薄暗く曇った空。じっと見ていることは、憚られる。なんとなく、そんな気すらしてくる色をしていた。それは、世の不安定さの現れなのだろうか。
戦力増強を狙う何進と、それに対抗する宦官たち。宮中では、両陣営によって途切れることなく密謀が続けられていた。国の頂点に立っている帝。両者を押さえ込むだけの力は、どこにもなかった。帝の武器となるはずだった西園軍は、割れている。そのことに、
なにか、対策を打たなければならない。そう考えた蹇碩だったが、手をこまねいているのが現状だった。所詮、戦場に出たことのない宦官なのである。それでも、踏ん切りがつかないという意味では、何進のほうも似たようなものだった。
幽州遼西郡。趙雲と別れた戯志才と程立は、陣営の中にいた。六千を数える公孫賛の軍勢。このまま東に進めば、敵軍とぶつかるという状況だった。
かつて中山太守であった張純が、
そういった状況もあって、戯志才と程立は公孫賛のもとで働いているのだ。雇われ軍師。いまの二人は、そんな立場なのである。
「
「そう、なのかもしれません。ふふっ。あの星のことだから、メンマ欲しさに士官を決めていても、不思議ではないのかも」
「ですねー、とすぐさま同意してしまうのは、ちょっと星ちゃんがかわいそうなようなー? んんー。にしても
「流浪中での経験は、必ずどこかで活きてくる。わたしは、そう思っているのよ。それに、戦術なんて実戦で磨いてこそのものでしょう?」
「むむぅ。正論をぶつけてきますねえ、稟ちゃん」
言い方はよくないが、今の幽州は力試しをするのに適した土地だった。
公孫賛軍には、自分たちのような軍師が欠けている。それだけに、働きの場は少なからず巡ってくるのである。
「それだけでなく、張純に荒らされている幽州を捨て置くというのも、できることではないでしょう? ここで賊軍の勢いを削っておかなければ、際限なく肥大してしまう可能性だってあるのだから。襲われた邑はひどい有様だって、風も聞いているのよね?」
「ですねえ。異民族と組んで食料の強奪から人さらいまでやりたい放題。落ちることろまで落ちると、誰しもそうなってしまうのでしょうか」
「その横暴を食い止めるべきだと思ったから、風も公孫賛殿のもとで客将をしているのよね? だったら、しっかり働きなさい」
「おおっ、稟ちゃんからめらめらと燃えるものを感じます。軍師の部分と女の部分。その両方に磨きをかけた稟ちゃんと再会すれば、曹操さんだってそれはもう……」
「あ、あのお方のことはいま関係ないでしょう!? それになによ、女の部分って……」
「えー? それを風の口からいってしまってもいいんですかー? くふふ、でしたら遠慮なく……あぷっ」
なにかを言いかけた程立の口もと。それを、戯志才が手を使って抑え込んでいる。
「……とにかく、いまは目の前の戦に集中するべきよ。あと数ヶ月も経てば、洛陽の情勢も変化してくる。わたしは、そんな気がしてならないのよ」
「乱世まで待ったなし、といったところですか。何進さんと宦官たち。先に暴発するのは、いったいどちらなんでしょうねー」
流浪を続ける生活も悪くないと、戯志才は感じるようになっている。一箇所に留まっていてはできない経験を、これまでしてきたのだと思う。程立だって、そのことは重々承知しているはずだ。
旅で得た経験。出会いも、そのうちのひとつだった。一刀。沛国曹家の人間だと聞いて、すぐに曹操の名が浮かんできた。戦場で功績を上げたことは知っていたが、やはり余人とは違う雰囲気を纏った男だった。
武人としての直感が働いたのか、趙雲の決断は早かった。よろしくやっているかどうかはともかく、程立の予想は当たっているのだと思う。別れる直前の趙雲の表情からは、なにか決意のようなものを見て取ることができたからだ。
自分も、友人と同道するべきだったのか。戯志才は、たまにそう考えることがあった。優しく抱き上げられた感覚。意識は薄ぼんやりとしていたが、なんとなくそれだけを覚えている。国を根本から変えたいという強い意思。それとは別に、親しみやすい部分のある男だった。惹かれている。そんなことは、自分でもとっくにわかっているのだ。
戦場。曹操の隣に立つ自分を、思い描いてみる。すると、全身を通る血の管が、制御できなくなるほどに熱くなっていくのだ。いずれ、妄想が現実となる日がやって来るのだろう。それが自身にとっての飛躍のときだと、戯志才は決めていた。
「おおっ? 大丈夫ですか稟ちゃん、鼻からちょっとだけ血がでていますよ。よろしければ、とんとんしてあげましょうかー?」
「んんっ……、このくらい平気ですから。それよりも、斥候に出ている
「そうですねー。風たちも、公孫賛さんのところに、そろそろいくとしましょうか」
僅かに垂れてきた血を、指で拭う。一度没頭し始めると止まらない。それは、悩みでもあった。こんな自分を曹操は受け入れてくれるのだろうか、と考えることもある。
香風というのは、幽州に来るまでに合流した旧知の少女のことだ。姓名は徐晃。士官をしていたのだが、出奔してきたのだという。この先を見据えて、良い主君を探しているのは徐晃も同じだった。
現在、公孫賛のもとで客将として働いているのは、戯志才たちだけではなかった。劉備と、その義妹。兵力だけで見れば小さな存在に過ぎなかったが、実戦になると多大な貢献をするのである。公孫賛から借りた兵を合わせて、劉備軍は一千人となっていた。その中核を成しているのは、
公孫賛のいる本営。そこに向かう途中で、戯志才たちは声をかけられた。劉備である。兵を束ねる役目でも与えてあるのか、珍しく関羽と張飛を伴っていなかった。
「あっ、戯志才さん。どうかな、相手は動いてきそうなの?」
「これは、劉備殿。斥候の報告を聞くまではわかりませんが、出てきている叛乱軍は一万を有に越えています。なので、余裕を持って迎撃の構えをとってくる、とわたしは見ているのですが」
「うーん、そっかあ。はあ……。ホントだったら、都からもっと兵を出してもらえるはずなんだよね」
「ないものねだりをしても戦には勝てませんよ、劉備殿。それに、公孫賛殿の騎馬兵を筆頭に、こちらの軍は相手よりずっと精強ではありませんか。劉備殿の麾下は、その中でも抜群の働きをされています」
「えへへっ、褒められちゃった。うん、
相好を崩す劉備。知らないうちに心に入り込んでくるような笑顔だ、と戯志才は思った。
劉備軍の強さというのは、どこにあるのか。そんな話を、程立としたことがあった。
関羽と張飛。その両人の武力によるところが大きいのは、確かなのだろう。劉備本人の強さなど、たかが知れているからだ。それに加えて、軍略について飛び抜けた才能を持っているわけでもないのである。それでも、兵が心を寄せているのは劉備だった。関羽と張飛が、常に姉として立てているというのもあるのだろう。しかし、本当にそれだけなのか。
「劉備さんの軍は少数ですから、後ろの方に回されると思います。ですが、強力な兵を遊ばせておくのはもったいないですよねー? なので、機を見て敵軍の横っ腹でも突いてしまってください。公孫賛さんはご友人を大切にされるお方ですから、怒られないと思います」
多分、とだけ付け加えて程立は話し終えた。飴。どこからともなく取り出したそれを、無心でねぶっている。
「あはは……。いいのかなあ、勝手にそんなことしちゃっても。勝てる可能性が上がるんだったら、わたしもそうするべきだと思うけど……」
「風の言ったことは、真に受けないでもらって結構ですよ。それと、劉備軍の動かし方についてですが、わたしの方からも公孫賛殿に進言するつもりです」
「ほんとっ? そうしてもらえると、こっちも助かるよ。
劉備が、手を合わせて喜んでいる。
軽く跳ねる身体の動きに合わせて、乳房が揺れている。見るからに、柔らかそうである。そして、どうとでも形を変化させられるような、柔軟性を備えていそうでもあるのだ。そんな部分にも、劉備の人柄が出ているのかもしれない。下らないことだと自嘲しながらも、戯志才はそう分析していた。
大それた風聞があるわけではなかったが、公孫賛はそれなりの将器の持ち主だった。頑ななわけでもないし、騎兵に関してはよく使うほうだ。白馬で統一した旗本による突撃の威力は、本人も自信を持っているはずである。多少覇気に欠ける感じではあったが、それが魅力的に映る場合もあるのだと思う。
客将としての居心地は、かなりいい方だといえるはずだ。自分たちのような在野の軍師を従軍させた上で、意見も素直に取り入れてくれる。そう考えれば、人を見る目だって悪くはないのだろう。けれども、劉備軍については持て余している。なんとなくだが、戯志才はそう感じていた。
どこかに、遠慮のようなものがあるのかもしれない。せっかく劉備を客将にしているのだから、もっと積極的に使うべきなのではないか、と戯志才は歯痒がっていたのだ。劉備軍であれば、数倍の敵兵を相手取って闘うことすら可能なのである。
友人を、矢面に立たせることはできない。そんなことを、公孫賛は考えているのだろうか。それとも、別に思うところがあるのかもしれない。どちらにせよ、半端だと言わざるを得ない状況ができあがりつつあった。
曹操であれば、どうするのか。そんなことを、戯志才は考えるときがあった。
客将という浮わついた身分。それを、曹操がいつまでも許すことはないはずだ。琥珀色の瞳。揚州で会ったときは、自分が使える人材かどうか、見定められているようだった。しかし、公孫賛に請われたとして、劉備がその配下になることはあるのだろうか。小さいながらも、懸命になにかを成したがっている。そんな風に、戯志才の目には映っていた。
曖昧ゆえに、とてつもなく大きな存在に見えるときがある。得体のしれない統率力、とでも表現するべきなのかもしれない。包み込むような優しさを持っているようで、意外としたたかでもあるのだ。劉備の強さというのは、そこにあるのか。
「おう、いたのかお前ら。そんな場所に突っ立ってないで、中に入れよ。斥候の部隊も、ちょっと前に帰ってきたところだ」
「はっ、そういたします。
「ああ。腹が減ったというから、中で飯を食わせているんだよ」
「申し訳ありません、公孫賛殿。あまり我儘は言わないようにと、わたしから香風に言い含めておきますので」
「気にすんなよ、そのくらい。それに、ぼんやりしているようで徐晃の斥候は確かだからな。今回だって、きっちり伏兵の位置を嗅ぎつけてきたみたいなんだ」
「そうでしたか。ならば、いち早く行動を起こさなくては。急ぎ、部隊の配置を決めてしまいましょう」
「へへっ。そう来ると思って、配下には出陣の準備をさせてあるんだ。戯志才、布陣は任せる。幽州に暮らす民のためにも、わたしたちは負けるわけにはいかないんだ」
「承知いたしました、公孫賛殿。その信任には、お応えしましょう」
公孫賛に続いて、本営に入っていく三人。歩きながら、戯志才はまた空想の世界に入りかけていた。曹操であれば、どう命じてくるのか。そんなことを、つい考えてしまう。
頬を指で突かれている。その感触で、戯志才は我に返った。無表情のまま、飴を咥えている程立。微小ではあるが、目だけが笑っていた。
戯志才の提案で、布陣はすぐに決定された。先鋒は三千の歩兵。その後ろから、公孫賛の率いる騎馬兵二千が進む。劉備軍には、伏兵の撃破が命じられている。
出陣を知らせる太鼓。武装した兵たちが、矢継ぎ早に飛び出していった。