身を引き締めるような風が吹き抜ける。本拠への帰路についた曹操は、絶影の手綱を悠然と操っていた。
万余の大軍を伴っての移動であるから、速度としてはどうしても落ちることになる。ただし、これも調練の一貫であるから気は抜かせない。軍兵にもそのことは伝わっているようで、今のところ極端な遅れはなかった。
絶影の後方には、鈴々が乗っている。
戦場に立てば一騎当千の働きを見せるが、普段は年相応の幼さのある少女だった。徐州攻めでは心労をかけたし、孫堅との闘いがあったから、合流してからも息つく暇はなかった。
桃香たちにも兗州の様子を見せておきたかったし、今回はしばらく一緒にいることになる。だから一応の兄貴分らしく、甘えさせてやれる時くらい、鈴々の好きにさせてやるつもりだった。
「いい子だね、絶影。お兄ちゃんの思うように走ってくれてるし、それだけ賢いってことなのかな」
「絶影とも、それなりに長い付き合いになる。同じ馬に、これだけの期間乗るということは今まではなかった。さすがに、翠は馬を見る眼がある」
「へえ。翠が選んだんだね、この子のこと。向こうに着いたら、鈴々もお願いしてみようかなあ」
抱きついている鈴々の身体があたたかい。
他愛もない会話だったが、鈴々の声は弾んでいる。それだけ、今という一瞬を愉しみにしてくれているのだろう。穏やかな笑み。鈴々に従妹たちの小さな時分の姿を重ね、曹操は気分を和ませている。
「鈴々。あとから、シャンがそっちにいってもいい? お兄ちゃんの後ろ、愉しそうだし」
「えー? でも、しょーがないからかわってあげるのだ。お家に着くまで、鈴々と香風でお兄ちゃんの背中を守りきるの」
「うん。それなら、お兄ちゃんだって安心だね」
親しげに話す声。
徐州では、共に行動することが多かったのだろう。以前にも増して、鈴々と香風の距離は縮まっているようだった。
「いいなあ、二人とも。ねえ、お義兄さまぁ。蒲公英のことも、どこかで後ろに乗せてみない? 鈴々たちよりかはやわらかいと思うよ、いろいろと」
巧みな手綱さばきで、蒲公英が馬を隣に寄せてくる。涼州仕込みの乗馬の腕はやはり一流で、中原の者とは土台が違うことに気づかされる。
涼州といえば、思い出す顔がある。当分は無理だろうが、月とも遠駆けに出かけられる日が来ればいい、と曹操は思っていた。
月以上に、詠からまめに書簡が届いていたから、身体の状態についてはある程度把握しているつもりだった。かなり腹も大きくなっているそうで、子供が産まれる日もおそらくそう遠くはない。名はすでに決めてあるから、帰った時に伝えるつもりだった。
「お義兄さま? おーい、一刀お義兄さまってばぁ!」
「ああ。悪かったな、蒲公英。少し、考えごとをしていたのだよ」
「むむぅ……。それって、ほかの女の人のことだったりしてぇ」
「ははっ。当たりだ、蒲公英。そろそろ、二人目の子ができることになる。祝ってくれるか、おまえも」
「ああっ。それって、董白さんのことだよね? 地元だって同じなんだし、当然お祝いしなくちゃね。それに、思っていたよりずっと優しい人だったから、仲良くしていきたいな、これから」
蒲公英が素直な笑みを浮かべている。
月の子ともなれば、なにより詠がはりきって面倒を見ようとするのではないか。当人は冷静に振る舞っているつもりなのだろうが、書簡の内容は回数を重ねるごとに報告が過剰になっている。とはいえ、それはほほえましく思える部類のことで、どこかで折り合いがつくだろうと曹操は考えていた。
世話を焼きたがるのは恋にしてもそうだろうし、はじめから特に線引きするようなことではない。それぞれの糧になっていけばいいし、自分にしても親としての経験は浅かった。
「ねっ、お兄ちゃん」
「ン……。どうかしたのか、鈴々」
鈴々が、背中に頭を擦りつけている。
先程までのように、元気一杯な感じはしていない。ちょっと湿っぽいくらいの響きが、その声には含まれていた。
「鈴々も、いつかお母さんになれるのかな」
「なんだ。珍しく、自信がないのだな。だが、鈴々なら間違いなくなれるさ。なんなら、俺が保証してやろう」
「だったら、お父さんは絶対お兄ちゃんがいい。って、あれっ……? なんだか、自分で言っててよくわからないことになっているのだ。お兄ちゃんがお父さんで、お父さんがお兄ちゃん?」
「どちらでも、同じことではないか。俺が鈴々のことを愛していて、その結果として子が成される。だから、いつまでも好きでいてくれるか、鈴々も」
「うん……。鈴々、お兄ちゃんのことずっと大好きだもん。これからも、きっと、ずっと」
密着が強くなる。
腕による抱擁。ちょっと苦しいくらいだったが、素知らぬ顔で受けていてやるのが兄としての役目だとも思った。
子供だからといって、突き放すような真似をするつもりはなかった。そこにあるのは確かな思いだけで、誰にも否定されるいわれはない。
「お義兄さまのそういうとこ、素敵だな。鈴々の告白、聞いてるだけで私も胸がどきどきってしてくるもん。わかっちゃうんだよ、本能みたいなところで。お義兄さまとなら、みんなとでも幸せになれるって」
「蒲公英も、シャンや鈴々と一緒なんだね。んっ……。どうせなら、後からみんなでしてみる?」
「い、意外と大胆なんだ、香風って。ぼんやり空を眺めているとこしか普段見ないし、なんというか……」
「……風なら、これがお兄ちゃんの肉奴隷にされた雌の思考なのですよー、って言うところ。ふふっ。どう思う、お兄ちゃんは?」
「あれの言葉を、あまり真に受けるものではない。もっとも、遊びでたまにはそんなこともするが」
香風の一言で、流れがおかしな方向に行ってしまっている。
肉欲に溺れることも嫌いではないが、それは関係としての本質ではないと捉えていた。
もちろん、発散目的でつながることはいくらでもあるし、そこには愉しみが多くある。とはいえ、それは心の奥底に信頼があるからできることで、誰彼構わずしていいものではない。
「休息時間は空けておく。少しの間にはなるが、この四人で遊ぶのも悪くはないか」
「そ、それって、お義兄さま?」
「気分が乗らなければ、断ってくれていい。進軍中のことだ。あまり集中が削がれても、よくないだろうからな」
「やっ……。そ、そんなことっ! 絶対行く、行きますから! だから、んっ……、お義兄さま……?」
「わかっている。さじ加減がわからないほど、俺も子供ではないさ」
二人のはじめてを奪うのは、別の機会でいい。鈴々とも長く触れ合っていないし、きっかけ作りをするにはある意味ちょうどよかったとも言えるのか。
顔を真っ赤にした蒲公英が、俯いたまま何度も頷いている。
その熱を冷ますかのように、乾いた風が再び吹き抜けた。