城内にある訓練場の一角。休憩用の卓に肘をつき、桂花は鍛錬の様子を眺めていた。
声をかければ届く範囲であるから、剣戟の音や会話の内容までよくわかる。いまは曹操が春蘭と手合わせをしていて、押しまくられているような状況だった。
「がんばれー、お兄ちゃん」
「……このままだと、一刀が死ぬ。恋は、助けに入ったほうがいい?」
気楽に武器を磨く香風と、心配そうに戦況を見守る恋。
確かに、春蘭の剣には鬼気迫るようなものがある。ほとんど戦場いる時と同様の太刀筋で曹操を圧倒しているのだから、恋が不安に感じてしまうのも無理はなかった。
防戦一方。襲い来る刃を避けるのが、曹操にできる精一杯なのか。春蘭との技量の差は歴然で、むしろよく耐えていると評されるべきなのかもしれない。
君主のする鍛錬という意味では、ここまでする必要はどこにもなかった。常在戦場。孫堅との闘いはまだ続いていて、そのためにも曹操は自身を追い込もうとしているのか。刃をくぐり抜ける瞬間、ちょっと眼があったような気がしていた。
「こっちを見るくらいの余裕があるのなら、仕合に集中しなさいよね」
顔を明後日の方向にやりながら、桂花が呟いた。
厳しい状況に置かれるほど、曹操という男は力を発揮する。生まれ持った天運。そうした類のものすら、時には働いていると錯覚してしまうことがあった。
「そ、そこまでっ! 武器をお引きください、兄上」
審判を務めている愛紗の声が響く。
視線を切っていたせいで詳細は不明だが、あの一瞬で形勢が逆転していたらしい。尻もちをついた春蘭の上に曹操が馬乗りになっていて、首筋に剣を突きつけているのだ。
攻撃に夢中になっていたせいで足もとが覚束なかったのか。それとも、曹操がなにか小細工をしかけたのか。とにかく、勝ちには違いなかった。
「桂花ちゃんも、ここにいたんだ。それにしても、ご主人様はすごいねぇ。あの春蘭さんに、土をつけちゃうんだもん」
「桃香殿も、試しに参加されてみては? 天が味方をしてくだされば、あいつのように勝ちを拾えるかもしれませんよ」
空いている席に、しれっと桃香が座り込んでくる。
卓上に身を乗り出しているせいで、身体の一部分がいつも以上に強調されている。とはいえ、ちょっと嫌味っぽく聞こえる言葉を吐いたのは、そのことが原因ではないと桂花は思いたかった。
「ええー? 無理無理、私なんて向き合っただけでもきっと倒れちゃうよ。それに、天運だってあの人には遥かに及ばないって、わかりきっているし。予言にあった御遣いさまに出会えなかった時点で、私なんてそれまでだったんだよ」
「そうかしら。その割には、なんだか嬉しそうじゃない、あなた」
えへへー、と桃香が気の抜けそうな声を洩らしている。
ゆるい笑顔。ただ、それだけの女でないことは知っていた。やると決めたことは、とことんまで押し通す。そして、それをやれるだけの力を、この劉備という人物は持っているのだ。
陶謙を州牧の地位から追い落とし、徐州攻めに立ちはだかった時がそうだった。そして、機が熟したと見るやすぐさま態度を変え、曹操を迎え入れた。
事情を知らない者からしてみれば、尻の軽い女のように見えるのかもしれない。徐州に対する義理。曹操と手を携え、乱世を乗り越えたいという思い。ともすれば、どちらか一方は捨て去るしかないような願いだった。
「一刀さんのことを、少しの気兼ねもなくご主人様とお呼びできている。それだけで、いまの私には十分なんだ。たとえ、あの方が天の御遣いさまじゃなくってもね」
「……そっ。出ているみたいね、桃香殿なりの答えが」
「うん。だから、あとはご主人様をお支えするだけなんだ。いろいろあった分、全力でね。……あっ、見て見て! おどおどしてる愛紗ちゃん、かわいいなぁ」
天の御遣い。そのことについて、最近曹操から相談を受けている。
それとなく、自分こそがそうであるという風聞を流したい、というのである。力さえあれば覇者になれるわけではなく、そこには民衆を納得させられるだけのなにかが必要だった。
「見事でした、殿。負ける気などさらさらありませんでしたが、さすがの勝負強さです」
「まぐれだよ、まぐれ。ただし、戦場ではそのまぐれをいかに起こせるかで、生死が変わってくることも確かなのだろうな」
「殿は過去にも、これなる呂布や張遼とも果敢に刃を交え、生き延びてこられました。それだけが事実であり、殿の実力をあらわしていると私は存じております」
「やけに褒めてくれるのだな、今日は。なにか、いいことでもあったのか?」
「なにも。こうして殿のお相手を務めさせていただくだけで、この夏侯惇、心が満たされるのです」
「ははっ、なんだそれは。ほら、立てるか」
曹操の差し出した手につかまり、春蘭が立ち上がる。
張り詰めていた雰囲気がようやく解かれ、一転和やかになっていった。
「それにしたって、やりすぎではないのか、春蘭よ。いくら兄上が本気で向かってくるように命じられたといえども、あのような」
「殿のご命令は絶対でなければならん。だから、私はただそれに従うのみなのだ。それともなにか? 愛しい兄上が相手ともなると、貴様の振るう青龍偃月刀は、痩せ細った蛇のように弱々しくなるとでも言うのか?」
「むむむ……。誰も、左様なことは申しておらんではないかぁ」
あの春蘭が、珍しく言葉で相手に勝っている。
曹操との信頼関係を見せつけることができて、いくらか満足しているのかもしれない。そういうところは、幾分子供っぽいと言える。
「というか、私なんぞまだましな方なのだぞ。冷静でいるように見えて、へそを曲げている時の秋蘭などは最悪だ。もっと若い頃は、殿も何度身体を射られそうになったことか」
「か、考えられん……。しかし、春蘭たちと兄上とのつながりは、少し羨ましく思えてくるな。だからこそ、私もこれから励もうという気になるのだが」
自然と輪に入り語らっている愛紗の姿を、桃香が嬉しそうに見つめている。
かわいい妹分が、すっかり溶け込めていることに安心しているのだろう。ご主人様という、曹操に対する呼称。その意味も、少し前に聞かされているのだ。
「小さな時分から、加減というのを知らない女だった。だからこそ、俺も気を許せるようになったのだろうが」
「兄上の小さな頃……。もしよろしければ、思い出などをお聞かせ願いたいものです」
「んっ……。恋も、それにはちょっと興味がある。いろんな女の子にちょっかいを出してたのは、昔から?」
曹操との初対面は、数えてもう七年ほど前になるのか。
男であるから、いけ好かないやつと決めて臨んだことが懐かしい。妙に気に入った母が押し通してこなければ、対面すら拒絶していたのかもしれなかった。
「桃香殿」
「えっ? なにかな、桂花ちゃん」
「この世に数多存在していた群雄。それも最早過去のことで、国の様子は変わりつつある。その中で、英雄と称するに相応しい器を持つ人物は、どれだけ残っているのでしょうね」
戯れのような言葉。考えた時には、口をついていた。
腕を組んだ桃香が、青い空を見上げている。それなりに真剣に候補を考えてくれているようで、口がなにかを呟くように小さく動いていた。
「ご主人様は当然として、あとは孫堅さんが適当かな?」
「一刀ね……。まっ、そういうことにしておいてあげましょうか。孫堅は豪気でいて、意外と柔の要素も持ち合わせている女ね。兵は強く、麾下にも良将が揃っている。今後も、油断することなどできない相手でしょう。ほかには、桃香殿?」
「うーんと。だったら、麗羽さんもきっとそうだよね。あの決断がなかったら、ご主人様だって今頃すごく苦しんでいたと思うから。なかなか出来ることじゃないよ。地位を諦めて、誰かのために尽くすだなんて」
「それはそうね。麗羽殿が天下に与えた影響は、とてつもなく大きかった。人の器なんて、案外きっかけひとつで拡がるのかもしれないわね。あるいは、ずっと豪奢な布で覆われていただけだったのかも」
袁家の威光を笠に着た、尊大なだけの小物。麗羽のことを、そう評していた時期すらあったのだ。
それが今では、曹操の覇業に欠かせない人物になっている。公私のどちらにおいても、麗羽の存在はどこまでも大きかった。礼節を尽くす中にある、遠慮のない付き合い方。それを、曹操は間違いなく心地よく感じているのだ。
「それからとなると……。あっ、公孫賛ちゃんとかはどうかな! しばらく会えていないけど、幽州でずっとがんばっているみたいだし」
「ふうん。どうあっても、自分の名を挙げようとはしないのね、劉備玄徳」
驚いた桃香が、丸い眼をさらに大きく見開いている。
冗談ではないことが伝わっているのだろう。曹操を相手にしているわけでもないのに、なんとなく居住まいを正そうとしているのが、おかしかった。
「自分で考えている以上に、あなたには影響力があるってことよ。でなければ、単なる田舎娘に関羽や張飛のような傑物が味方するはずがないじゃない。……これでも、私は桃香殿に感謝しているのよ。あなたがその気になっていれば、曹、孫につぐ第三の勢力にだってなれたはずなんだもの。その人徳と、劉の名があればできないことじゃない。朱里のような子だって、一時は桃香殿の軍師になっていたんだし」
「そ、そうなのかなあ? だけど、私はそうなることを望まなかったし、朱里ちゃんだってご主人様といることを選んだ。もし、もしだよ? 私に英雄としての器があるのなら、それすら引っくるめて抱き寄せてくれたご主人様が、やっぱり一番ってことになるよねぇ? あの麗羽さんだってそうなったんだし、これは間違いないよ! うん、絶対!」
「うっ……。なんだか頭が痛くなってきたのかも、私」
「わわっ!? へ、平気なの、桂花ちゃん。どうしよ、ご主人様を呼んだほうがいい!?」
「それだけはやめてちょうだい。余計に、頭痛が悪化しそうだから」
おそらく、すでに手遅れなのではないか。
恋の純真無垢な瞳が、こちらを向いている。それに続いて、春蘭や曹操までもが自分たちの様子をうかがっていた。
「劉備玄徳。ほんっと、食えない女なんだから」
「えっ? なにか言った、桂花ちゃん?」
桂花は頭を抱えたまま、迂闊な質問をしたおのれのことを呪うのだった。