見慣れた室内で接見を行い、あとは政務を淡々とこなす。その合間に白湯を口にし、曹操はぼんやりと天井を見つめていた。
ほとんどの案件は秋蘭と柳琳が処理してくれていただけに、膨大な量の仕事に追われるようなことはなかった。
しかも、幽州の公孫賛に対する交渉に関しては、期待以上の成果があらわれている。直接見えるのはしばらく先になると思っていただけに、領内の賊軍討伐にまで助力を得られたのは、以降の戦略を考える上でも影響は小さくはないのだ。
大いなる凡人、とでも評するべきなのだろうか。
公孫賛とは一度戦陣をともにしただけの仲ではあるが、人柄の良さだけは理解できていた。
それと同時に、わかっていた事実もある。乱世を強かに行き抜くことのできるような、権謀術数があるわけではない。群雄としての性質の欠如。領内の統治はうまくやるが、それ以上ともなると、無理に拡げた器が悲鳴をあげてしまう。というより、そもそも本人に他人を蹴落として勢力を拡大する気がないのだから、今の地位にいて然るべきなのである。
正装を身にまとった詠が入ってくる。
秋蘭や柳琳の補佐をさせていた流れで、鄄城に帰ってきてからはずっと側に置いている。風は徐々に仕事を減らしていく必要があるし、内外に気を配ることの多い桂花や稟を、自分の都合で縛りつけるわけにもいかなかった。
当人である詠もそのつもりでいたようで、政務の流れに滞りはない。
「客人よ、一刀殿。そう多忙じゃないと思ったから、ボクの判断でお通ししたのだけれど」
「構わない。そのあたりのことは、詠にすべて任せてある」
「御意。だったら、今日は早めに仕事を切り上げましょう。正直、ボクだって気が気じゃないのだもの」
「心配はしていない。あれの側には、腕利きの医師がついているのだからな。だが、不思議な感じだ。慣れないものだな、親になるというのは」
拝礼する詠の背後から、女が姿を見せる。
公孫賛。頭の後ろで赤い髪を束ねているのは、馬家一門と同様だった。どちらも、馬の扱いには非常に長けている。身なりにまで共通した部分があるのは、偶然の産物なのだろうかと曹操は思うのである。
「やっ、曹操殿。酒宴の席というのは、どうにも慣れなくてさ。だから、改めてじっくり話そうと思って、政務中に茶々を入れにきたってわけだ」
「座ってくれ。なんならついでに、仕事でもしていくか?」
「いやいやいや。あり得ないだろ、そんなのって。まったく、客の扱いが荒いのは、主従どちらも同じなんだな」
手近な椅子を引っ張り、公孫賛が机の向かい側に座った。
両家の勢力には歴然とした差がついているが、おそれるようなところは少しもない。むしろ、あるのは旧友訪ねてきたような気楽さで、そういった姿勢も曹操は好ましく感じている。
「旧交をあたためるというわけではないが、一刀と呼んでくれ。おまえとは、いい関係を築けると確信していてな。月とも、親しくしてくれているのだろう?」
「応。だったら、遠慮なく真名で呼ばせてもらうことにするよ、一刀殿。白蓮だ。こうして再会できたこと、改めて嬉しく思う。月殿とも、案外そうした縁があるのかもな」
明るい口調で白蓮が言った。
月とのことは、詠も喜ばしく思っているのだろう。控えめではあるが、その表情は確かに優しくほほえんでいる。
「っていうかさ、側にいてやらなくていいのか? いくら月殿が気丈な御方であっても、心細いと思うんだが。経験したことのない私が言うのもなんだけど、大変なんだろ、子供産むのって」
「ン……。私事のために俺が予定を崩したと知れば、むしろ悲しむような女なのだよ、あれは。ゆえに、俺にできるのは普段通り一日を過ごすことだけなのだ」
「そっか。うん、ならいいんだ。夫婦のことに口を挟むようなことをして、なんだかすまなかったな、一刀殿」
「白蓮の心遣い、ありがたく思う。よき友人ができて幸せだな、月も」
照れ臭そうに白蓮が笑う。
月は朝から出産の準備に入っていて、その多くを五斗米道の医師である華佗が取り仕切っているのだ。詠によると長安からの知己であるそうで、やはり心配になって様子を見にきたのだという。
「それで、北方の動きはどうなっている。州牧殿がここまで出向いてくれているのだから、緊迫した状況でないのだろうが」
「ああ。烏丸と賊軍が結びついて大きな反乱が起きたこともあったが、あれを叩いてからは幾分静かになっているよ。あの時は、桃香たちが私の客分として力を貸してくれたから、上手く勝てたようなものだ。けれど、これからは武力だけに頼るようなやり方ではいけないとも思うんだ。実際どうしていくべきかは、まだまだ模索中なんだけどさ」
「ははっ。そう、へりくだることもなかろう。友人である以上に、力のある将軍だと認めているから、劉備軍も一旦はその傘下に籍を置いていたのではないか」
「よしてくれよ、一刀殿。結局、そこに私の限界があったんだから。あなたや桃香には、志を束縛する鎖を引きちぎるだけの勇気があった。きっと英雄と凡人との境目なんだよ、そこがさ。かといって、これで歩んできた人生に後悔があるわけじゃないんだぞ? 私は、私なりに為すべきと思ったことをしてきたつもりだ」
「ははっ。やはりいいな、おまえは。だからこそ、欲しくなって然るべきというわけだ。俺に仕えよ、白蓮。むしろ、ここまできて嫌だとは言わせぬぞ?」
「あっ、あはは……。参ったな、これは。桃香も大概押しが強い方だけど、あなたはそれ以上なのかもしれないな、一刀殿。天下の曹操孟徳に欲されるなんて、そりゃあ名誉に思うべきなんだろうけどさ」
赤面しながら白蓮が頭を掻いている。
紛れもなく、本心から発せられた言葉だった。
北方の守護者として、これ以上の人物がどこにいるのか。白蓮は烏丸の戦法を熟知している上に、民衆からの信頼も篤い。なにより、天下に対する野心がどこにもないのも、自分にとって都合がいいと言えばそうだった。
「やっ、いやいや。なによ、聞いてるこっちまで恥ずかしくなりそうなこの空気は。国を預かる者どうしの交渉が、こんな感じでほんとにいいのよね? まっ、ボクとしては、正直どちらでもいいんだけどさ」
「公孫賛伯珪を得る。それはすなわち、幽州の民心までもを得るという意味なのだよ。なあ、白蓮?」
「はへっ!? ど、どうして、そこで私に話を振るんだよ!?」
「あははっ。残念だけど、こうなったらもう逃げ道なんてどこにもないわよ、白蓮殿。だけど、あなたがともに闘ってくれるのなら、ボクはとても心強く思う。もちろん、月だってそれは同じだから」
「むう……。ほんとずるいってば、そんな言い方してさ」
言葉こそ批難するようなものだったが、白蓮の表情は明らかに嬉しそうなのである。
幽州が完全な状態で味方につけば、後方を気にすることなく孫堅との戦に集中できるようになる。それに長安の情勢を考えても、本拠となる兗、冀両州の周辺をかためておくことは重要になってくるのだ。
「失礼。曹操殿は、こちらにご在室かな。奥方……袁紹殿に呼んでくるように言われて、ここまで来たのだが」
声。部屋の外から聞こえてきたのは、男のものだった。椅子から腰を上げ、曹操は白蓮に目配せをしている。もちろん、一緒について来いという意思の表明なのである。
やけに張り切った麗羽が、朝から月のところに詰めているのは知っている。ほかにも、恋や常磐たちが支度の応援にいっているはずだった。
「
「お心のままに。それでは、参りましょうか。白蓮殿も、ねっ?」
「お、おうっ。それならお言葉に甘えて、お邪魔させてもらうとするかな」
白蓮の隣に立ち、右手を差し出した。その意味がわからない女ではない。かすかな逡巡。表情にあらわれていたのは、きっとそのためだったのだろう。
遠慮がちに絡められる指。伏し眼がちに小さく動く唇。やわらかく握り返し、曹操は白蓮を引き寄せた。
「はあ……。ほんと、一刀殿はぶれないんだから」
詠の呆れたような素振りが見える。慣れていないせいか、鋭敏に反応を示す白蓮があっと声をあげた。
普段の日常の中にある、ちょっとした変化だった。
離れかけた汗ばんだ手。掴み直し、曹操は白蓮だけに伝わるように頷いてみせている。