とても接見に使えるような状態ではなくなった陣屋を出て、曹操は外の空気を吸っていた。
桂花の言っていた、涼州からの客人。翠の母である、馬騰のことだった。
なにをしにやって来た、などとは思わない。母として、朝廷を重んじる者として、自分に言いたいことなどいくらでもあるのではないか。
むしろ、陰湿な手を使ってこないあたり清々しい女だと思った。さすがに錦馬超の親であり、涼州に武名を轟かせているだけのことはある。
今回の来訪には兵を連れておらず、翠の従妹が同行しているだけなのだという。そのあたりの行動にも、武人としての誇りがあらわれているように曹操には思えていた。
ひとりの女を連れて、稟がやって来る。
女と表現するには、幼すぎるのか。太陽の香りのしそうな髪。あたりを物珍しそうに見回している大きな瞳。背は翠よりも小さく、かわいらしい少女という印象が強かった。
「わが君。客人をお連れいたしました」
「苦労。しかし、馬騰殿は随分とお若いのだな。想像していた姿とは、まったく違っていて正直驚いている」
「うえっ!? あ、あのっ、私はその、馬騰じゃなくてですね……。う、うーん?」
曹操のしてみせた反応に、稟が冷ややかな視線を送っている。
翠を思わせる面影がいたる箇所にあるが、落ち着きのなさがまだ勝っているようだった。
口にあてられた手が動揺をあらわしている。おどおどとした眼。それが、自分と稟とを交互に見つめていた。
「冗談だ。貴殿が、馬岱殿でよろしいかな? 俺が曹操だ。ここまで、よく来てくれたな」
「あはは……。よ、よかったぁ……。んっ……、こほん。ええと、私は馬岱。曹操さまには、馬超お姉さまがお世話になっていると聞いています。それで、どんなお方なのか早く知りたくて、おば様よりも先に来ちゃいました」
馬岱の興味は、個人的な部分にあるようだった。
敵意はない。馬騰に関しては会ってみるまでわからないが、少なくともこの従妹を警戒する意味はないのだろう、と曹操は口元を緩めている。
「馬騰殿は、現在ご息女と会っておいでです。それから、一緒にこちらに来ると」
「そうか。俺はお母上のお眼鏡にかなうと思うか、郭嘉?」
「さて。しかし、別の女の匂いくらいは、入念に消しておかれたほうがよろしいのでは? 聞きましたよ。なんでも、こんな昼間から、お愉しみになられていたようだとか」
「困ったな。おまえにまで機嫌を悪くされると、俺もどうしていいかわからなくなってしまう。それに、いまは客人が来られているのだぞ?」
「これは、私としたことが。わが君への忠義のあまり、いらぬことを申してしまったようです。何卒、ご容赦を」
ちょっと笑みを覗かせながら、稟が非礼を詫びる。
そんなやり取りすら馬岱には興味深かったようで、大きな眼を輝かせているのが印象的だった。
「ここに来るまでに、董白さんから聞きました。曹操さまが、お姉さまの運命の人なんだって。でもでも、あれで結構がさつなところがあったりするし、ご迷惑をおかけしていませんか?」
「董白が? いや、よくやってくれているぞ、馬超は。騎馬の扱いでは、あの呂布にも劣らないくらいなのだからな。それに、あれで案外人をよく見ている。徐州の陣では、俺もそれで励まされた」
「へえ……。いいな、信頼し合ってるって感じがして。そっか、それにしても、あのお姉さまがそうなっちゃうんだ……」
馬岱が、感慨深く何度も頷いている。
翠が涼州にいた頃からは、想像もつかない姿なのか。確かに、はじめは戦場以外では浮つくことの多い女だった。それでも、環境に応じて人は変化する。
うまく扱えていなかった剣にしてもそうだ。抱えていた迷い。それが、切っ先を鈍らせていたのだと春蘭は見立てていた。
「あっ、そうだ。ちょっとお願いがあるんですけど、曹操さま?」
「なにかな。無理難題でなければ、聞き届けよう」
「そのっ……。せっかくだし、お義兄さまって呼んでみたいなって。えへへ……。だめ、ですか?」
「そのくらいのことなら、お安い御用だ。改めてよろしく頼む、馬岱殿」
「わっ……! こ、こちらこそ、よろしくお願いします! おっ……、お義兄さま!」
ちょっと照れた表情を見せながら、馬岱が『お義兄さま』と呼んでくる。
自然な仕草の中に、男心をくすぐるなにかを秘めている。翠はこの従妹を奔放なだけだと評していたが、近しい間柄ゆえに視界が狭まることがないわけではなかった。
馬騰はしばらくやって来ないようだし、ずっと立ち話をしているのも面白くない。
そう思って、曹操は馬岱に声をかけた。
「陣を案内してやろう。退屈しのぎにいかがかな、馬岱殿?」
「よろしいのですか、わが君? 馬超殿の縁者とはいえ、馬岱殿は」
「なにを恐れることがある。陣中を見分されたくらいでどうにかなるのであれば、戦などしないほうがましだ。それに、馬岱殿が孫堅に情報を売ることなどあり得まい。好きなのだろう、馬超が? そうでなければ、わざわざ中原まで様子を見に来る必要もなかろう」
即興で、稟が調子を合わせてくれている。
抱き込むと言うと聞こえが悪いが、やる価値はあると思った。後のことを考えると、涼州には割れてほしくはなかった。独立していても、翠が馬家の嫡流であることには変わりない。
翠とこの従妹の存在が、いずれ涼州に大きな影響を与えることになる。馬騰には悪いが、遠慮などしていられなかった。
「お義兄さまの軍の情報を売るだなんて、そんなのあり得ません! お姉さまのことがなくったって、そんなの……絶対」
「郭嘉は軍師ゆえ、念を押しておきたかったのだろう。気を悪くしたのなら、許してくれ」
「わわっ。ぜんっぜん、私は気にしてませんから。郭嘉さんだって、仕事なんだから当然ですし」
「ははっ。謝罪ついでに、真名を預けようと思う。一刀だ、馬岱殿。それでは、参ろうか」
「一刀……、お義兄さま。えへへ、だったら私のことも、蒲公英って呼んでください。お姉さまのいいお人なんだから、むしろそっちのほうが自然だもん」
「ああ、蒲公英。だったら、もっと楽にしてくれていい。堅苦しいのは好まない質なのでな、俺は」
「よかったぁ、お義兄さまが話しやすいお方で。へへっ。慣れない言葉遣いって、なんだか肩が凝っちゃうよね」
蒲公英が、苦笑しつつ肩を軽く揉んでいる。
まずは、恋たちから紹介してやるべきか、と曹操は考えていた。すでに月とは会っているようだし、涼州に縁のある将ならば蒲公英も解け込みやすいはずだった。
深紅の曹旗が屯する地を目指して歩く。明るい笑顔を振りまいている蒲公英。
早くも打算抜きに、曹操はこの一輪の花に好意を抱いている。