逗留中の館。その居室で、曹操は女と会っていた。
厳顔。劉璋から使者役に任じられている軍人で、その武は益州随一なのだという。
歳の頃は燈と同じ。あるいは、少し上なのかもしれなかった。とはいえ、女盛りを過ぎているのではない。熟れた色香とでもいうのか。そうしたものは、曹操も嫌いではなかった。
意志を感じさせる瞳。立場的には自分が上だが、気後れはどこにもない。拝礼をした後、厳顔が口を開いた。
「曹操殿。こうして拝謁が叶いましたこと、まことに恐悦至極。この厳顔、わが主に代わり、御礼申し上げまする」
「よい。過度な遜りは不要だ、厳顔。俺とて、所詮は数ある群雄のひとりに過ぎないのだよ。そうした意味では、漢室の血族であるそなたの主君のほうが、よほど格では上だな」
「はははっ。そちらこそ、ご謙遜を。しかし、さすがは世に名高き曹操殿の軍ですな。少し見かけただけですが、みな顔つきがよい。率いる将の威光が、隅々にまでいき届いておるのでしょうな」
顔を上げた厳顔が、快活に笑う。
本来であれば、適当な外交官こそがこの場にいるべきなのではないか。文官を数人同伴しているようだが、どれも名のある者ではないと真直が言っていた。
劉璋としても、孫堅の行動をおそれるのであれば、戦で頼りにできる人材はそばに置きたいと考えるのが普通だった。
特段暗殺を警戒しているわけではないが、会談には春蘭と恋が同席している。ほかには、窓口として折衝を担当している真直と稟が一緒だった。
「わしのような女が使者に選ばれていること、不思議にお思いですかな、曹操殿」
「不思議といえば、不思議ではある。ともあれ、そなたのような生粋の武人が相手であるほうが、無駄な腹の探り合いをしなくて済むとも言えるな」
「うむ。それは、そうなのかもしれませんな。わしは、主君からの言葉を曹操殿にお伝えできればそれでよい。あとは、帰るまで酒でもかっ食らっている所存。わざわざ豫州まで出向いて来たのですから、そのくらいの役得があってもよろしかろう」
このやり取りだけでも、主従の関係性がなんとなく読めてくる。
信頼はしているものの、古強者である厳顔を若い劉璋は煙たく感じているのではないか。自分への使者として派遣すれば、しばらく顔を合わさずに済むし、厳顔に名誉を与えることにもなる。
一挙両得。そのくらいの考えがあってもおかしくはないと曹操は踏んでいた。劉璋は父から地位を受け継いだ二代目で、自力で築いた権力基盤があるわけではない。それだけに、古参の有力な麾下は頼りになっても心からは通じ合えないのだろう。
「それで厳顔殿。劉璋殿は、主さまに対してなんと?」
真直が言った。
稟は補佐役として出席しているが、率先して口を出すつもりはないようだった。
「おう。わが主君は、孫堅からの脅威に対抗するため、曹操殿の力をお借りしたいと仰せだ。無論、盟約を結ぶとなればそちらが主体となる。どれ、この答えで満足していただけましたかな、田豊殿?」
「は、はいっ、もちろん。ですよね、主さま?」
落ち着き払っている厳顔と、ちょっと慌ただしいくらいの真直。二人の様子は対照的なもので、人柄がよく出ていると見るべきなのか。
劉璋も、さすがに対等な同盟を結べるとは思っていないようだった。小さく頷いた稟を見て、曹操が笑う。
「いいだろう。曹操が了承していたと、劉璋には伝えるがいい。正式な決定は、追って連絡する。それまでは、益州の守備をかためておくことだな」
「はっ。感謝いたしますぞ、曹操殿。これでわしも、慣れない荷を肩から降ろせるというものですな」
いつまでも、盟友でいるつもりはなかった。
孫家を打倒し、国内を取りまとめるまでは、それでもいい。だが、やがて自分が覇者となれば、劉璋は態度を改めざるを得なくなる。
もし歯向かうことがあれば、迅速に対処する。ただ、それだけのことだった。
「厳顔。貴様の使っている得物、なにやら奇妙な仕掛けが施してあるそうだな。差し支えがなければ、一度見ておきたいのだが」
春蘭の興味は、厳顔の武器にあるようだった。
どういうものなのか、はっきりとは知らない。ただ、杭のごときものを打ち出せるようで、それを何発か装填しておくことも可能なのだという。
「いやはや。あれは豪天砲というのだが、近頃どうにも調子が悪くてな。拵えてくれた鍛冶もすでに世を去っておるし、今ではただの虚仮威しよ」
「ふむ、それは残念だ。益州で一番と評判の武人が眼の前にいるというのに、腕試しもできんとはな」
「ほう。腕試しが所望とあらば、付き合ってやっても構わぬぞ? 剣でも槍でも、好きなほうで相手をしてやるわい。わしとて、天下に名高き飛将軍と会えるのを愉しみにしておったのだ。呂布奉先。そちらの赤い髪をした
厳顔の視線が、恋のほうを向いている。
標的にされている当の本人は、そのことがよくわかっていないようで、かわいらしく首を傾げるだけだった。
「聞き捨てならんな、それは。曹操軍の剣といえば、まずはこの夏侯惇の名を挙げるべきであろう。まあ確かに、呂布の強さは私も認めるところではあるが」
「かかっ。若さとはやはりいいものですなあ、曹操殿。かように癖っ気の強い武人どもを束ねておられるのだから、貴公は大したものだ。曹操孟徳は、州牧の器にあらず。かの評判は、あながち間違いではないのかもしれませぬ」
「ああ、なんだと? 貴様、もう一度言ってみろ。言えるものであれば、だがな」
「はははっ。言ってやろうではないか、何度でも。曹操殿は、州牧の器ではない。そう言っておるのだ、わしは」
春蘭が瞬時に剣を抜き放ち、厳顔の首筋に突きつけている。
それでも、顔色は変わらない。堂々とした立ち姿も、同じである。
「呆けているのか、貴様。それとも、ただの死にたがりなのか?」
春蘭の苛立ちは明白だった。自分のことを毀損されて、腹立たしくてたまらない。そう思ってくれるのはありがたいが、もう少し分別をつけるべきではある。
ちょっと迷ったように、恋が視線を送ってくる。それを手で制し、曹操は言った。
「控えろ、夏侯惇。わが忠臣は少々直情的でな。試すのはそのくらいにしてもらえるか、厳顔?」
「ふむう……。まだまだお若いというのに、貫禄があっておいでだ。夏侯惇殿にも、悪いことをした。とりあえず、この危なっかしいのをどけてもらえると助かるのだが」
「ちっ。殿の命だ、ひとまずは私も退こう。が、次なる返答によっては……」
「聞こえなかったのか、夏侯惇。もういいと言っているのだ、俺が」
曹操の声が室内に響く。
飛び退くように春蘭が剣を引いた。冷ややかなものを当てられていた首筋。撫でながら、厳顔は余裕たっぷりに笑っている。
「曹操孟徳は牧の器にあらず。さりとて、覇者の器なり。そう言いたかったのだよ、わしは」
「完全に遊ばれてしまいましたね、夏侯惇殿。しかし厳顔殿。ただ今の発言、本意だと受け取っても?」
それまで押し黙っていた稟が、興味をそそられたのか会話に入ってくる。春蘭もようやく納得がいったようで、幾度も首を縦に振っていた。
「好きに受け取ってもらって結構。無為に歳を重ねてきたせいか、人を見る眼だけはそれなりに肥えてきていてな。話をしていて、こういう御方こそが天下を奪るのか、と思わされた。単に、それだけのことよ」
「やけに持ち上げてくれるではないか、厳顔。だからといって、酒宴での見返りは期待するなよ?」
「そのような下心は、これっぽっちも。天下を統べる器量を備えた御方が、使者のもてなしに手を抜かれるなどと思ってはおりませぬゆえ」
そう言って、厳顔がまた大笑する。
どこまでも豪気で、底の見えない女だと思った。こうした軍人が益州で燻ぶっているのだから、天下というのも捨てたものではないのか。
機嫌をよくしたまま手を打ち、曹操が侍女に合図を送っている。
飯の匂い。敏感に察知した恋に急かされるように、曹操は居室をあとにした。