『孫』と『曹』の旗が、原野を埋めている。展開する軍勢の中。愛剣を抜き放ち、
曹操はこれまでの戦と同様に、夏侯惇と趙雲の二人を先鋒に命じたようだった。決して楽に勝てるような相手ではない。夏侯惇は直線的な戦を得意としているが、その突進力には図抜けたものがある。おそらく、複雑な動きを与えるようなことを、曹操はしていないのではないか。柔軟な戦は趙雲に任せ、夏侯惇には思う様暴れさせる。そのかたちが、結局相手にとってもっとも脅威となるのだ。
「陸遜。全体の指揮は、貴様と権に任せたぞ。オレは前に出て、曹操の首でも奪ってきてやろう」
「御意です。ですが、あまり無茶はなさらないでくださいねー? 孫権さまがご心配のあまり、戦に集中できなくなると本末転倒ですので」
「フンッ、知ったことか。戦場に出る以上、オレは死んだものだと思っていろ。曹操とて、その覚悟を持ってぶつかってくるぞ。そんな奴を相手に、軟な戦をしていられるか」
「むぅ……。それはそうなのですけどぉ……」
「死すら超越した先にしか、生はない。そのことを、一番知っているのがオレじゃねえか」
ちょっと不安そうな
疾走する一万二千の兵。先行していた
『曹』の旗。間近に見えている。雄叫び。無茶をしてくれるなと言われているが、なにをすれば無茶になるのか。敵兵を瞬時に数人斬り殺し、炎蓮は燃えるような吐息を洩らしている。
「ハハハッ! いいぞ、どんどん来やがれ。片っ端から、オレが死なせてやる」
鮮血。浴びながら、炎蓮は周囲を見渡した。
敵将孫堅がすぐそこにいる。わかりやすいくらいに、暴れてやっているのだ。目の色を変えた曹操軍の兵。自分を討ち取ることができれば、それこそ莫大な褒美が主君から与えられるに決まっていた。
戦列に乱れが生じている。校尉どもがどれだけ制止しようと、手の届く範囲に獲物がいるかぎり、勲功に飢えた兵卒が足を止めることはない。
「もっとだ、もっと来い」
開戦早々、かなりの乱戦になっている。思春の部隊も趙雲相手に激しくやり合っているようで、熱気がこの場にまで伝わってくるようだった。いたるところから叫びが聞こえ、血風が吹き荒れる。休む間もなく、炎蓮はなだれ込む敵兵を斬り続けている。
中央にいる自分に眼が向いていれば、それだけ両翼が動きやすくなる。あるいはこのまま夏侯惇たちを翼の内側に引き込み、撃滅するのも悪くはなかった。左右には、それぞれ
拮抗している闘いでこそ、経験は活きてくる。蓮華や穏もそれなりにはやるようになったが、学ぶべき事柄はいくらでもあると言っていい。少し上の世代とはいえ曹操などは、乱世に揉まれに揉まれて器量を際限なく大きくしているのである。
「待たせたな、孫堅。私の麾下を散々弄んでくれた礼、ここできっちり返してやる」
「威勢がいいのが来やがったか。ちょっとは愉しませてくれるのだろうな、夏侯惇?」
兵の間を割って、黒馬に乗った女が飛び出てくる。
特徴的な眼帯をしていて、背の高さほどある大剣を片手で軽々と扱っている。直接見えたことはなかったが、夏侯惇は蓮華から聞いていたとおりの女のようだった。
「その軽口、私の剣で塞いでやろうではないか。覚悟するのだな、孫堅」
大剣を構え、夏侯惇がぶつけるような勢いで馬を走らせる。
刺すような殺気だった。右手で南海覇王を構える。そのまま斜め左に前進し、一合打ち合った。
凄まじい剣圧。かなりの使い手であるというのは情報として知っていたが、実際に闘ってはじめてわかるものはやはりあるのだ。本能の昂ぶり。抑えようとして、抑えられるものではなかった。
流れに乗って打ち返す。片眼を失っていようが、ほとんど影響はないらしい。それとも、問題がないようにするために、激しい鍛錬を重ねてきたのか。どちらにせよ、自分に相応しい敵だと炎蓮は思った。
「まだまだあっ! 孫堅文台を討たねば、殿の覇道は完遂されんのだ。だから、私はっ」
「ほう。であれば、オレは貴様を跳ね飛ばし、曹操のもとに向かうとするか。ククッ……。閨での腕前はそれなりだったが、剣のほうも見てやらんとな」
「なんだとぅ……!? 孫堅、貴様に殿のなにがわかる。知ったような口を、きかないでもらおうかっ!」
武人として秀でているが、夏侯惇にはやはり若さがある。
心の乱れ。それは、確かに剣筋にまで影響する。かすかな揺れではあったが、見逃さず炎蓮は切っ先を突き出した。
「ぐぬっ……。やってくれるではないか、孫堅。この私を、偽りの言葉で動揺させるとはなぁ!」
「ハッ、誰も嘘だなんて言ってねえだろうが。あとから、自分で曹操のやつに確かめてみるといい。もっとも、この場を切り抜けられなければそれも叶わねえがなあ!」
自身に勢いが向いている時は、押しに押すにかぎる。
そろそろ、両翼の騎馬隊が動き出している頃合いなのか。曹操麾下にも馬超や呂布といった名うての将軍がいるが、中原進出を見越して騎馬は鍛え上げてきたつもりなのである。それだけに、誰が相手であろうと五分以上の戦ができるという自信があった。
「孫堅、口の減らない女めっ……」
「最初の威勢はどうした、夏侯惇? こんなもんじゃあ、オレは死んでやれねえなあ!」
剣を横に寝かせ、炎蓮は右腕に力を込めた。狙うは、苦虫を噛み潰したような夏侯惇の顔。
この一撃で終わるようなら、その程度の女でしかなかったということだ。片方だけになった眼が見開かれている。ちょっと笑みを浮かべて、炎蓮は南海覇王を振り切った。
†
大軍同士のぶつかり合い。小高い丘のうえに登り、馬騰は戦況を見つめていた。
最初に戦闘がはじまった中央では、かなりの混戦が繰り広げられている。孫堅の性格上、後方でどっしり構えて指揮をとるような真似はしていないはずだった。
だとすれば、あの戦渦の真ん中にいるのがあの女なのか。さすがに、距離がありすぎて人の顔までは見分けることができない。涼州とは違う風。それに乗って、熱気の混じった土埃が流れてくる。
「この戦、どっちが勝つのかな。
小さな身体。精一杯伸ばして、
常磐というのが、馬騰の真名だった。
あのどこかに
中原を、この国をもっとよく知りたい。翠がそう書き残して家を飛び出したのが、つい先日のことのように思えてくる。突然の出奔だったが、追わなかった。若いうちは、そのくらいの勢いがあっていいと思ったのである。
自分もやんちゃ仲間の韓遂と散々涼州を荒らし、それで武名を高めた。あの頃はそれで愉しかったし、朝廷などに媚びへつらうのは愚行だと感じていたのである。
それでも、人はいつか変わる。きっかけとの出会いさえあれば、ほとんど瞬時に気持ちが変化することを常磐は知っている。
長安に招かれ、帝から直接声をかけられた。衝撃的だった。小馬鹿にしていた存在。帝当人にはなんの力もなく、担がれるためだけに生きていると言ってもよかった。
だが、結果的に自分はそれで変えられた。片田舎で暴れていただけの女にも、漢人としての意識はいくらかあったらしい。四百年続いた漢室の血。その威光は、確かに自分の中にも根ざしていたのである。
守り、受け継ぐべきだと感じさせられた。それが国に安寧をもたらし、涼州にも平穏を与える。闘いだけが、生きる術ではない。そんなふうに、思わされてしまったのだ。
「あっ。両翼が動いたよ、おばさま。お姉さまがいるなら、あの中のどっちかかな。曹操さまのとこには、あの呂布さんまでいるんだよね。すごいなあ、覇者を目指している人って」
「どれだけ凄かろうが、曹操も所詮は人だろうが。ったく、気に入らねえな……」
翠と同じく、はじめてみた涼州の外の景色に蒲公英は感化されているようだった。
曹操がなんだ、という思いが湧いてくる。
噂によると、曹操は自身による天下を望んでいるのだという。あの董卓ですら帝には一定の配慮をし、最後まで朝臣であろうとした。その一線を、あの男は越えようとしているのか。考えただけでも、身体を流れる血が冷えていくようだった。
長安の朝廷では、曹操に庇護を求めるべきだという声が散見されるようになってきている。曹操本人、あるいは味方する誰かが、工作を行っていると常磐は踏んでいた。
「食わず嫌いはよくないよ、おばさま。それに、いくら男の人を知らないからって、あのお姉さまが選んだ人なんだもん。それだけのものがあるんだって、私は思うけどなあ」
「ませたこと言いやがる。しかも、男を知らんのはおまえも同じだろうが、蒲公英?」
「むむむっ……。それは言わない約束だよー、おばさま」
「なにがむむむだ。ぼさっとしてる暇があるなら、戦をきっちり見届けるんだな」
「はーい……。中央はまだまだ曹操軍が押し返してるし、互角ってところかなあ? 騎馬隊の迂回攻撃も、どっちもまだ成功してないみたいだし、長くなりそうだね」
嫌々といった感じで、蒲公英が戦況を述べていく。
拮抗している戦場だが、なにか違和感がないわけではなかった。曹操も孫堅も、懐に隠した刃を潜ませている。どことなく、歴戦の常磐にはそんな予感があったのだ。
「あっ……。もしかして、あっちが本命だったりする?」
戦場の昂揚。それがかすかに伝わっているのか、蒲公英が小さく両足で跳ねている。
息を殺して潜んでいた軍勢。はっきりとは見えないが、かなりの速度で進んでいた。これまでの攻撃はすべて囮で、あの一隊を通すことが曹操の狙いなのか。
陽光が強く輝いている。蒲公英と同様に、常磐は手で日よけを作って戦況を食い入るように見つめている。