穏やかな時間の流れ。行き交う人々の姿を、大路の外れから
帰ってきた。この景色が自分にとっての日常となったのは、果たしていつからなのだろうか。腕の中に抱いた昂。あどけない笑みを見せられると、つい釣られて笑ってしまうのだ。そんな自分を見て、
権力闘争に明け暮れた日々。ついにはすべてを失い、一度は董卓という名すら完全に捨て去ったのだ。紡ぎ直した曹操との縁。それが、暗く沈んでいた世界を一変させたと言うべきなのだろう。
「ああ、ここにいたのだな、月。どれ、昂はお行儀よくしているか?」
「これは、
「ははっ、それはなにより。あの
「はいっ、秋蘭さま。えへへっ、冀州で長く一緒にいたせいか、なんだか弟のように思えてきてしまって」
昂が小さな手を精一杯振っている。そこに
両人ともに、旅の装いをしている。近く鄄城を空けることは聞いていたが、どうやら今日がそうらしい。
「その格好から察するに、以前よりおっしゃっていた、幽州へのお出かけですか?」
「うむ。機会としては、ちょうどいいのではないかと思っている。旧知である劉備が、殿への臣従を表明したのだ。そうなっては、公孫賛殿とて無関心ではいられまい。影響は、間違いなくあるだろうさ」
曹操から留守居を任された秋蘭は、その意向を受けて外交に乗り出している最中だった。
兗、冀、そして徐の三州が一体化したことにより、挟まれるような格好となった青州はいち早く恭順を申し出ている。その抑えとして、先日
かつて曹操を苦しめた青州黄巾軍。その本拠でもあった地が、ついに傘下に入るのである。土地はかなり荒れているようで、立て直しは急務となってくる。日をおいて、民政を担う文官たちも派遣されることが決まっていた。
幽州は、中原の争いに加わらず独自の勢力を保っていた。州を取りまとめていた劉虞が死去してからは、公孫賛が立場を受け継ぐようなかたちになっていて、袁紹の動向に気を揉みながらもこれまで独立を貫いてきたのだ。
「ふうん。しかしまあ、公孫賛殿も忘れられていなくてほっとしているんじゃない? 影は薄いほうだけど、地力はあるみたいだしね。幽州の地を、烏丸の侵略からきっちり守りきっているのだもの」
「前に共闘した時も、殿とはうまく連携されていた。それで、っと……」
そこまで言って、秋蘭が言葉に詰まる。
曹操と公孫賛の共闘。すなわち、それは反董卓連合での闘いを意味しているのだ。
今更、そんな気遣いをしてくれなくていい。ちょっと表情をかたくする秋蘭に、月は笑いかけていた。詠も、同様に考えているはずである。過去にあった争いが、ひいては今の自分たちの関係をつくっていると言っていい。そこに、後悔は少しもなかった。
「んんっ……。ともかく、殿は公孫賛殿の手腕を高く評価しておいでだ。異民族との闘いは、この国最大の懸念事項でもある。殿は、目先の闘いにばかり気を向けておられるわけではない、ということだ」
「それは、私もよく存じ上げております。次代には、より良き国を託したいですから」
「むう。その感覚を、私も早く教えていただきたいものだ。体調は、落ち着いているのか?」
「はい、おかげさまで。詠ちゃんが、普段の三倍増しくらいで支えてくれていますから」
「ちょ、ちょっと、なんてこと言ってくれるのよ月ぇ!?」
突然大声をあげたせいで、詠が衆人の注目を集めてしまっている。
面倒に巻き込まれては敵わないから、と秋蘭が冗談交じりに手を振り去っていく。
曹操に従う影が見守ってくれているものの、大事を避けるに越したことはなかった。恥ずかしそうに俯く詠を連れて、勝手知ったる道を進んでいく。
もう少し行けば、馴染みの茶屋が見えてくる。昂も疲れてきた頃合いだろうし、そこで休んでいくつもりだった。
「よう。そこのあんた、ちいっと待ってくれないかい」
「はい。私に、なにか御用でしょうか」
茶屋まであと数歩、というところで足留めを受けた。
外套を着用しているせいでわかりにくいが、声をかけてきた相手は女だった。背は高く、佇まいには油断できない類のものがある。
どうすべきか迷ったが、ひとまず害意はないと判断した。襲うつもりなのであれば、わざわざ声をかける必要はない。現状を鑑みれば、人の多さを利用して、すれ違いざまにしかけるのが最も理にかなう方法だった。
それに、女の従者らしき少女には、なんとなく見知った者の面影がある。栗色の髪。それが、頭の後ろで束ねられて馬の尾のようになっていた。
頭を覆っていた布。取り払われ、全貌が見えてくる。乱雑にまとめられた長髪。やはり栗色で、それは一族の人間だという証のようにも思えてくる。
涼州の荒々しい風が、一陣吹き抜けたような気がしていた。馬騰。眼前に立っているのは、間違いなくその人だった。
馬超の母であり、故郷では名の知られた将軍だった。近頃は漢室への忠義に覚醒め、悪党のごとき振る舞いも落ち着きつつあると聞いている。
「馬騰殿、で間違いないようですね。お変わりなく、過ごされているようで」
「やはりそうだったか。他人の空似かとも思ったが、追いかけて正解だったようだ。それはおまえの子か、董卓?」
「いいえ。旦那さまは同じお方ですが、私の子はまだこちらに。それと、私のことは董白とお呼びください。そちらの名も、旦那さまからいただいたものです」
そう言って、腹のあたりを擦ってみせる。まだふくらみはほとんどない。それでも、命の重みを実感せずにはいられなかった。
自分の今の姿に興味を持ったのか、馬騰の大きな眼がやけに細まっている。
「董白? はははっ。面白いではないか、まったく。死んだはずの女が生きていた上に、ややこまで宿しているとはな。当ててやろう。おまえの言う旦那さまというのは、曹操ではないのか?」
「よく、お分かりになりましたね。隠す意味もありませんし、そうだと言っておきましょうか」
「ふん……。おまえのような訳ありを、誰がまともに扱えようか。それこそ、あやつのような女狂いでなくては話になるまい」
曹操に対して棘がある。たぶん、それは気のせいではなかった。
娘のこと。そして、天下の行く末のこと。そのすべてに、曹操は絶大な影響を与えていると言ってよかった。
「しかし、遠方からお出でになって、お疲れなのではありませんか? ずっと立ち話というのもなんですし、あちらのお店に入るのはどうでしょうか、馬騰殿。いい茶葉を使っていて、私も気に入っているんですよ」
ここで、面識のある自分が出会ったのもなにかの縁なのではないか。曹操不在の状況で、騒ぎを起こされるのも面倒なのである。
まずは、話を聞いてみるしかないと月は思っていた。
「へえ、そうなんだぁ。ねえおば様、せっかく誘ってもらってるんだし、お茶していこうよ? ずっと歩きっぱなしで、私疲れちゃった」
「ああ? ったく、だらしのねえやつだな。旅の間に、もっと厳しく鍛えてやりゃあよかったか。それとも、今ここで稽古をつけてもらいたくて。そんな甘えたことを抜かしてるんじゃねえだろうな?」
「うげっ……。そ、それはひとまず置いといて、ねっ……?」
馬騰による鍛錬がおそろしいのか、少女が詠の背中に隠れて様子を伺っている。
翠とはちょっと違う天真爛漫さに、毒気を抜かれた気分だった。こちらは純粋に、中原の景色を愉しんでいるようなのである。
苦笑する詠を引き連れて、店に入った。渋々といった感じに、馬騰も遅れてついてくる。
知らない顔が二つ増えても、昂はどこ吹く風といった調子で服の袖と戯れている。桂花は気に入らないかもしれないが、曹操の子として必要な度胸はこれまでの成り行きのおかげでついてきているようだった。
昂を詠に任せて、月は馬騰と向かい合っている。迫力は相変わらずだが、いちいち怯んでいてはきりがない。それに、空気が張り詰めるような場面は、人並み以上に経験してきているつもりだった。
「私は馬岱。馬超お姉さまとは、従姉妹の関係なんだ。よろしくね、董白さん、賈駆さん」
「ああ、どうりで。馬超がおてんばな従妹がいるって話していたけど、それがあなただったのね」
「ええー? お姉さまったら、人が知らないと思ってそんな風に言ってたの? 今度会ったら、抗議しておかなくっちゃ」
翠の言葉を思い出して、詠が笑っている。昂をあやす姿も、随分板についてきたものだ。
自分に対する評判が不本意だったのか、馬岱が太い眉を中央に寄せつつ口を尖らせている。
仕草に感情があらわれるところなどはそっくりで、姉妹だと言われても違和感はなかった。気のおけない物言いから察するに、実際そのくらいの関係ではあるのではないか。
「しばらくもどってきそうにないか、曹操は」
「どうでしょうね。孫堅を、一度の戦でどうにかできるとは、あの方も考えてはおられないでしょうし」
「あの女も、おまえと同じでしぶといものだ。戦場で斃れたと聞いて、さすがに天運が尽きたと思っていたのだが」
静かに茶をすする馬騰。
孫堅とも、顔を合わせたことがあるらしい。窓の外に向けられた眼。どことなく、遠くを見つめているような感じがする。
「陣借りならば、歓迎されると思いますが。馬騰殿の武威、中原に知らしめるのも案外悪くはないのかもしれません」
「抜かせ。第一、曹操に肩入れしてどうなる。涼州は、漢室は、それで繁栄を得られるのか」
「曹操さまの眼は、国の外にも向けられています。動乱の平定は天下の大事ですが、それでなにもかもが終わるわけではありません。むしろ、ほんとうのはじまりはそこからなのでしょうね」
「ちっ……。異民族との闘いに長けたわれらを、曹操は高く買うと言いたいのか、おまえは?」
「左様で。それに、あなたのご息女の働きもありますから。涼州が蔑ろにされることなど、まずあり得ません」
漢室の今後については、あえて触れなかった。
限界など、自分が政権を握る前からとっくに迎えている。消えかけた命運。なんとか引き延ばせているのは、この国に新たな覇者が生まれていないからに他ならなかった。
その座を、二人の英傑が争っている。曹操と孫堅。どちらが勝つにせよ、漢室はその役目を終えるのだろう。
「そうだ! お姉さまってば、家出して帰ってこないと思ってたら、ちゃっかりいい人をつかまえてるんだもん。手紙にはそんなこと書いてなかったけど、そうなんでしょ、董白さん?」
「ふふっ。仲がいいのは、間違いないかな。偶然の出会いが、その人の生涯を決定づけることもある。馬超さんにとって、曹操さまとの出会いがそうだったんだろうね」
馬岱が眼を輝かせている。従姉の動向が、気になって仕方がないのだろう。
偶然の出会い。時が経てば、やがて必然だったようにも思えてくる。
闘志に満ちた視線。命を賭してでも、覚悟を体現しようとする姿勢。そのどちらにも、自分は惹かれている。あの人の血を受け継ぐことができて、誇らしいとさえ思えてくる。
「うわー、なにそれっ! あの男っ気のなかったお姉さまがころっといかされちゃうだなんて、きっとすごいんだろうなあ、曹操さまって」
「さっきからでけえ声出しやがって、ちったぁは静かにしやがれってんだ」
「だ、だってぇ、おば様だって曹操さまに会ってみたいんでしょ? 娘の相手がどんな人なのか、気にならないわけないよね?」
馬岱の言葉にちょっと黙り込み、馬騰は先ほどのように茶を口に含んでいる。
正しさを感じていなければ、苛立ちが生まれることはない。
涼州にいたままでは、どうあがいても答えが出ることはないのだ。それが理解できているから、馬騰はここまで旅してきたのではないか。
「いかがでしょう、馬騰殿。やはり、豫州に向かわれてみては。曹操さまとお会いになりたいなら、それが確実です」
「けっ……。余裕ぶってくれるじゃねえか、董白」
「きっと、気に入られると思います。ご息女のお相手として、申し分ないお方ですよ、曹操さまは」
「その曹操のややがいる女から聞かされても、説得力にかけるってんだ。ああ、ったく……。馳走になった。行くぞ、岱」
いきなり立ち上がり、馬騰が言った。
茶の代金は、どうやら支払ってくれるらしい。その程度の力には、なれたと思いたかった。
あとは、実際に会ってみなければなにもはじまらない。翠も、きっとそうなることを望んでいるのだろう。
「ええー? もうちょっと、ゆっくりしていこうよー? まだまだ、いろんなお話聞かせてもらえそうなのに」
「やかましい。日が暮れるまでに、ここを出立する。旅の準備だ、おまえも手伝いやがれ」
「あうう。わかった、わかったからそんなに引っ張らないでぇ……!」
馬岱の涙声。入り口から、二人の姿が消えていく。
静けさをとりもどした店内。冷めた茶を、月はゆっくりとした動作で喫している。