かたい地面を踏みしめ、翠は佩いている剣を抜き放った。
感覚。研ぎ澄まされていく。自分の動作を見てから、母が同様に剣を手に持った。似通った二振りの刃。母のものを模して造らせたのだから、それもそのはずだった。
憧れ、背中を追った存在。変化していったのは、いつからなのだろうか。両手で正面に構え、軽く左足を引く。この独特の緊張感は、武人として嫌いではなかった。
乾いた音とともに転がる鞘。母が捨てたものだった。
「どうして鞘を捨てた、母さま。戻るところのない刃なんて、寂しいだけじゃないか。それとも、鞘と一緒に勝負を捨てたとでもいうのか?」
「ああん? 細けえことにいちいち口出しするんじゃねえよ。そういうところが、てめえはまだまだガキなんだ」
「へっ、そうかよ……」
このくらいの舌戦で、動揺を誘えるような相手でないことは知っている。だからこそ、何故そんな真似をするのかと翠は思ったのだ。
母の脚が動く。瞬きをしている余裕すらなかった。剣。身体のそばまで迫っている。受け止め、翠は声を発した。
「懐かしいな、なんだか。涼州にいた頃は、こうしてよく稽古をつけてもらった」
「帰ったら、死にたくなるほど扱いてやる。岱や、妹たちと一緒にな」
「遠慮させてもらうよ、それは。あたしには、やるべきことがいくらでもあるんだ。それを投げ出して、涼州に帰れるかよっ!」
跳ね返し、反撃に打って出る。
涼州の荒野で鍛えられた母の剣は重い。強さだけでいえば春蘭もかなりのものだが、染み付いているなにかがきっと違うのだろう。
だが、心なしか荒々しさが、かつてのようではなくなっているような気がしていた。
「お姉さま、ほんとに剣を扱えるようになったんだね。槍を持たせたら馬鹿みたいに強いのにさ、どうして剣はあんなに下手くそなんだろう、ってみんなで不思議がってたのに」
「心にあった迷いが、剣を握った時だけ表に出てきていたのかもしれないな。それだけ、思い入れが強いのだろう」
「ふうん? だったらその迷いも、お義兄さまと過ごすことで消えたってことなんだ?」
「俺だけの力ではないさ。互いに影響し合って、人は人として生きていく。御母堂にも、翠の想いが響けばいいのだが」
距離が生まれる。なんとなく、勝負は次の一撃で決まるような感じがしていた。
長々と闘うつもりはない。母の集中した表情からも、そのことが読み取れる。
「……そんなに曹操が好きか、おまえは」
呟くような声。
茶化すような雰囲気ではない。母は、真剣に自分に問うているようだった。
「ああ、好きだよ。自分のすべてを賭けてでも、曹操殿に天下を奪らせたい。そういう人と出会えて、あたしは幸せだと思っている」
だから、真っ向から本心をぶつけた。
中原への旅は、自分に様々な変化をもたらしてくれている。曹操との出会い。そこから得た、新たな仲間たちとの出会い。そのすべてが、替えのきかない財産となって自分の中で生きている。
「言うようになったじゃねえか、小便臭いガキが。けっ……。調子がおかしくなりそうだぜ、まったく」
「いくぜ、母さま」
「おう。来やがれ、超」
歯を一瞬だけのぞかせ、母が獰猛に笑っている。
迷いなく背中を追っていた頃の姿。それと重なった感じがして、わけもなく心が躍った。
全身の力を使い距離を詰める。一撃。そこに、ありったけの想いを込めればいい。
「うぉらぁ!」
腹の底からの叫び。
鉄と鉄がぶつかるような感触。手に生まれたのと同時に、激しく火花が散った。動きを止めはしない。そのまま、翠はさらに踏み込んだ。
「あたしの勝ちだ。文句はないよな、母さま」
首筋に突きつけた刃。少しでも押し込めば、両断できるような位置をとっている。
無惨に叩き折れた愛剣に眼をやりながら、母は深々と呼吸をしていた。
かたくなな心を突き破るのなら、それしか方法はないと思っていた。やりきった。頬から流れる汗が、一滴地面を濡らす。
「うわあ……。普通はありえないでしょ、こんなの。ちょっと引いちゃってるのかも、私」
「うっせ。おまえになんて思われようと、そんなのどうでもいいっての」
蒲公英の声によって、重々しい空気に風穴が開けられる。
狙ってやっているのなら、それはそれであざといものではある。だが、この瞬間だけはそれがありがたかった。
「んっ……、あははっ……! なんて馬鹿力をしてやがる、超め」
じっと剣を見つめていた母が、堪えきれないといった様子で笑いはじめた。
こんな結果は、予想していなかったのかもしれない。だったら、上回れたことを自分は誇らしく思うべきなのか。
「いい太刀筋だったと言っておこう。まっ、あと十歳若ければ、確実に私が勝っていたがな」
「なんだよそれ。けど、あたしの勝ちは勝ちだぜ、母さま。約束、守ってくれるんだよな」
「よかろう。おまえのやることに、口出しはもうしない。好きなように生きるがいい。だが、涼州が故郷であるということだけは心に留めておけ。私が言いたいのは、それだけだ」
ちょっと寂しそうな母の表情。
故郷の風景を、忘れたことなどなかった。久しく会っていない妹たちと、再会したくないわけではない。それでも、いまはまだ帰れない。錦馬超の凱旋は、大きな夢を成し遂げてからでなければならなかった。
「満足されたかな、御母堂」
「ああ。世話をかけたな、曹操。貴様への約定も、間違いなく果たすつもりだ。娘のことは、任せていいのだな」
母の言葉に、曹操が頷く。
先程とは打って変わる表情。あれだけの宣言をしたのだから、覚悟は決まっているのだろう。母は、曹操のことをよく知らない。知りたくもない、と考えていてもおかしくはなかった。
処刑、あるいは嬲られることを想像しているのかもしれない。
武人らしい最期は、どうあっても得られない。そうしたことを、覚悟している顔だった。
「こちらに来てもらおうか、御母堂。戦の途中ゆえ、まともなものは用意できなかったが」
「なに? 貴様、私をからかっているつもりか?」
曹操の視線の先。いつの間にか卓と椅子が揃えられていて、その上には酒器が置かれている。
末期の酒。そういう意味では、ないはずである。
自分の母。涼州きっての武人。そして、ひとりの女として興味がある。
ちょっと複雑な心境ではあるが、それが曹操という人のあり方なのである。否定する気などないし、そもそも曲げられるようなものではなかった。
「冗談などではない。身柄を好きにしていいと言ったのは、そちらのほうではないか。だから、一献付き合え」
「ちっ……。まずい酒になりそうだぜ、ったく」
これには、さすがの母も動揺を隠せないようだった。罵っているつもりなのだろうが、どうにも迫力がない。こうした相手の毒気の抜き方で、あの人の右に出る者などいるはずがない、と翠は心の中で笑っている。
あとは、きっと曹操がうまくまとめてくれるだろう。残りたがる蒲公英の身体を引きずり、翠は剣を片手にその場を去った。