南海覇王が疾走る。しかし、返ってきたのは思っていたような手応えではなかった。
自分と夏侯惇との間に割り込んできた女。両手で握った剣で南海覇王を押し留め、反撃の機会を窺っているのか。小さく舌打ちし、炎蓮は猛獣のごとくぎらつく眼差しを相手に向けた。
「春姉は、あたしがやらせないっす。今度はこっちの番っすよ、孫堅さん。曹家一門の力、見せてあげるっす!」
「ほう。貴様も、曹操の縁者だったか。いいだろう、二人一緒に相手をしてやる」
突き出される剣。かなりの気迫がこもっていた。体勢を立て直した夏侯惇が、左から同時に仕掛けてくる。
見事な手綱さばきで、炎蓮は闘いを続けながら馬体を横に向けた。両者の息はかなり合っている。夏侯惇ひとりだけでも、かなりの使い手なのだ。それが倍になったとなれば、面倒なことになる。
「なかなかやってくれるじゃねえか。貴様、名は?」
「あたしは曹仁。字は、子孝っていうっす」
「曹仁か。その名前、覚えておいてやろう」
言いながら、胸元を狙って斬り込んだ。浅い手応え。薄皮一枚を斬っただけで、致命傷にはほど遠かった。
「平気だな、曹仁? 孫堅は強い。だが、われらが力を合わせれば勝てない敵ではないはずだ。ははっ。とはいえ、おまえに助けられるとは、思いもしなかったが」
「えへへっ。あたしだって、やるときはやれるんす。だから、春姉」
「おう。殿の覇道を邪魔立てする者は、私たちで打ち倒す。今度はこちらから参るぞ、孫堅」
落ち着きを取り戻したのか、夏侯惇から感じられる剣圧が相当なものになっている。曹家の誇る大剣。その武名は、偽りではないようだった。
騎馬隊による攻撃はどうなっているのか。死と生の狭間にいるような闘いの中でも、炎蓮は冷静さを欠いていなかった。黄蓋、程普の両部隊による横撃の成功こそが、この戦の肝となる部分なのである。
斬り結んでいる曹仁が、なにか言い忘れていたというような顔をしている。とぼけた女だと思った。だが、狙ってそういうことをできる雰囲気を持っているわけではない。夏侯惇の救援と自分との闘いに夢中になっていたせいで、あとのことはすべて頭から飛んでいたのではないか。
「んっ、そういえば、あたしたちといつまでも闘ってる場合じゃないかもしれないっすよ、孫堅さん」
「ああん? いきなりなに言い出しやがる、曹仁」
「だって、軍師の孔明ちゃんが言ってたんす。前線に出してる部隊は全部おとりで、本陣への奇襲が一番の目的だって。あっ、だったらあたしもその餌なんすかね? んっ、ちょっとは美味しそうに見えるっすか?」
「チッ……。それを敵であるオレに教えてどうなる。気でも触れたのか、貴様」
曹仁の発する声。あまりにも自然体すぎて、ほんとうのことを言っているとしか思えなくなってくる。
孔明。徐州での闘いの後、曹操麾下に移った諸葛亮のことだったか。曹仁の言葉が真実だとすれば、確かに自分は足留めを食らっていることになる。戦に長けた将軍は残らず前線に出ていて、蓮華の周辺の守りはかたいとは言えなかった。
嫌な予感が強くなっている。後方。兵たちの隙間を縫って、駈けてくる一騎がいる。伝令として使っている校尉の姿だった。夏侯惇の剣の勢いが、さらに増している。のんびりと話している余裕は、ないようだった。
「陣形を変えるぞ。誰か、甘寧のところまで走って追従するように伝えてこい。権を守りたければ、決して焦るなとな」
蓮華が狙われていると知れば、思春は気が気でなくなるはずだ。それでも、正面の相手を放り出して本陣まで退却するのは至難の業なのである。あとは、遊撃として温存してある部隊に任せるだけだった。
「ふざけた女め。だが、こうでなくては戦はおもしろくない」
「おりゃりゃりゃりゃあ! 言うこと言ってすっきりしたから、あとは全力で闘うだけっす!」
勢い任せの斬撃。それに合わせて夏侯惇が的確に打ち込んでくることによって、対応のしづらさが生まれているのだ。汗が飛ぶ。やかましい曹仁から黙らそうと、炎蓮は南海覇王を横に薙ぎ払った。
切っ先をなんとか躱し、曹仁が少し後ずさる。一時的ではあるが、動く時間ができていた。
「ううっ……。強いっすね、ほんとに。でも、まだまだっ」
周囲に参集してくる旗本たち。ひとまず曹操軍を突き放し、甘寧の部隊と合流する。
反撃にでるのは、それからでも遅くないと炎蓮は判断していた。
†
軽騎兵の群れの中を、曹操は駈けていた。
奇襲部隊の総勢は五千。併走しているのは、紺碧の張旗である。
絶影につかず離れず、霞が黒鹿毛の馬を走らせている。緒戦での働きを受け、霞には独立した部隊を率いさせていた。実力があることはわかっている。大軍同士での戦にあっても、隙をついた奇襲は必要不可欠だった。その指揮官として、張遼文遠以上の適任者はどこにもいないと曹操には思えている。
「しっかし、あとでみんなに怒られてもしらんでえ、曹操? ウチは同行させてもらえて嬉しいけど、惇ちゃんにも仕掛けること知らせてないんやろ」
「孫堅の用いる間諜が、どの程度の能力を有しているか定かではないのだよ。その状況で、本音を言いふらすのはあまり得策ではないと思っただけだ。みなには、あとで謝罪しておく」
「ほんならかまへん。そしたら、気合入れていかんとな。ぼちぼち、敵さんの本陣見えてくるで」
霞が右手に持った飛龍偃月刀で、前方を指し示している。
狙うは孫権の守る敵本陣。討ち取れないにしても、崩されれば孫堅は後退を余儀なくされるのだ。
「それにしたって、大将の地位にいる人間が無茶しすぎとちゃうか。にししっ。まず禄な死に方できないと思っとき、孫堅もあんたも。まっ、ウチはそんな変わり者が嫌いとちゃうけどな」
「ひどい言われようだな、まったく。俺と孫堅。いい方向に考えればだが、どちらかが先に死ぬことで天下は早急にまとまろう。民衆にとって、それは悪いことではないように思うな」
「アホ。たとえ冗談でも、ウチ以外の前でそんなこと言ったらあかんで。あんたの身体、とっくに自分だけのもんやなくなってるやろ?」
「理解しているつもりだ、自分なりにはな。それにこの戦、おまえが守ってくれるのだろう、霞?」
「へっ……。御意やで、一刀」
互いに真名で呼び合うと、ちょっと照れくさそうに霞が言った。
やると決めたからには、自分が動くべきだと思った。場数は人並み以上に踏んでいるし、際どい戦は得意なほうなのである。それに、大将が矢面に立って闘っただけ兵卒の士気は高まる。孫堅が前線での活躍にこだわっているのも、そのあたりの事情が少しは関係しているのではないかと曹操は感じていた。曹家一門の統率者。そして、この国の覇者を目指す人間として、自ら剣を振り、血を浴びないわけにはいかなかった。
参陣して間もない朱里は心配の声をあげていたが、風と稟の二人はさすがに腹が据わっている。すぐさま作戦の詳細を詰めていき、現実としてここまでは上手くいっている。前提として、春蘭たちが拮抗してくれなければ成り立たないものだった。最初から奇襲頼りの闘いをしていては、孫堅の牙を防ぐことなどできはしない。普段以上に、本気でぶつかってもらう必要があったのは確かだった。
前面に出ている兵力はすべてが囮で、奇襲攻撃を通すためのまやかしでしかない。何度も使える手ではないだけに、確実に成し遂げるという気概で自分も霞も挑んでいる。手綱を握る手にも、自然と力が入っていた。
「見えたで、敵さんの旗が。ウチが先に斬り込む。そっからのことは、任せてええな?」
「いいだろう。おまえの神速の用兵、虎の娘に嫌というほど教えてやれ」
「おっしゃ、了解や。そんじゃまたあとでな、曹操!」
霞を乗せた黒鹿毛の馬が、勢いに乗って駈けていく。従う軽騎兵は一千。あとの四千は、自分に従うことになっている。
波及していく喚声。揺れる『孫』の旗を視界にとらえ、曹操は剣を鞘走らせた。