり、殿からは誰も入れるなと命じられているのだ。ご命令に背くこともできんし、なによりあの女の機嫌を損ねて、面倒になるのはおまえも本意でなかろう。だから、今はやめておけ。言っておくが、どれだけ無理強いされても、応じてはやれんからな」
「ふむ……? 荀彧さん、ですか」
荀彧。古参の軍師であり、曹操の第一子を産んでいることからも、その寵愛ぶりは理解できる。袁紹との結合。その仕掛け人となったのも荀彧なのだと、郭嘉から聞いている。
曹操に対する態度は横柄だが、その裏側にある忠誠心には計り知れない大きさがある。武人気質の夏侯惇が制止するくらいなのだから、それは余程のものなのだろう。
ここは、一旦引き下がるしか道はないようだった。もどって、気持ちを整理してから出直すべきなのか。残念ではあったが、現在だめだからといって二度と会えなくなるわけでもないのだ。
「わかりました。では、私は一度帰ります。いつ頃、出直せばよろしいんでしょうか、夏侯惇さん」
「うーむ。わからんが、少なくとも夕刻前には終わっていると思うぞ。袁紹殿とも、殿は会われるおつもりであるしな」
「なるほど。ありがとうございます、夏侯惇さん。それでは、またあとから伺います」
再度頭を下げてから、朱里はその場を立ち去った。
あてが外れた分、募る思いがある。曹操の声。意識を集中させてみても、聞こえることはなかった。
†
日暮れ前。赤い空が、原野を照らしている。
意を決し、朱里はもう一度曹操のいる陣屋に向かっていた。先ほど、袁紹が帰還したという報告も受けている。さすがに、荀彧との相談は終わっていると思いたかった。
炊煙がいたるところに上がっている。失念していたが、手料理でも持参してくればよかったように思う。曹操も、小腹が空いている頃なのではないか。なにより、うまい食事には人の心を開かせる効果があるのだ。
「あら、あなたは?」
声がする。それも、どことなく聞き覚えのある声だった。
特徴のある金髪。先陣では珍しいくらい気を使った服装。そして、やけに情熱的な視線が、自分に向けられている。
「まあまあ! やっぱり、諸葛亮さんではありませんか。曹洪です、覚えていてくださいますわよね?」
「あっ。これは、曹洪さま。もちろん、忘れるはずなんてありません。気にかけてくださったこと、今でもはっきりと記憶しています」
「ああっ……。わたくし、感動のあまり泣いてしまいそうですわ。ですが、ほんとうによかったと思います。諸葛亮さんと、またこうして気兼ねなくお会いすることができているんですもの」
興奮気味にまくし立てる曹洪。ちょっと気圧されてしまいそうになるが、気持ちはありがたかった。
右腕。曹洪が、両手でつかんでくる。また、嫌な予感が朱里の胸の内に去来している。絶対に逃さない。溌溂とした笑顔の奥に、そんな意志が見えるようだった。想像以上に力が強く、やんわりと振りほどくことなどできそうにはなかった。
これは、どう考えてもまずい流れなのではないか。
焦りばかりが、朱里の中に生まれている。
「うふふっ。せっかくの再会ですし、一緒にお食事でもいたしませんか? 善は急げとも申しますし、早速……!」
「やっ、あのっ、曹洪さま……! はわっ、はわわっ……!?」
為す術もなく、朱里は連れて行かれてしまう。
曹操の陣屋。見る間に遠ざかっていく。叫びに近い朱里の声。夕焼け空に、吸い込まれていくようだった。
様々な歓待を受け、解放された頃にはすっかり夜が更けてしまっていた。
静まり返る陣内。うなだれるように、朱里は歩いた。
「はあ……。曹操さま、もうお休みになっているよね。明日になったら、ちゃんとお話しできるのかなあ」
呟き。結局、目的を果たすことは叶わなかった。
このまま、ずっと会えずじまいで時が流れてしまうのではないか。悪い方向にばかり、思考が傾いてしまう。
前方。ぼんやりとだが、人のかたちのようなものが見えている。少しばかり身体を緊張させ、朱里は進んだ。
「こんな夜中に、陣中でなにをしている」
「ご、ごめんなさい。私、曹洪さまのところに行っていて、って……あれっ?」
詰問するような口調。驚きながら、朱里は事情を説明した。
近づくにつれて、姿がはっきりと浮かび上がってくる。間違えるはずもない。そこにいたのは、会いたくて仕方がない人だった。
「諸葛亮。なんだ、ここにいたのか」
「えっ? あのっ、曹操さま……?」
「話をしたくて、おまえを捜していた。営舎で見つからなかったゆえ、少し心配したぞ」
「私を、曹操さまが?」
「夏侯惇から、訪ねてきてくれたことは知らされている。袁紹とも会っていたから、どうしても遅くなってしまった」
声。出そうとしたものが、喉で詰まる。
暗闇のせいで表情ははっきりとしていないが、曹操の声音はひどくやさしかった。
「ここからなら、俺の陣屋に行くほうが近い。来てくれるか、諸葛亮?」
「ぜ、ぜひにっ! でも、ほんとうによかったです。曹操さまと、私もうお会いできないんじゃないかって」
「ははっ、なんだそれは? こんなにも、近くにいるのだぞ。嫌でも、いずれ顔を合わせることになる」
曹操の笑い声が響く。
安心感を与えてくれる快活さ。徐州を攻める前に宿していた暗い雰囲気は、捨て去ったようだった。
陣屋に着くまでのことは、あまり記憶になかった。緊張のしすぎで、ほとんど会話できなかったように思う。
勧められた胡床に座る。曹操は、自ら篝火を灯して回っていた。
「よく来てくれたな、諸葛亮。しかし、以前話した時から、俺の考えに変わりはない。それでも、力を貸してくれるのか」
「実際に闘ってみて、やっとわかったんです。理想だけでは、国は守れないのだと。様々な人が力を合わせ、一方を向いて物事を進める。劉備さんたちの協力があって、徐州ではそれができました。そして、もっと大きな単位で実現しようとするのなら、その中央にはより多くの人心を集める覇者が立つ必要がある。そのような重荷を託せるのは、きっと曹操さまだけなんです。ほかの誰かでは、務まるはずがありません」
溜飲が下がる思いだった。ようやく、たどり着いた答えをぶつけることができたのである。
曹操の瞳。深い色をしていて、他者を魅了するような力があるのか。
「真名を預けたい」
曹操が、短く言った。
間違いなく、これは誓いの儀式となる。被っていた帽子を取り、朱里はその場で拝礼をしていた。真名を交わすことで、曹操と自分は主従となるのだ。
巡り合うことを願っていた良君。兄のようなやさしさをくれる、憧れの人。つばを飲み、朱里はその時を待った。
「一刀だ。とっくに、知っているだろうがな」
「朱里です、一刀さま。未熟者ではありますが、精一杯お仕えする所存です」
「ン……。おまえにそっぽを向かれないよう、これからも励むつもりだ。よろしく頼む、朱里」
「も、もったいないお言葉です。私の方こそ、もっとたくさん知るべきことがありますから。んっ、そのっ……」
緊張が解けると、急に二人きりだということを意識してしまう。
曹操は、自分のことをどう思ってくれているのだろうか。個人的なつながりも、深めたいと感じてくれているのだろうか。
「今夜は、ここで寝ていくか? 夜も遅い。寝所にもどるのも、面倒だろう」
「はわっ!? か、一刀さま、それはつまり……?」
「案ずるな。なにも、おまえを襲おうというのではない。なんなら、俺は地べたで寝てもいいのだぞ?」
「い、嫌じゃありません! むしろ、一緒に寝てみたいというか、その……」
「それはありがたい。できれば、俺も一晩くらいゆっくり休みたいと思っていたところだ」
どこまで本気なのかわからない。曹操に翻弄されるがまま、朱里は寝台に横になった。
小さな子をあやすように、曹操が背中をやさしくたたいてくる。心地いい眠気。それでも、少しは反撃しておきたいと思った。
「あの、一刀さま」
声に促されて、曹操が自分に顔を向ける。
伝えたい思い。あふれる感情。言葉にしようとするとむずかしい。だから、行動で示すことにした。
「んっ、ちゅっ……」
自分から、曹操の唇に口づけた。はしたない子だと思われるかもしれない。それでも、好きだという思いをはっきりさせたかった。
「ン……。おやすみ、朱里」
「あっ……。おやすみなさい、一刀さま」
曹操の見せた笑顔の意味。考えてしまったせいで、しばらく眠れなかった。
好きになった人と口づけ、同じ寝台で眠る。ちょっとだけ、大人になったという達成感がある。
どうか、今日あったことのすべてが夢でありませんように。祈る朱里は、曹操に抱きつくようにして眠っている。