予定外のことで汚してしまった衣服を替え、曹操は常磐を待っていた。
密室の、息の詰まるような状態で話をするつもりはなかった。小高い丘。そこからあたりを見渡すと、部隊の動く様子がよくわかる。
孫堅軍の動向に備えて、調練は軽めに行うよう通達してあった。『馬』の一字を掲げた騎馬隊が駈けていく。翠はこの場に立ち会う必要はないと判断したようで、蒲公英を連れて周辺の物見をしてくると言っていた。
伝えるべき想いは、剣を介してすべて伝えた。それ以上の言葉は不要で、むしろ余計なものでしかない。原野に吹く風にも似た清涼感。そうした雰囲気を、翠もまとうようになったということか。
「婿殿」
「常磐。よく眠れたかな、昨夜は」
乗ってきた馬は、どこかにつないであるのだろう。娘に叩き折られたせいで、帯剣もしていない。そのせいか、初対面のときより受ける印象がかなりやわらかくなっている。
「ほどほどにはな。久しぶりに激しく動いたせいで、身体が少し痛いくらいだ。年など、食うものではないと実感させられたわ」
冗談を交えながら、常磐が歩み寄ってくる。
翠の率いる騎馬隊の姿は、もうほとんど見えなくなっていた。
地平線の彼方。見つめながら、常磐が口を開いた。
「帝を奉らんとする気持ちに、間違いがあったとは思わない。婿殿は、どう思うか」
「それについては、同意しよう。できれば、俺もそうありたかった。それが、最も筋道が通ったやり方だとは理解しているのだ」
自分がもっと早い時代に生まれていたのなら、それでよかった。
しかし、時は変化を待ってくれないものなのである。だったら、現時点での最善の手を打つほかない。幾百万の民衆の心に根ざした帝の地位。たとえ侵すことになろうとも、躊躇うべきではなかった。
返答に満足したのか、常磐が小さく笑った。言葉も仕草も、いまは至極穏やかである。
「老いとは、おそろしいものだ。私のような跳ねっ返りですら、無意識のうちに守りに入ってしまうのだから。気合を注入された気分だよ、翠と婿殿にな。あっ、いや……。これは冗談などではないからな?」
交わった時のことを思い出したのか、常磐はばつが悪そうに頬を人差し指で掻いている。
「ともかくだ。翠のやつにも、存外男を見る眼があったと言うべきなのだろうな。志と覇気。そのどちらとも、英雄と呼ぶに相応しいものを備えていると認識させられたのだ」
「それでは」
「うむ。少々乗り遅れた感があるのは否めないが、私にも助力させてくれ。なにより、死に損ないのババアとの戦、まだまだおもしろくなってきそうじゃねえか。武人として、外から眺めていることなどできるはずがあるまい」
そう言って、常磐はこの日はじめて豪快に笑ってみせた。
老境に入るには早すぎる。
辺境で消えかかっていた炎。燃やすべき戦場は、まだいくらでもあるはずだった。
「こちらに、残ってくれるのか? 俺としては、ありがたいことだが」
「平気だ。休と鉄にも、これを機に独り立ちさせようと思う。幸い、蒲公英以外の部下はあちらに残してあるのでな。まっ、なんとかするだろうさ。あいつらも、子供ではないからな」
娘たちのことを、信頼しているのだろう。
翠は、当分こちらにいることになる。それだけに、妹二人には馬家の代表としてしっかり立ってもらう必要があるのだった。
「それでなのだが、いまの私は腕はあっても武器がない状態でな。婿殿のその剣、拝領したく思うのだが、どうだい」
常磐の双眸。鋭さがはっきりと増している。
簡単に従うだけではおもしろくない。護衛をまともにつけていない状況で、丸腰になる覚悟が自分にあるのか。それを、常磐は最後に試したいようだった。
「相応しい剣を拵えて返すつもりだったのだが、まあよかろう。おまえの好きなように、使うがいい」
履いていた剣を外し、横に向けて差し出した。
伸ばされる両手。恭しく頭を下げながら、常磐は剣を受け取った。
一陣の風。二人の間を吹き抜けている。余程のことがないかぎり、隠密には自分の命を待つように伝えてある。だから、常磐が剣を抜けばまず間に合わない。その場合は、死があるだけだった。
「応。婿殿の剣、ありがたく頂戴する。娘共々、よろしくしてやってくれ。曹操孟徳の威光が天下の端々に行き渡るまで、いま少し若者のふりをしてみようと思う」
「振りなどしなくとも、十分に若いさ。またいつでも、相手をしてくれるのだろう?」
「う、うむっ……。婿殿さえよければ、いつでも歓迎するぞ。子を成すのであれば、なるべく早いほうがいいからな」
常磐は、本気で自分との子をほしがってくれているらしい。
男として、これほど意気に感じることはなかった。活力が湧いてくる。ちょっと顔を赤く染めた常磐。抱き寄せた肩の想像以上の小ささに、曹操は気分を昂揚させていた。
†
赤兎の身体を、束ねた藁で擦っていく。
心地よさそうに細められる眼。この作業だけは、自分でやると恋は決めているのだ。
月が自分のためにと贈ってくれた馬。いまでは、家族同然に思えるようになっている。
「ふふっ。赤兎、気持ちいい?」
桶に汲んだ水に浸し、さらに汚れを削ぎ落とす。
孫堅との戦は、まだ続く。それまでは、自分も赤兎も休むわけにはいかなかった。
曹操の命に逆らえば死。立てた誓いは、軽いものではなかった。それでも、気力が衰えることはない。曹操の存在は、出会った頃と比べて遥かに大きなものへと変わっている。
肉まんを食わせてくれた変なやつ。そこから拾ってくれた恩人となり、いまではご主人様であり旦那様となっている。
「あっ……、紅波」
陣中にあっても珍しい人物の姿を見つけ、恋は藁束を桶に落下させている。
身分を隠すために変装をしていることが多いが、今日は紅い長髪が自由に揺れている。たぶん、曹操のところになにか報告があって来たのだろう。一箇所にゆっくり留まっていることがまずないから、声をかけたくてもできない場合がほとんどなのである。
駈けだす。紅波も自分のことに気がついたのか、足を止めてくれている。
「どうかなされましたか、恋殿」
「んっ……。紅波に、ずっとお礼を言いたかった。月のこと、ちゃんと連れ帰ってくれて、ありがとうって」
「やっ、礼をしてもらうようなことではございませぬ。月殿のことは殿のご命令であり、麾下の方々の願いでもありましたから。拙者としましても、それは同じことで」
「それでも、ありがとう。月との出会いがあったから、恋は一刀と知り合えた。それで、頼ったのが一刀じゃなかったら、きっと月は昔みたいに笑えてない」
月の強さは知っている。だからこそ、心の底から頼れる相手が数少ないのも確かだった。
曹操は、月にかつてのような笑顔を取り戻してくれた。それだけではなく、母にもしてくれたのである。
新たないのち。月が紡ぐ可能性。恋も、それを密かに愉しみにしているひとりだった。
「慕われているのですね、殿のことを。ですが、よくわかります。拙者も、殿に拾われていまの自分になりましたから」
「……紅波は、西域からでてきたって聞いている。恋の生まれも、そのあたり」
「昔のことは、たまにしか思い出さないようになりました。それだけ、いまが充実しているからでしょう。まさか、おのれが部下を持つようになるとは思いませんでした。それも、殿のような御方のもとでなど」
紅波の過去については、あまり詳しくは知らなかった。
ただ、事情があって西域から流れつき、拠り所とするべき人を見つけたという点では同じである。自分にとっては月であり、ついでそれが曹操となったのだ。
「そういえば、紅波には真名がない?」
「ふふっ。拙者にとっては、その名は真名に近しいものなのです。向こうにいた頃は、胡車児と名乗っておりました。紅波というのは、拾っていただいた時に頂戴した名前でして」
「そっか。一刀に、もらった名前……。ちょっとだけ、羨ましいかも」
きっと、名付けられたことが紅波にとって契機となったのだろう。
過去との決別は、簡単なことではない。それで月が長く苦しんでいたことも、知らないわけではなかったのだ。
「恋殿。はじめてお会いした時のことを、覚えておられますか?」
長い沈黙。
戦場。それとも、城郭のどこかで出会ったのか。どれが正解なのか、はっきりとはしなかった。
「雨の日のことです。拙者は殿と一緒になって駈けずり回り、帝のお姿を捜した。あの時の月殿は、大きくておそろしいだけの存在でした。それで、斬りかかろうとしたところを、殿に制止されて」
「……そういえば、そんなこともあった気がする。みんなずぶ濡れになったから、あのあとすっごく寒かった」
「ははっ。いまとなっては、いい思い出です。かつて死を覚悟させられた相手とも、こうして笑い合うことができる。殿の本領は、きっとそこにあるのです。かつて董卓陣営にあった方々を見ていると、そう強く思わされてしまいますよ」
それもそうだと思い、恋は無言で頷き返していた。
曹操の真の強さ。それは、戦場の外で発揮されるものなのである。自分たちだけではなく、袁紹や劉備にしてもそうだった。曹操というひとりを中心に据えて、天下はつぎなる方向へと進もうとしているのではないか。
すると、自然と生まれてくる予感がある。
言いかけたところで、紅波が立てた指を口にあててきた。
「おっと。この先のことは、まだ互いの胸中に留めておきましょう。戦は、まだ終わったわけではありませんから。それでは、殿へのご報告がありますので、拙者はこれで」
「あっ、紅波」
肩を掴もうとした手。見事に、空を切っていた。
あの素早さには、追いつけそうにもなかった。
ちょっと明るくなった気持ち。それを赤兎にも教えてやろうと、恋は再び藁束を手にしている。