桂花がメインに昇格したり、一刀が愛紗のお義兄ちゃんになったりと、初期の構想からいろいろ変わっていくものです。
一 狂虎と悍馬
青空のもと、蓮華は馬を駆けさせていた。
目指しているのは曹操の陣。ただし、軍勢を率いて攻め込んでいるわけではなかった。
母である炎蓮の思いつきから、今日の出来事ははじまったと言っていい。
「こうしていても埒が明かん。一度、やつの顔でも拝みにいってやるとするか」
正気を疑うような一言だった。
いくら母が豪胆な人であるとはいえ、物見遊山にでも行く雰囲気で敵陣に乗り込まれては困る。この決断には、百戦錬磨の宿将たちですら動揺を隠せなかった。
そしてたちの悪いことに、母は冗談でそのようなことを告げる人ではなかった。
意図が理解できないわけではない。戦場での拮抗を尻目に、曹操は自身の影響力を着実に強めていた。幽州の公孫賛。益州の劉璋。孫家の支配領域に住まう山越族にまで、調略の手は伸びているようだった。
袁紹との融和により、曹操は中原の名士をことごとく手中にしているような状態なのである。動かせる人員は自分たちよりも明確に多く、それぞれの持つ脈も豊富だった。
後方が騒がしくなっては、戦に集中することもままならない。なんなら、切り取った豫州の土地を放棄して、もとある汝南までを固めることすら母は考えているようだった。
「なに難しい顔をしてやがる、蓮華。曹操と会うのが、そんなにおそろしいか」
「ま、まさかっ。私がおそれているのは、母さまの無謀な勇気だけなのです。ほんとうに、考えられません。たったこれだけの人数で、敵軍の陣に向かうなどと」
「ハハッ。だから、最初に言ってやったじゃねえか。護衛など、五人も百人も変わらんだろうとな」
そう言って、母はいかにも愉しげに笑う。
言っている内容に関してはその通りだが、狂っているとしか思えなかった。
無理やりついてきた祭を除けば、あとは普通の兵が十人ばかり。それが百人いたとして、母ひとりに戦力としては及ばないのが現実なのである。
単身乗り込んでくるような人物を、曹操は害せない。確信に近い考えがあるから、こんな行いができるのか。それとも、おのれが死しても孫家のまとう炎が絶えないと信じているから、簡単に危険を侵してしまえるのか。
生死の境目。もともと曖昧だったそれが、死の淵から蘇ってからはさらにいい加減になっている気がしていた。
娘の立場からしてみれば、どちらにせよはた迷惑な話だった。
だから、ひとりでは行かせてはやらない。以前のように、自分の手の届かないところで大切な人を失うのは、絶対に嫌だった。
「観念なされい、蓮華さま。殿のこの御気性、くたばったとて治りはしませぬ。この家に生まれたのが、運の尽き。腹をくくって、曹操の懐に飛び込みましょうぞ」
「悪いわね、祭。母の無茶に、あなたまで巻き込んでしまって」
「なんの。このくらいのこと、慣れっこじゃわい。それに、蓮華さまこそ留守を守ってくださればよかったものを。あの華雄ですら、大人しく殿の言葉に従ったのですぞ?」
「ふふっ。華雄に比べて、まだまだ子供なのでしょうね、私もあなたも。だから、母さまをひとりで行かせられない。自分がそばにいなければ、と思ってしまうのね」
「むむむ……。この儂が、あの華雄よりもガキじゃと仰せられるのか、蓮華さまは」
不服そうに祭が眉根を寄せる。
自分たちのやり取りを、母は素知らぬ顔で見ているだけだった。
華雄は曹操について深く知らないが、麾下である呂布や張遼などとはかつて昵懇な間柄だった。その二人が、信を置いて旗を預けている男。そうであれば、さして身を案じる必要もない、とでも考えているのか。
「よお。見えてきたな、曹操の陣営が」
曹操軍の反応は素早かった。
すぐに数十騎で編成された物見が駆けつけて、自分たちは包囲されてしまう。
ここまでは、想定通りの流れだった。あとのことは、天に身を任せるしかないのか。軽装の将らしき人物がでてきて、母に対して剣を向ける。どうしてか、その表情は笑っていた。
「はははっ。その顔、まさか孫堅か。そのうち見えることになるとは思っていたが、これほど早くなるとはな」
「ああん? 誰かと思えば、西涼の暴れ馬じゃねえか。さては貴様、娘を取り返しに来たところを籠絡されて、曹操に下ったな?」
「……ったく、そんなんじゃねえっての。人を小馬鹿にしやがって、この死に損ないが。まあいい、首を刎ね飛ばす前に、用件くらい聞いてやろうじゃねえか。婿殿の面子を、私が潰しちゃあ元も子もねえからな」
「ほう? 田舎で家に引っ込んでいると聞いていたが、案外威勢がいいじゃねえか」
西涼の暴れ馬。母の態度から察するに、相手はどうやら馬超の母である馬騰のようだった。
いつの間に、という思いが強くなる。娘ばかりか、馬家の当主までもが曹操の兵を率いるようになっている。これでは、涼州の情勢は決まったようなものだった。
またひとつ、首に巻かれた縄がじわりとくい込んだ。いまの状態を表現するのなら、それが適当なのだろうか。
「こちらの用件だが、会いに来てやったと曹操に伝えろ。おお、そうだ。急な来訪ゆえ、酒は不要だともつけ加えておいてくれ」
「会いに来てやっただあ? どこまで図々しい女なんだ、貴様は」
「さっさと行かねえか。小間使いが、ぼさっとしてるんじゃねえよ」
「一々気に障る言い方をしやがって……。婿殿の許可がでたら、その首ひきちぎってやるからな、この戦さ気狂いめ」
馬騰の加入は、孫家にとってかなりの痛手のはずだった。
それでも、母の姿勢は微塵もぶれていない。障害物が多少増えようと、斬り伏せるのみ。そうした気構えがあるから、常に自分を見失わない。母の背中。理解しているはずなのに、やはり大きく見えている。
この程度のことで狼狽えているようでは、当主は務まらない。まるで、そう教えられているような気分にもなってくる。
それに、往年の知り合いと再会できて、なんだか嬉しそうですらあるのである。生きていれば、縁が再び結ばれることがある。それが敵であっても、武人同士通じる部分があるのだろう。
「行くぞ。びびっていては話にならん。堂々としていろ、堂々とな」
「はい。肝に銘じておきます、母さま」
腹に力を込め、馬騰のあとについて行く。
林立する曹操軍の旗。負けじと、蓮華は馬上で背筋を伸ばしている。