麗羽の話が長くなりかけていたところで、馬騰が来たという知らせを曹操は受けていた。
それまでずっと愉しそうにしていた蒲公英の表情が、かすかにかたくなる。平気だということを伝えるように、軽く背をたたいた。
「それじゃあ、袁紹さん」
「ええ。またあとでいらっしゃいな。曹操さんとの思い出話なら、いくらでも聞かせて差し上げますわよ」
「あはは……。お、お手柔らかにお願いします」
にこやかに麗羽が手を振っている。
いい話し相手を見つけたとでも思っているのかもしれない。周囲の者には今さら語るような内容でもないし、麗羽の性格を知っている人間ならば、加減を見て適当に切り上げようとするのだ。そうした事情もあって、最近は物足りないことが少なからずあったのだろう。なんの情報も持っておらず、かといってどこで逃げていいのかわからない蒲公英は飛んで火に入る夏の虫なのである。
当面終わりそうにない昔話。その雰囲気を察しているのか、蒲公英はちょっと顔を引きつらせていた。
「悪く思わないでやってくれ。本気でよろこんでいるのだ、あれは」
「うん。お義兄さまのことが大好き、っていうのは嫌でもわかっちゃうもん。仲良しなのは、昔からずっと?」
「そうではない。話につき合ってやれば、そのあたりのことを聞く機会があるのかもな」
「えー? なんだか、意味深だなあ。わかった、あとでじっくり探りを入れてみるね」
長話を聞かされるのは好きではないが、
わかりやすい反応を見せつつ、蒲公英が屈託のない笑みをつくっている。
もといた陣屋の前まで戻ると、待っていた翠から声をかけられた。五歩ほど離れて、馬騰と思わしき女が立っている。顔立ちは娘によく似ているが、眼光の鋭さはこちらのほうが明確に上である。長年、西涼の地でしのぎを削ってきた経験がそうさせているのだろう。心が荒んでいたがゆえに、まったく違うなにかが入り込む余地があったと考えるべきなのか。
ひとつわかることがあるとすれば、それは自分が敵視されているという事実だけだった。
「すまない、曹操殿。馬岱のやつが、世話をかけたみたいだな」
「いや。有意義な時間を過ごせて、よかったと思っているくらいだ」
「うんうん。ちょっとの間だったけど、私もお義兄さまと仲良くなれた気がするし。どうせなら、もっとゆっくりしてくれてもよかったんだよ?」
「んぁ……、お義兄さまだと? おまえ、いくら曹操殿が甘い顔をするからって、また勝手なことを」
「いいじゃん、無理にお願いしたわけでもないんだから。ねっ、お義兄さま?」
「蒲公英のような妹分なら、大歓迎だ。それに、もっとやんちゃなのを想像していたが、聞き分けもいい」
翠の太い眉が、ぴくりと反応している。蒲公英を真名で呼んだことが、気になっているのかもしれなかった。
姉妹同然のやり取りをする二人を尻目に、馬騰は戦場にいるような闘気を発し続けている。
ずっと組まれていた腕。ようやくほどいたかと思うと、曹操を睨みつけながら馬騰が言った。
「西涼の馬騰だ。お目にかかれて光栄だぞ、色惚け男殿」
「これは、挨拶が遅れてすまなかったな。曹操だ。あまりに殺気立っていたから、ついてきた護衛の誰ぞかと思い込んでいたのだよ。遥々、よくお越しになられた、御母堂」
「ちっ……。会って益々、いけ好かねえやつだぜ。こんな優男に、超も岱も惑わされやがって」
「はははっ。手厳しいな、御母堂は。ところで、董白と会ってきたそうだが、元気にしていたか」
「ああ……。世間的には死人であるくせに、ぴんぴんしていやがった。おまえの子ができたのが、余程うれしいのだろう。あのような顔、涼州にいた頃は見たことがなかった」
「御母堂から見てそうなのであれば、間違いはなさそうだな。苦杯を舐めるのは、もう十分ではないか。浅からぬ因縁のある女だが、ともに生きる道を見つけることができている。誰にでも、そんな可能性があっていいのではないかな。少なくとも、俺はそう思うのだよ」
遠い空を見つめて、馬騰が舌打ちする。
冗談ではない、とその横顔が言っている。しかし、胸の内のどこかに、それとは別の感情を宿しているのではないか。
月の様子を語る馬騰からは、母としてのぬくもりを感じられたのだ。その直感を信じてみようと思った。あとは、翠がどう出るかにかかっているのだろう。
視線が交差する。小さく頷き、翠は馬騰に問いかけた。
†
まともな話し合いになるとは、端から思っていなかった。
母は、髪の毛一本ほども曹操を信用していない。悲しくはあったが、いまはそれも現実として受け止めるしかない、と翠は前を向いていた。
「それで、結局どうしたいのさ、母さまは。あたしは、曹操軍の将であるという立場を変えるつもりはない。それで涼州を捨てたって言うなら、さっき話したように大きな勘違いだっての」
中原を放浪するさなか、迷いながらも剣を振り続けた。
それが導きの音色となり、曹操との出会いを生み出すとは思いもしなかったことだ。
将軍としての責任。それだけではなく、自分には妻としての役割だってある。
微塵も男っ気のなかった女が、中原の男のいいようにされている。たしかに、母がそんな疑念を抱くのも不思議なことではなかった。
「青臭えガキがいっちょ前に……。いいだろう。おまえでも理解できるよう、至極簡単に言ってやる。勝負だ、超。私が勝てば、問答無用で涼州に連れ帰る。この男との因縁も、それで終わりだ」
「んっ……。勝手なことを言ってくれるじゃないか、母さま。だけど、腕っぷしで決着をつけにいくほうが、あたしには向いてるのかもしれないな。どうかな、曹操殿」
母の意図がどこにあるのか。そこまでは、あえて考えないでいようと思った。
闘いたいというのであれば、闘う。なにより、意志の宿った刃は時に口以上に物を言う。涼州流の方法で勝敗を決めれば、母であろうと文句はつけられない。
「いいだろう。して、そちらが敗れた場合にはなにを賭ける。まさか、娘だけに不利な条件で決闘をするわけにはいくまい」
「万一……。万一こちらが敗れた時には、私の身柄を好きにすればいい。煮るなり焼くなり、貴様の自由であることをここに誓おう。邪魔な女を天下からひとり消すことができるのだ。そちらにとっても悪くない条件であろう、曹操?」
「なるほど、申し分ない条件だな。であれば、俺は二人の闘いを見守るのみだ。おまえの剣、俺にとくと見せてくれるな、馬超」
「剣? あんな下手っぴな剣で闘うっていうの、お姉さま」
「やかましい。あたしだって、日々成長してるんだよ。そのことを、よーく見せてやる。おまえにも、母さまにもな」
まばらだった気を、一本に研ぎ澄ませていく。
蒲公英はそれでも心配そうにしていたが、母を黙らせるには剣を使うしかないと思った。
弱々しく痩せた木すら断てなかった切っ先。鍛え、鋭敏にしてきたのはこの日のためだったのかもしれない。
母は涼州最高の武人で、正面からやり合って勝てるとは思わなかった。それでも、自分には守るべき場所がある。貫き通すべき、思いがある。
だから、少しも負ける気はしていなかった。