孫堅軍の退却を見届けてから数日、曹操は自身も兵を引き上げていた。
提案に従い、豫州北部からは孫家の旗は消えている。
代わりとして、汝南方面に拡がる旧袁術領に食い込んでいた袁家の軍勢を、曹操は東に移動させていた。
麗羽たちからしてみれば、縁のある土地ををみすみす手放したことになる。それでも麾下に不満が大きく募らなかったのは、麗羽による統率が確かなものである証拠なのだろう。本人にも、多少の心残りはあるはずだった。かつての麗羽であれば、間違いなく撤退を渋っている。絶影の背から金色の具足を見つめ、曹操は率直に思っていた。
「構いませんわ、そのようなこと。いずれ、この国の隅々にまで貴方さまの威光が轟くことになるのですもの。ですから、故郷への凱旋は、それからでも遅くはありませんでしょう?」
そう言い放つ姿は、堂々たる振る舞いも相まって、かつてなく頼もしく見えていた。
いまの麗羽は自分に次ぐ地位にいて、しかも妻女としての役割を果たそうとしてくれている。でなければ、あの桂花が礼節を尽くそうとするはずがないのである。
群雄として誇れる程度の版図と兵力を、麗羽は兼ね備えている。袁家の立ち位置は麾下の中でもかなり特殊で、本来であれば命令ひとつ下すにしても、かなり気を遣うべき存在だった。
徐州への出陣からここまで、あっという間だったような感じがする。
劉備軍との攻防。呂布軍の叛乱と、袁紹軍の颯爽とした到来。再会もあれば、別れもある期間だった。
様々なものを踏み越え、自分たちは天下の中心へと邁進している。気力の充実を、曹操は感じずにはいられなかった。
「主さまに、報告がございます。接触を続けていた益州の劉璋殿ですが、どうやら使者を派遣してくださるようで」
「ありがたいな、それは。しばらくは俺も沛にいる。会う時間は、そこで設けるつもりだ」
真直の言葉に、曹操は軽く頷いてみせている。
こちらに恩を売りたいのであれば、動きが遅すぎるくらいだった。
おそらく劉璋は、自分と孫堅とを計りにかけていたのだろう。家の存亡がかかっているだけに、慎重になる気持ちがわからないわけではない。とはいえ、売り込みは意味のある段階で行わなければ利を生むことがない。機会を逸しても立場が微妙になることなど、劉璋の考えにはないのかもしれなかった。
涼州の馬騰が曹家の支持に回ったという情報は、益州にも流してある。そこに孫堅退却の報告が重なり、ようやく重い腰が上がったということなのかもしれない。
「麾下の方々のほうが、当の劉璋殿よりも危機感を強く抱いておられるそうですね。使者として名乗りを上げられたのも、益州随一の将軍なのだと聞き及んでおります。わが君とされましては、それは望むところなのではありませんか?」
補佐として、稟は複数の案件に関わっている。
益州については放浪時代から調査していたようで、それで使者として送られてくる将軍の名を存じていたのだという。
「なにか引っかかるような言い方だな、稟? まあいい。下級役人に書簡を持たせているのであれば話も変わってくるが、それなりの誠意は見せてくれそうではないか。益州きっての武人にも、会うのが愉しみだ」
「場合によっては、干渉具合を変えていく必要があるのかしれませんね。大きな声では申せませんが、麾下の方々はいまのご領主の器量を不安に感じているような節があるのです。主さまのお取りになる態度次第では、あるいは」
「こわいことを考える。ただしかし、真直の言うことだ。頭の片隅には、置いておこう」
「あ、ありがたき幸せです、主さま」
そこから数日、沛に向かって駈け続けた。
しばらくは豫州に逗留し、新たに獲得した領地の内政に目を配るつもりだった。兵の半数ほどは先に帰し、連戦の疲れを取る予定になっている。春蘭はすぐにでも通常の調練を再開したいと言ってきたが、少し期間を空けるように申し付けてある。
次の闘いで、孫堅との勝敗を決する。その腹積もりがあるだけに、準備は入念にしておく必要があるのだった。
相の城郭が見えている。出迎えるひとの姿。馬上から手を振り、曹操は応えていた。
「おかえりなさい、一刀くん。ひとまずは、波を乗り切れたようね」
「燈や、みなの助力があったからできたことだ。これからも、よろしくお願いしたい」
「うふふっ。私は自分がそうしたいから、あなたに力を貸しているのよ? だから、お礼なんていらないわ」
燈が優しげにほほえんでいる。
母のようであるといえば、そうなるのか。惹かれるように絶影の背を降り、曹操は地面に立っていた。
「ほんとうに、お疲れさま。一刀くんも、少しはのんびりしていってちょうだい?」
「ははっ。無理な相談だな、それは」
「そう? うーん、だったらいつでも甘えにいらっしゃい。そうしたら、こうやって……」
戦場の匂いをたっぷりと含んだ身体。構わず、抱きしめられている。
どんな素材よりもやわらかな乳房。感じているだけでも、つい眠気に襲われてしまう。もうしばらく、気を張っていなければ。その自覚はあるのだが、燈が発する甘さもあって防衛戦が次々に突破されていく。
「うん、いい子いい子。ねっ、あとから一緒にお風呂に入るのはどうかしら? 一刀くんの身体、たっぷり癒やして差し上げたいのだけれど」
ささやくように燈が言った。
ぼんやりと想像してみるだけでも、身体の一部が熱くなる。冗談でもなんでもなく、心からの奉仕をしてくれるつもりなのだろう。妖艶さを含んだ吐息。耳に吹きかけられると、たまらない気分になってしまう。
「ちょっと、公衆の面前でなんてことしてくれるのよ。あんたも遊んでいないで、さっさと隊列に戻りなさいよね」
「あんまり怒ってはだめよ、桂花殿? せっかくのかわいい顔に、しわができたら大変じゃない」
「大きなお世話ね……。ほら、行きましょう、一刀?」
「仕方がないか。それじゃあ一刀くん、またあとでね……♡」
ゆっくりと解かれていく抱擁。離れていくぬくもりが、ちょっと残念でもあった。
「手間を取らせた、桂花」
「そっ。一応、自覚はあるようね。だったら、言われる前にしゃきっとしてちょうだい」
なんとなく満足そうにしている桂花を伴い、曹操は進んでいく。
徐州にいる桃香たちも呼び寄せてあるから、今夜はきっとにぎやかなことになるのだろう。これだけの間離れているのは初めてだったらしく、愛紗などは特に再会を待ち焦がれているようだった。
「おっ……にいちゃーん!」
城門をこえたあたりで眼に飛び込んでくる小さな影。鈴々の元気に溢れた声が、あたりに反響を撒き散らしている。
「えへへー。シャンもいるよー、お兄ちゃん」
続いて、香風が駆け足で近づいてくる。弾けるような素振りではないが、嬉しさは確かに伝わってきていた。
二人を手招きし、曹操は馬上に誘った。ちょっと香風と顔を見合わせてから、鈴々が小さな手を伸ばしてくる。抱き上げ、身体の前に乗せてやると以前感じたような太陽の香りが鼻腔をくすぐった。
「……それじゃあ、シャンはこっちだね」
見事な跳躍を見せ、香風が後ろに腰を落ち着ける。
背中に感じるやわらかさ。無理に密着せずとも、振り落とされることはないはずである。どちらかというと、自分がそうしていたいから香風は鈴々に前の席を譲ったのか。
「へへっ。お姉ちゃんも、早くお兄ちゃんに会いたいって言ってたよ? だから、香風と一緒に呼びに行こうって」
「そうか。俺も、鈴々の明るい声を聞いていると、元気をもらえるような気がしている」
「そうなの、お兄ちゃん? なら、今日から毎日たくさんお話したいのだ。あとあと、ご飯も一緒に食べたい!」
この元気っ子には、さしもの桂花も毒気を抜かれているようだった。
つんと尖った唇は、勝手にしろという意志のあらわれなのか。ほんのりとあたたかい鈴々の髪。撫でながら、曹操は自然と笑っていた。
「だったらシャンは、一日一回ぎゅってしてほしい。これでも、徐州で結構がんばった」
「ははっ。約束がなくても、勝手にそうするさ。かわいい香風がそばにいて、俺が我慢などできると思うか?」
「わわっ……。うれしいけど、ちょっと恥ずかしいのかも」
そう言って、香風が背中に顔を擦りつけてくる。
犬や猫が匂いをつけるような動作。照れ隠しなのだろうが、眼で見られないのが残念でもある。
「あっ! おーい、こっちだよご主人さまぁー!」
底抜けに明るい声。その持ち主である桃香が、手を振りながら懸命に跳ねて居場所を知らせようとしてくれている。
同時に、立派に実った二つの果実が重そうに揺れている。鈴々と香風、それに桂花の三人は、その圧倒的な存在感の前に、ちょっと打ちひしがれているようだった。
「ほんっと、にぎやかになりそうじゃない。ただし! あんまり羽根を伸ばしすぎないようにしてよね、ご・主・人・様……?」
あれこれと注文をつけてくるものの、桂花もいまの状況を愉しんでいるのではないか。そう思ってしまう程度には、表情や声に余裕が見て取れるのである。
「ご主人様! ご飯の準備、私も手伝うからたくさん食べてねー!」
「お、お姉ちゃん、それは本気なのだ……?」
敏感に反応を示した鈴々が、馬上で身を強張らせている。戦場に近い緊張感。そんなものを、鈴々は義姉から感じているというのか。
不思議な様子だったが、考えても仕方のないことだった。まだ跳ねたままの桃香に、曹操が手を振り返す。
鈴々の洩らした言葉の意味。数刻後に知らされた曹操は、黙してその時の感情を詩に残したのだという。
オチに使ったことを許してくれ、桃香。