紺碧の張旗が切り開いた道を、曹操は割り広げるようにして進んだ。
ぶつかるだけで、おもしろいように孫家の兵が逃げ散っていく。心構えが整っていないところに、殺気を漲らせた騎兵が殺到しているのである。火がついた霞の勢いは凄まじく、そう簡単に止められるものではない。黄蓋や程普といった生粋の武人の率いる部隊は両翼に展開していて、救援に駈けつけるのにも時間がかかることは織り込み済みなのである。
従う軽騎兵を操り、手当たり次第に敵を斬りつけた。分厚い人の壁が見える。その先に、孫権が待っているのか。経験は浅いが、臆病ではないらしい。もし孫権が怖気づいて逃げ出していれば、今頃周辺の兵は完全に潰走していたことだろう。それがなんとか持ち堪えられているのは、我慢している大将を守ろうという気持ちがあるからに違いなかった。
「孫権がいるなら、きっとあそこだ。突っ込むぞ、楽進」
「御意です、曹操さま。先行します。自分のあとに、続いていただけますか」
「任せる。ただし、孫権がいたとしても深追いは無用だ。本陣を崩すことだけを、第一に考えていればいい」
頷いた凪が馬を走らせる。
徒手空拳での闘いを最も得意としているが、馬上では鉄製の棒を自在に振るっていた。歩兵が数人弾き飛ばされている。曹操は騎馬隊に縦列陣形をとらせ、倒れた兵を馬蹄によって蹂躙していった。
「驚いたな。いい度胸をしているとは思ったが、逃げ出す気配が微塵もないとは」
曹操の視線の先。斬り裂かれた陣幕から、孫権の姿が見えていた。
落ち着き払っている。というより、一歩も後退しないという覚悟を決めているのか。
胡床に腰掛けている孫権が、こちらに顔を向ける。ちょっと笑みをこぼし、曹操は剣を水平に構えた。
「いい心がけだな、孫権。やはり、おまえも孫家の女だということか」
「くうっ……! 本陣を預かる者として、私はおめおめと引き下がるわけにはいかない。たとえ命を失おうと、それだけはっ!」
火花が散る。斬り込んだ勢いに乗って駈け抜け、曹操は絶影を旋回させた。
右腕にいくらか痺れが残っている。いい眼をしていると思った。孫堅の子であるという誇りが、堂々とした行動の支えになっているのかもしれない。旗本。駈けつけてくる。再び突進し、孫権の身体めがけて剣を振り下ろした。手応えはほとんどない。桃色の長髪。それを少し斬っただけで、傷らしい傷は与えられていないようだった。
「敵の新手が来ています、曹操さま。張遼隊と当たっているようですが、援護に向かうべきなのかもしれません」
「長居は無用ということか。邪魔をしたな、孫権。近いうちに、また会おう」
敵兵を棒で打ち据えながら、凪が戦況を報告する。援護が来ることは想定していたが、かなり早い。こちらの奇襲の可能性を考えて、孫堅は誰かを配置していたのか。
孫権に向けて叫ぶ。荒く息を吐きながら、自分を睨みつけているようだった。よき武人。だからこそ、屈服させたいという思いが強く湧いてくる。
「待て! 待たぬか、曹操!」
絞り出すような声。背中で聞きながら、曹操は騎馬隊をまとめあげその場を離脱した。
†
騎兵同士の乱戦。紺碧の張旗と争っているのは、『華』の旗をかかげる軍勢だった。
洛陽での闘いが懐かしく思えてくる。あの時は劉備軍と協力してあたり、華雄の部隊を散々に打ち破った。思えば、その頃からの縁がいまになっても続いているのだ。しかし、恋が言っていたように華雄は孫堅のもとで力をつけているのだろつ。一度勝った経験があるからといって、油断をしていい相手ではなかった。
小勢の利を活かし、霞は小刻みな攻撃をしかけている。一糸乱れぬ動きは、見ていて惚れ惚れするようなものだった。期間を設けて鍛え上げれば、その動きはさらによくなるのだと思う。趙雲、馬超、呂布。そこに、張遼の精鋭が加われば原野での闘いでずっと有利に立ち回れるようになるのだ。
張遼隊一千に対して、華雄の軍勢は四千ほどなのか。小細工なしの、真っ直ぐな戦をするという雰囲気が伝わってくる。
「待たせたな、張遼。俺が敵を引きつける。その間に、おまえは部隊を側面に回せ。向こうの足並みが乱れたら、すぐに離れる。もたもたしていると、逆に挟撃を受けかねん」
「了解や。そんじゃ一発、華雄のやつにウチらの力見せてやろうやないか。行くで、曹操」
かつての仲間。だからといって、手心を加えるような心配はしていなかった。
徐州で叛乱を受けた際も、霞には遠慮など少しもなかった。全力で立ち向かっていなければ、それこそ討たれていてもおかしくはなかった。そうでなければ、なにも伝わらない。人の心に、訴えかけることなどできない。
さばさばしているようで、熱いものを抱えている。そんな霞の武人としての気質を、曹操は愛している。
「華雄には構うな。あれの相手は、張遼がする」
そう呼びかけながら、曹操は麾下に突撃の体勢をとらせた。
『華』の一字の旗。猛然とした勢いを保ったまま、向かってくる。
先頭の数人を凪がはね飛ばす。曹操も剣を振るい、敵兵を馬上から打ち落とした。少しの間を置いて、霞の兵が突っ込んでくる。
とにかく、足を止めずに突き進む。それだけを念頭に置き、曹操は部隊を動かした。
大ぶりな戦斧。乱戦の中にあっても、よく目立っている。霞と華雄。ちょうど、打ち合いはじめたところのようだった。
「あはははっ! 呂布ちんから聞いてたけど、ほんまに強うなってるやん。ええで、華雄。それなら、これはどうやっ!」
「このくらいのことで、私の首はやれんな! 今度はこちらの番だ、張遼」
「へへっ、おもろいやんか。しばらく愉しませてもらうで、華雄」
獰猛な笑い声が響く。喧騒の中だが、二人の存在は際立っていた。どちらも見事に乗馬を操り、得物による攻撃を繰り出している。
一撃の重さでは、華雄に分があるのか。それでも、霞には鍛え上げてきた速さがある。
突きと斬撃。それを組み合わせ、常人では対応できないような速度で攻撃を続けているのだ。だが、それでも華雄はついてくる。一瞬の隙をついて、反撃まで行ってくる。
だが、曹操にとってはそれで十分だった。華雄の思考が一騎打ちに集中すればするほど、自由に動きやすくなる。数度断ち割り、損害を与えた。要は、自陣にもどるまで追いすがられなければそれでよかった。
「そのあたりにしておけ、張遼。引き上げる。嫌とは言うなよ?」
「そんくらいの分別、ウチかてつくっちゅうねん。またな、華雄。そろそろ、帰らせてもらうわ」
武器を大振りしたのと同時に、霞が馬首を旋回させる。そうした敵のあしらい方は巧みで、華雄も追撃は諦めている。
「いやあ、なかなか愉しませてもろたで。あんたといると、死ぬまで飽きるって言葉とは無縁なんやろな、曹操。にしても、娘のほうも結構な忍耐やったわ。もっとびびらせてやるつもりやったのに、案外耐え方ってのをわかっとる」
「いい眼をしていたな、孫権は。場数を踏めば、難敵になる。そのくらいの力は、持っているのだろう」
最後に見た碧眼を思い出す。強い輝き。汚れのない光。
返り血のついた頬を、曹操は手の甲で拭った。このまま孫堅が引き下がってくれるのが一番だが、そうでない場合のことも考えておかなくてはならない。
袁家の本隊を動かし、敵領をつく構えをとらせる。あるいは、もっと別の手を使うべきなのか。
後方への調略も、しばらくすれば効果がでてくるはずだった。そうなれば、ひとまず自軍にひと息つかせることができる。
「曹操殿」
「馬超か。相手の本陣には、いくらか痛手を与えてきた。一旦守りをかためる。ついてこい」
馬超隊と合流し、曹操はそこから自軍の動きを把握することに努めた。
出すぎている部隊はないようである。孫堅による猛攻もいまは止んでいて、戦は小康状態となっていた。
「曹操殿が奇襲部隊にいると知った時は驚いたよ。ほんと、無茶するのが得意なんだからさ」
「無茶ではない。勝算がなければ、俺もそんなことはしていないのだよ」
「むう……。だからって、心配するのが普通だっての。そりゃあ、あなたは考えがあって動いてるんだろうけど……」
翠がちょっと俯いている。遠巻きに見ている霞は、予感的中といった様子で自分たちを観察していた。
「悪かった、などと言うのはあまりに簡単なことだな。だが、今度からはなるべく知らせるように努力はしよう。おまえは頼るべき将であり、大切な妻でもあるのだからな、翠」
「うあっ……!? そそっ、それはそうだよなっ!? うん、うんうんっ。あなたの……つっ、妻として、将として、あたしも恥ずかしくない振る舞いをできるようにがんばるよ!」
厳然たる事実として存在していることでも、いざ口にされるとどうにも恥ずかしくなってしまうらしい。
初々しい反応を見せる翠。快く思いながら、曹操はほほえんでいる。