どうして、自分ばかりがあのような場面に遭遇しなければならないのか。周囲には聞こえないようなため息。陣屋の壁に手をついて、桂花は波打つ心を抑えようとしていた。
割り切っているつもりでいて、どこかで子供のように駄々をこねたくなる気持ちが残っているのか。首を振り、馬鹿馬鹿しい考えを霧散させていく。
嫉妬心など、抱いてなんになる。しかも、曹操にあのような姿を晒してしまったのである。今度閨に訪れた時、どんなからかわれ方をされるかわからない。どれだけ強がって見せようとも、あの場での自分は曹操の手のひらの上で転がされているに過ぎなかった。堕ちゆく感覚。それが、心地よくさえあるのはどうしてなのか。
答えなど、とうにでているはずなのである。そうでなければ、側仕えの軍師となり、あまつさえ母親になどなっているはずがなかった。
曹操が曹操であるかぎり、この現実が変わることはなかった。それに、勢力の幹部連中はあの男との個人的な縁で結ばれた女ばかりで、旺盛な情欲が結果的にはいい方向に働いているのである。そのことを考えれば、否定する理由はどこにもないはずだった。
「ほんっと、場所を考えずに種を撒き散らして……」
言いながら、試しにちょっと頬を膨らませてみる。
こんな真似をしていると曹操に知られたら、それこそ笑い者にされてしまうのではないか。やめよう。翠の母との接見も、すぐあとに控えているのである。それだけに、こんなことで気を散らせている場合ではなかった。
油断大敵。筆頭軍師を自負するのであれば、努々そのことを忘れるべきではなかった。
「あ、あの、桂花さん……?」
「むぐっ……? あっ……」
振り返ったのと同時に、やってしまったという思いが脳裏をよぎる。口にためていた空気。声と一緒に、力なく抜けていく。
今日の自分は、きっとどうかしているのである。
どんな反応を返していいのかわからず、朱里は両手を所在なく揺らしている。終わった。真っ先に浮かんできたのは、そんな言葉だった。
「え、えと……、その……ですね」
「うっ……。変に遠慮されると、こっちは余計に辛くなるだけなんだけど。もし理解した上でやっているのだとしたら、末恐ろしい女ね、諸葛亮孔明」
「す、すみません。その……、風さんは気にする必要なんてないと仰っていたのですが」
「はあ……。これ以上は謝るの禁止、いいわね? それにどうせ、節操なくアレをおっ勃てたのはあの男なんでしょうが。だったら、どこに朱里が謝る必要があるっていうのよ。わかったのなら、職務に戻ることね」
突き放すような口調を意識しつつ、肩先まで伸びた髪に触れる。
ほんとうに、どうしようもない男だと思う。だが、どこかに欠けている部分があるから、曹操の周りには人が集まるのではないのか。
苦笑を浮かべる朱里に視線を向け、桂花は言った。
「馬騰が恭順を表明すれば、涼州の旗色は完全にあいつの支持に変わるわね。韓遂の派閥は残っているけれど、わざわざ歯向かう真似をする意味もないもの。そうしたら、つぎは益州よ」
「です、ね。先代の劉焉さまとは違い、あとを継いだ劉璋さまは器量に不安があるという噂も耳にしています。そして、孫堅は同族である劉表さまを攻め滅ぼしている。となれば、麾下の方々は必然的に曹家を頼りたいと思うはずですから」
「ええ。真直がその方向から接触を試みているみたいだけど、実際感触は悪くないみたいね。交渉がうまく進めば、近く向こうから使者が来るんじゃないかしら」
「そうすれば、一刀さまの天下がいよいよ見えてくる、というわけですか。豫州では一進一退の攻防が続いているような状況ではありますけど、外部ではこちらの影響力が確実に増している。いい風を、吹かせられているとでも言うべきなのでしょうか」
朱里の言葉に、桂花は頷いた。
この流れを形成できているのも、徐州での劉備軍の善戦があったからなのである。凄惨をきわめる侵攻が完遂されていれば、今頃曹操には冷たい風が吹き付けていてもおかしくはなかった。
それだけに、本気で抵抗を決めた朱里の働きは、見方を変えれば至上のものであったと評価されるべきなのだった。
「だからこそ、これからの戦の勝敗はより重要になってくる。孫堅を打ちのめし、あいつは天下へ続く道の地固めをする必要があるんだから」
「がんばります、私も。でないと、あの方にお仕えするって決心した意味がありませんから」
「そうなさい。伏龍さまの実力、もっと敵味方に見せつけてもらわないとね?」
「むう……。そのためにも、王佐の才と評される桂花さんのお力、これからも近くで学ばせていただきます」
「あら、やり返してくるだなんていい度胸をしているじゃない。でも、その意気よ」
「ふふっ。ご指導よろしくお願いします、先輩」
心からの笑顔を見せる朱里。この程度のことでどこか気分をよくしてしまうのだから、自分も安くなったものだ。
しかし、それは悪い変化ではない。自分たちがいて、あとに続く者が確実にでてきている。この循環があるかぎり、曹操の足もとが容易く崩れることはないのだ。
そうして、やがては子供たちへと時代は移ろいでいくのだろう。そんな考えを持つようになった自分。驚くべき変化ではあるものの、自然なことのようにすら思えてくる。
「覚悟していなさい? 厳しいわよ、私の指導は」
以前よりもずっと伸びた髪。ちょっと女らしさを増した胸。人の内面の揺らぎというのも、それと似たようなものなのだろう。
少しづつではあっても、常に同じであるわけではないのだ。そうでなければ、前を向けはしない。進んでいくことなど、できるはずがない。
「風」
「くふふー。そろそろ、でていってもいい頃合いかと思いましてぇ」
中で暇を持て余していたのか、口にしている飴が小さくなっている。
前言撤回。風の無神経さだけは、いつでも変わらないと桂花は感じている。
「んぅ……。風も、桂花ちゃんを先輩ってお呼びしてみましょうかぁ」
「はあ? どうして、あんたが……」
意味ありげに片眼をつむる風。
そのわけを理解するまで、桂花が時間を要することはなかった。