鄄城に公孫賛を迎えてから、三日になる。
饗応の準備に引き続き、月は客人の対応に務めていた。曹操が帰還してくるまでは、城郭や部隊の様子を視察し、自領の経営に活かすつもりなのだという。
いたって真面目な将軍。野心があるのではなく、すべては幽州に暮らす民のためであるのだと月には思えている。
両手で運んできた器を、卓上に並べる。身重の自分を気遣って、侍女が手伝いを申し出てくれたのだが、このくらいは平気だとやんわり断りを入れてある。
湯気。立ち昇っている。あたたかな食事は、人の心に安らぎを与えるものだ。
着席している公孫賛が、出かかった欠伸を噛み殺している。
幽州からの旅路。それに、賓客だからといって、他国で気を抜いていられないという思いが、今頃疲れとなって表出しているのではないか。
「おっと。なにからなにまですまないな、董白殿。しかし、今でもおかしな感じが拭えないでいるよ、私は。あなたが長安を落ち延び、敵対していた曹操殿のそばを安住の地として選んだ。しかもだ、その館で私はこうして世話になり、朝飯まで用意してもらっている。まったく、あの頃の自分にこの状況を話したら、一体どんな顔をするんだろうな」
そう言って、公孫賛は汁物の入った器を引き寄せる。野菜と少しの肉でとった出汁。そこに、塩で味をつけただけの簡単なものである。
ひと口すすって、公孫賛が目配せをしてくる。どうやら、上手くできているようである。自身も席につき、月は箸を手にとった。
二日間の宴席で、豪勢な食事にも飽きてきたのだろう。初日以降は流琉もかなり張り切っていて、驚くほど手の込んだ料理が卓を賑わせていたものだ。
「うん。あっさりしていて、これはいけるな。涼州仕込みの味なんだろうか、董白殿?」
「ええ、公孫賛殿。気に入っていただけたのなら、幸いです」
ちょっと眠そうに目蓋を擦ってから、公孫賛が器に直接口をつける。
自分の手料理で、誰かが喜んでくれている。そのことが、純粋に嬉しかった。
流琉のような圧倒的な技量はなくとも、できることはある。やがてはこれが家の味となり、子供にまで伝わっていくのか。そうしたことを想像すると、心が自然と晴れやかになっていく。
「子供、もうすぐ産まれてきそうなんだってな」
「はい、おかげさまで。立派な母親になれるかなんてわかりませんが、努力だけはするつもりです。それが、こんな私にも命をつながせてくださった、曹操さまへの恩返しになると思いますから」
「なるほどなあ。いやしかし、想像していた董相国とあなたとでは、随分と差異があるようだ」
「過去の行いから、逃げるつもりはありません。それに、あの時の自分があったから、今の生があるようにも感じているのです」
慌てたように、公孫賛が両手を顔の前で振っている。
どこにも、否定の必要があることなどなかった。自分は現状を受け入れていて、生き方にも満足しているのだ。
「やっ、言い方が悪かったよ。誰だって、きっかけがあれば変わることができる。それを体現されているのが、なんだか羨ましくってさ。私なんて、あの闘いからなにも変わっちゃいないんだ。地味で普通で、自分で言ってて悲しくなってくるよ」
そういうことか、と月は得心がいったような顔をする。
酸棗の連合軍に加わっていた諸侯の中には、曹操、孫堅のような卓抜した英傑がいる。袁紹、あるいは友人の劉備にしても、天下の情勢に影響を与えているという事実があるのだ。
器を卓に置き、月は公孫賛を見つめている。その表情は、優しくほほえんでいた。
「公孫賛殿は、見事に幽州を守護なさっているではありませんか。烏丸や黒山の賊徒といった脅威を地道に討ち払われていること、曹操さまも感心しておいでです」
「あはは……。まさか、あなたにこうして褒めてもらう日がくるなんてな。まあ、私も自分にできる範囲で、頑張ってきたつもりではあるよ。この乱世、せめて手の届く人たちくらい、守ってやりたいからさ」
「その思いを実現されている公孫賛殿を、誰が侮れるものですか。おのれの足下を見失い、覇を求めて消えていった諸侯を幾人も見てきました。この私とて、言わばそのひとりなのです。かけがえのない友人たち、それに因縁ある宿敵に恵まれていたから、たまたま命をつなげている。でなければ、この身はとっくに塵と化していたことでしょう」
すべて、本心からの言葉だった。
神妙な面持ち。なにも重苦しい話をしたつもりではなかったのだが、公孫賛はそうした状態でじっと聞き耳を立てている。
ふと、張邈の死に顔を月は思い出していた。
あの男も、乱世に運命を狂わされたひとりなのだろう。器以上のことを求め、最後には虚しく滅びを迎えた。謀略に巻き込まれた、と言えばそれまでになる。結局、決断をするのは自分でしかなく、踏みとどまることができたのが曹操だった。
「食事中に失礼する。緊急の用件ゆえ、しかとお聞き願いたい」
静寂を打ち破るように、秋蘭があらわれる。
言葉とは違って、振る舞い自体は落ち着いたものだった。さすがに、曹操が長年信を置いているだけのことはある。
「張邈軍の残党が、州内を騒がそうとしているようなのです。客人に苦しい台所事情を晒したくはないのですが、そうも言っていられないと思い、こうして参上した次第でして」
「そうですか……。張邈殿の残した火種は、まだ」
残党の大半は撃破されているが、まだ抵抗勢力が生きているらしい。
曹操率いる主軍が州を離れている今が、最後の機会だと思っているのだろうか。だとすると、考えが甘すぎる。もはや兗州は曹家一色に染まっていて、付け入る隙などありはしなかった。
「無礼を承知で、公孫賛殿に申し上げる。わが方の将軍はそのほとんどが出払っており、かなり手薄な状態なのです。なので……」
秋蘭の意図が、段々と読めてくる。
張邈軍の残党の処理など、残っている者たちだけで十分対処できるはずなのである。その話を、わざわざ公孫賛にまでもってくる。ならば、そこにある考えはひとつしかなかった。
「おいおい。まさか私に、曹家の兵を率いろと言うんじゃないだろうな、夏侯淵殿?」
「早速のご理解、痛み入ります。白馬将軍と称される御方の力を得られれば、制圧は迅速に済みましょう。天下を騒がす賊徒の軍、捨て置くわけにはいきませぬ」
どこかわざとらしいくらいに、秋蘭は懇願している。
公孫賛は、悩んでいるようだった。
残党を放っておけば、真っ先に民衆たちが被害を受けることになる。とはいえ、提案を素直に飲めば、世間は公孫賛が曹操の手先になったと見るようになる。
これが、秋蘭の独断でないことは明白だった。
曹操は、公孫賛を個人的に高く買っている。それだけに、どこまで突っ込んだ関係を築く気があるのか、試しているのではないか。
提案を拒絶されたところで、討伐になにか支障があるわけではなかった。部隊に関しては詠がきちんと準備しているだろうし、秋蘭か柳琳のどちらかが主将となって出向けば、それで事足りるに違いないのである。
あとは、公孫賛がこの状況をどう判断するかでしかない、と月は冷静に思考を巡らせている。
そして、答えは案外早く出たようだった。
「……わかった。ただし、生半可な指揮なんてするつもりはないからな。この私に誘いをかけているんだ、当然騎馬隊を用意してくれているんだろう?」
「はっ。ご決断、ありがたく存じます、公孫賛殿。わが殿も、きっとお喜びになることでしょう」
「ちぇっ、いいっての。それじゃ、董白殿」
ちょっと苦笑を浮かべながら、公孫賛が立ち上がる。
懸命な判断をした、などと言うつもりはなかった。だが、これが公孫賛にとってなにか変化のきっかけになればいい、とは月も思うのである。
「ご武運を。討伐を終えたら、またこちらにいらしてください。あたたかいものを召し上がりながら、お話の続きをいたしましょう」
「ありがとう、董白殿。また、馳走になりに来る」
頭の後ろで束ねた赤い髪。
なびかせながら、公孫賛は足早に去っていった。