徐州へ向かう軍勢。その中で、
曹操の決断は早かった。豫州戦線は、再度袁紹に一任されている。孫堅は間違いなく攻勢に出てくるのだろうが、徐州で孫策が勝てば挟撃を受けるおそれが一気に高まってしまうのだ。
夏侯惇軍をはじめとする、主だった部隊は残留することになっている。いかに精強な曹操軍でも、主力をほとんど欠いた状況では孫堅とのぶつかり合いはむずかしくなる。
少し後方を駈ける曹操。絶影に乗せてもらっている
愛紗からしてみても、ここまで早い再会は予想していなかった。それでも、素直によかったと思えている。小さき軍師は求めていた主君をようやく得て、天下に羽ばたこうとしているのだ。以前の間柄などわずかにも気にせず、曹操は懐深くに取り込んでしまう。柔軟さと大胆さ。そして、登用を許容できる家中の結束。その二つがあるから、曹操軍はここまで拡大してきているのだろう。
「たのむぞ、赤兎。私とともに、姉上を救ってくれ」
燃えるような体毛。荒々しいくらいの脚遣い。それでいて、赤兎は人の意を解しているかのような振る舞いを時々見せるのだ。
名馬の中の名馬。赤兎に匹敵する馬とは、生涯まず出会えないのではないかと思えてくる。一時だけの主従関係。しかし、武人として心に滾るものがあるのは確かだった。
「関羽の言葉があったから、
出立前、ふらりとあらわれた呂布がそう言ったのだ。
自分の与えたちょっとしたきっかけが、勇気となって天運を引き寄せた。あの純粋な瞳を向けられると、ほんとうにそうなのかもしれないと思えてくる。際立つ武威。軍人としての才覚。だが、呂布が曹操の寵愛を受けている理由は、それだけではないのだろう。
深紅の曹旗。呂布軍の誇りと魂が、今やそこに宿っている。その輝きが、愛紗には少し眩しいくらいだった。
なにをすれば、自分に対する最大の報恩になるのか。そのことを、呂布は考えていたようだった。
「ちょっと寂しくなるけど、赤兎を貸してあげる。好きな人を助けたい。その気持ちは、恋にもすごくわかるから」
差し出された手綱。その時に見た赤兎の透き通った
試しにひと駈けしてみて、馴染み具合に驚いた。赤兎も、自分が騎乗することを歓迎してくれている。そう錯覚してしまうほど、慣らしはすぐに済んだのだ。
「赤兎の子が産まれたら、真っ先に教えてもらわねばな。恋もそうだが、その馬の気高さは愛紗にもよく似合っている」
「そ、そうなのでしょうか? ですが、恋にも相談してみようと思います。ほんとうに稀有な存在ですよ、赤兎は」
曹操からの提案に、愛紗は頷いていた。しかし、この馬に見合う牝など、そう簡単に見つからないのではないか。次代の誕生は、気長に待つしかなさそうだな、と愛紗は思う。
赤兎を借り受けたのと同時に、呂布とは真名を許し合っていた。かつての強敵。これからは、曹操を主君として戴く同輩となるのだ。
「下邳への救援、先鋒は愛紗さんにお任せすることになると思います。ご自身の軍旗に加えて『曹』の旗を堂々とかかげ、進軍なさってください。それで、桃香さんにも一刀さまの意図がはっきりと伝わるのではないでしょうか。鳳統ちゃんもいることですし、孫策軍への連携した攻撃を狙うことも可能ではないかと」
「うむ。朱里の考えに、異存はない。援軍の到着を、桃香さまは心待ちにしておられる。一刀殿直々の御出馬とあれば、およろこびは尚更のことだ」
徐州を早期に離れたことに対する後悔を、朱里は一度も口にしていなかった。
背中を押した自分たちへの気遣い。それに、あの日旅立っていなければ、今のように曹操と距離を縮められていたかわからないのである。
絶影の手綱を操る曹操。朱里に向けられている眼差しは、やさしかった。
兄上。思わずそう動きそうになった口をなんとか抑え、愛紗は咳払いをする。なんとなく気恥ずかしくて、二人でないと『兄上』とは呼べずにいたのだ。それに桃香への正式な報告も、まだできていないのである。そのような状況で、自分だけが浮かれているわけにはいかなかった。
「部隊の動きは馴染んできているか、愛紗?」
「はっ。元来よく調練を積んできているのが、少し動かしただけでもわかります。
「兵たちにも、関羽雲長の武名は浸透しているようだ。それが味方になったのだから、やる気にもなる」
「むう……。一刀殿は、そうやってすぐに私をおだてようとされるのですから。ですが、ご期待には応えたいと思っています。曹操軍には、才ある軍人がすでに多数在籍されている。とはいえ、その後塵を拝する気など微塵もありません」
「ははっ。いい眼をしているな、愛紗。孫策は強いが、伸びた戦線を分断されれば退却するしかなくなる。短期で戦の勝敗を決するなら、それしかあるまい」
厳粛な響きを持った曹操の声。
撃滅を目標としなければ、防衛側である自分たちに取れる戦法は多くあるのだ。孫策が、どこまで徐州攻略に固執しているのかは不明である。だが、もっとも重視しているのが揚州の完全制圧であることは明確であり、必要以上の無理はしてこないだろう、というのが曹操や軍師たちの見解だった。
「赤兎も、闘志をみなぎらせております。中入りが必要とあらば、是非とも私に御命令を」
「おまえの気持ちはありがたいが、そう逸るな。まずは、敵軍の包囲を崩し、桃香たちを助け出す。すべては、それからだ」
赤兎に負けじと、絶影が前へ前へと脚を出している。
落ち着き払っている乗り手との差異。それがどこかおかしくて、愛紗はひとりでに小さく笑っていた。
†
孫策軍による攻囲が続いている。城内に動揺がないわけではないが、まだ抑えられる範囲のものではある。
一日に数度城塔に登り、援軍の姿を探す。ここ最近になって、桃香が日課のようにしていることだった。
関羽雲長の不在。それが、軍の士気に与える影響は小さくない。多くの負担を、義妹である鈴々が受け持つような状態になっている。そうなることがわかっていても、派遣するしか道はないと思った。
曹操の好意だけに期待するわけにはいかない。自分の側から覚悟を示し、最後にはその判断に身を委ねるしかないと桃香は決めていた。
城塔から眺める景色。これまでと変わりなく、無数にひしめく『孫』の旗が見えるだけだった。大将である孫策、それに太史慈といった勇猛な指揮官に率いられ、敵軍は旺盛な士気を維持していた。
城から密かに打って出て、奇襲をしかけてみてもいいのかもしれない。籠城の初期段階に、雛里が進言してきたことだった。
反撃の機会がくるまで、兵を無駄に損ずるべきではない。それが、桃香の出した結論だった。援軍は必ずくる。義妹を、そして曹操を信じるのなら、それ以外の答えなどありえなかった。
「孫策さんの兵の姿しか、まだ見えないか」
ひたすらに到来を待ちわび、祈るように天を見上げた。
今のようなことを、以前にもしていたことがある。天の御遣い。流星に乗ってあらわれ、乱れた世の中を泰平に導くという存在だった。
四方山話にしか出てこないような英雄を、本気になって三人で探し回った。純真無垢な鈴々でさえ途中で疑念を抱くような有様で、最後まで信じていたのは自分だけだったのかもしれない。今となってはいい笑い話になっているが、その時の気持ちを桃香はなぜか思い出していた。
「えっ、あれって……」
包囲の一角。わずかに、揺れが見えていた。配置の転換などではない。それにしては、巻き上がる土煙の量が多すぎるように思えていた。
緊張が走る。履いている剣の鞘。握りしめたまま、桃香はつま先立ちになって原野を見渡そうとしていた。
誰かが、城塔に駈けあがってくる。鈴々だった。胸の前で握りこまれている拳。身体は、今にも飛び出してしまいそうなくらい揺れに揺れている。
「きたのだっ! ほんとのほんとに、きてくれたのだっ!」
興奮のしすぎで、鈴々の言葉には主語がない。
ただ、そうなっている理由などひとつしかなかった。
「出番だよ、鈴々ちゃん。ずっと我慢してもらっていたのは、全部この瞬間のため。部隊のみんなを、いつでも出撃できるようにしておいて。時期を計るように、雛里ちゃんには伝えておくから」
「応! よぉーし、鈴々がんばっちゃうもんね!」
やってきた時の勢いのまま、鈴々が去っていく。
好機となれば、自分も部隊を率いて戦場に飛び込む必要がある。気持ちの準備は、早くからできていた。
「ありがとう、一刀さん、愛紗ちゃん。ずっと、ずっと待ってたよ」
土煙の方向をじっと見つめる。
『曹』の一字の旗と一緒になって駈け参じる愛紗。その姿が、桃香にははっきりと見えていた。