月のいる居室の周辺では、侍女たちが慌ただしく駆け回っていた。その中で気づいた何人かと挨拶を交わし、曹操は静かに歩んでいる。
館に入ってからここまで、詠の表情にかなりかたさが見えるようになっている。幼い頃からの友人が腹を痛め、今まさに母になろうとしているのだ。間違いなく特別なことであり、それだけ心の動きも小さくはないのだろう。友誼を結んでから日が浅い白蓮ですらそわそわしているのだから、その心中には察するべきものがあるのだ。
「賈駆殿。どうか、ご安心ください。あの方は、元気にされていますので」
「あっ……、んっ。その、感謝しているわ、華佗。あなたには、長安にいた頃から何度もお世話になっているんだし」
「いえ。苦しむ誰かを助けることが、俺の選んだ医療の道ですから。けれど、お気持ちだけはいただいておきますよ、賈駆殿」
華佗の振る舞いは堂々としていて、言葉にも勇気を与えるだけのものがある。
その本分は鍼による治療にあるそうだが、施術の時に見せる気迫は並大抵のものではないのだという。あるいはそこに、戦に臨む将兵に近しいなにかがあるのかもしれなかった。病魔との対峙は闘いそのものであり、気を抜くことなど許されるはずがない。その強靭な精神性を作りあげることができているから、人は五斗米道に救いを求めるのか。
「お子さまの名。もう、決められているのですか、曹操殿?」
「ああ。もとより、戦から帰るまでに考えておくつもりだったのでな。丕。男女どちらであろうと、そう名付けようと決めている」
「よろしいですね、それは。大きく、健やかにお育ちになることを、俺も願っておりますよ」
先導する華佗が、居室の扉に手をかける。
その隙間。寝台の上に座る月の姿に、曹操は儚さだけではないなにかを感じさせられるのだった。
†
膝に両手を置いて、月はやわらかにほほえんでいる。ゆったりと羽織る白い衣。神聖なものにすら見えるそれが、今の月にはやけに似合っていた。
誘引されるかのように、曹操は歩み寄っていく。居室には、昂を抱いた桂花に加えて風までもが参集していて、麗羽が仕切り役をしているせいか、ちょっとした騒々しさが生まれていた。
「ン……。身体は辛くないか、月」
「はい、一刀さま。みなさんが私たちのために奔走してくださったので、それで苦しみなど吹き飛んでしまいました」
「そうか。麗羽が張り切っているのを見た時はどうなるものかと思っていたが、みなもよくやってくれたのだな」
「まあ。それは一体どういう意味ですの、貴方さま? たとえ過去に敵対した相手だろうと、すべてを一度水に流し、また新たな関係を築いていけばいい。そうやって、わたくしは励んでおりますのに」
「わかっている。わかっているよ、麗羽。それに、おまえのその一本気なところは、俺も好いている」
一転して褒められたのが嬉しかったのか、麗羽は俯き気味になって赤らんだ顔を隠そうとしている。
月の隣に寝かされている小さな赤子。女だからというわけではないが、なんとなく母に似た気高さが風貌にあらわれているような感じがする。気のせいだと言われればそれまでだが、親というのはきっとそんなものなのだ、と曹操はひとり思っていた。
昂が生まれた時は、しばらく経ってからしか会えなかった。それだけに、芽生えたばかりの命というのはこんなにも儚いのか、という気持ちがどこかから去来するのである。
「はいはい。聞いてるこっちが恥ずかしくなるような惚気は、もうそのくらいにしておきなさいよね。それで、この子のことはなんて呼べばいいのよ、一刀。月ってば、あんたが来るまでは秘密にしておくって言って譲らないのよ、まったく」
「ふふっ。ごめんなさい、桂花殿。今日くらいはそんな我儘を言っても許されるかなと思うと、つい」
「これで案外頑固者なのよ、月って子は。ボクはさっき流れで聞いてしまったからいいけど、一刀殿?」
桂花と詠に促されるようなかたちで、曹操は軽く息を吸い込んだ。
母体から生まれ落ち、名を与えられることではじめて、この小さき命はこの世での役割を与えられることになる。正解などどこにもない旅路。だからこそ人は必死にもがき、誰かと手をつなごうとするのではないか。
「丕。今より、この子は曹丕となる。曹家の子として、ただならぬ重圧を感じる日がいつか来よう。だが、その時もこの子は決して孤独ではないのだよ。兄たる昂がいる。そして、師と仰ぐべき母たちがこんなにも多くいる。それは、なによりも幸せなことではないのかな」
生まれたばかりの小さな命。語りかけるように、曹操が言った。
母親に抱かれた昂が、妹に向かって無邪気に腕を伸ばしている。そこにわが子の成長を見たのか、桂花の表情はいつになく優しかった。
「数多の縁に結ばれて、丕はここに生まれてきたのです。こんなに嬉しいことはありません。今日という日を、たとえ死しても私は忘れることがないでしょう。ほんとうに、みなさまには感謝の気持ちしかありません」
「ゆ、月ぇ……。そんな、そんなのって、ずるいよぉ……。ボク、ボクっ……」
「お、おいっ、しっかりしてくれよな、詠殿」
泣き崩れた詠の身体を、白蓮が後ろから支えている。
その光景が余計に感情を揺さぶったのだろう。静かに流れる月の涙。切なく美しいことに変わりはないが、以前あったような苦しみは消えている。あの贖罪の夜から現在に至るまで、平坦な道のりであったようには少しも思えない。その中でも自分たちは思いを通わせ、その証を結実させるまでになっているのである。
誇らしいと言うべきなのかはわからない。しかし、月との関係はやはり特別で、自分にとって小さくない影響があったのだと曹操は思うのである。
桂花が膝を折り、昂の視線を丕と合わせてやっている。
こうして、縁はどこまでもつながっていく。人の生とはその連続であり、それは意思に関係なく途切れることはないのだった。
「あっ。一刀たち、やっと来てた」
「しっかり褒めてやることだな、婿殿。月は小さい身体で、これだけのことを成し遂げたんだ。同じ涼州出の女として、なんだか誇らしいじゃないか」
しんみりとした雰囲気を打ち破るように、恋と常磐から声をかけられた。
様子からして、二人は新しい布と湯を取りに行ってたらしい。出身が同じなうえに、娘を三人育てている経験がある常磐がそばにいることは、月にとっても心強いはずだった。
「ははっ。しばらく慌ただしくなるぞ、これから。ほかのみなも、おまえと丕のことが気になって仕方がないのだからな」
「えへへ……。覚悟はできておりますよ、一刀さま。ですからどうか、お父上もこの子と一緒にいてくださいますよう」
ちょっとからかうような月の笑み。
寝台に腰を下ろし、二人のわが子を曹操は視界に収めている。
いつまでも眺めていたいと思えるような光景。手を伸ばし、月と指を絡ませた。
「んっ……。一刀と月、とっても幸せそう。見てるだけなのに、胸のこのへんがぽかぽかしてくる」
穏やかな恋の声が聞こえる。
季節はとうに過ぎているのに、春の陽気のあたたかさがふと芽生えたような気がしていた。