襄陽城外の練兵場。兵士たちの姿はまばらで、あるのは残って剣を振っている数人の姿だけだった。
少し乾いた音が鳴ったのと同時に、番えられていた矢が勢いよく飛び出した。
矢羽がふるえる。的は五十歩ほど先に設置されていて、それがいくつか横並びになっていた。調練であり、誰かに見せびらかすような目的があるわけではないから、このくらいがちょうどいいと言えるのか。
戦斧の手入れをしながら、華雄は宙を駆ける軌跡を眼で追っていた。
的のひとつ。中心を見事に射抜かれ、真っ二つに割れている。このくらいのことなら造作もない、とでも言うように、黄忠は余裕のある笑みを絶やさぬまま次なる矢を準備していた。
「はっ」
小さく放たれる声。
またしても的は先程のものと同様ふたつに割かれ、力なく地面に転がった。
自分も弓を使うことがあるが、達人の腕前があるわけではない。
曹操への帰順の際、呂布は遥か遠くの的どころか、密かに行動をはじめる暗殺者を射抜いてみせたのだと聞いている。あれはまさしく稀有な例で、遠近どちらかの得物を極める道に進むのが普通だった。
「ねえ、華雄お姉ちゃん」
「むっ……。なんだ、小さいの」
「もう! 小さいのじゃなくて、璃々は璃々だもん。華雄お姉ちゃんの、意地悪」
そばで見ていた黄忠の娘が、機嫌を悪くしたのか懸命に頬をふくらませている。黄忠はそれを気にもかけない素振りで鍛錬に集中していて、親というのはこういうものなのか、と華雄はちょっと不思議な気分に浸っていた。
幼い子供というのは、どうにも苦手なのである。
そもそも相手の仕方がわからないし、孫家の末娘のように愛想よく振る舞うことなどできるはずがなかった。
「華雄お姉ちゃんも、お母さんみたいにびゅんっ、てできるの?」
「私も多少は弓を使うが、おまえの母親には遠く及ぶまい。同じように射てもらいたければ、黄蓋にでも頼んでみるのだな」
「ええー。璃々、華雄お姉ちゃんのやってるところが見たいんだもん。ねえ、やってやってー?」
不機嫌にしていたのも束の間、璃々が腕を掴みながらねだってくる。
これでは、得物の整備もままならない。小さなため息と一緒に、華雄は視線を黄忠に向けている。
「わがままを言ってはいけませんよ、璃々。華雄殿が、お困りになっているでしょう?」
「だってえ、お母さぁん」
鍛錬の手を止め、黄忠が娘をたしなめる。
別に、なにがなんでも射撃の腕を披露したくないわけではなかった。ただ、それを自分から言いだすのはなんだか負けたようで嫌だったし、妙な恥ずかしさがあるのも確かだった。
母親に抱き留められた璃々が、顔だけをこちらに向けている。純粋無垢な瞳。じっと見ていられなくなって、思わず目線をそらしてしまう。
「まあ、華雄殿ったら。うふふ」
なにがおかしいのか知らないが、黄忠はやけに愉しそうだった。
しばらく待てば、孫堅がもどってくるはずなのである。今はなにやら朝廷からの使者がきていて、その相手をしているようなのだが、どうせろくでもない話に違いない、と華雄は高を括っていた。
孫堅と曹操のどちらも、朝廷とはある程度距離を置いているようだった。
邪険にするわけではないが、ともに手を携えて天下平定を推し進めるという雰囲気でもない。それはもしかすると、董卓という前列を見てきているからなのかもしれなかった。
旧主は国の抱える暗部に近づき、やがては心身を病ませることにすらなったのだ。それでも、生きてさえいれば運がおもしろい方向に転ぶこともある。旧主も、それを身をもって実感していることだろう、と華雄は思うのだった。
「あー、ったく……。朝廷からの使者だかなんだか知らねえが、つまらねえ御託ばかりよくもあれだけ並べられるものだな。むしろ感心してやるべきだったのかもなあ、あれは。明命が兗州に偵察に出ていなけりゃあ、密かにぶった斬らせてやったものを……」
「あまり物騒なことを言うな、子供のまえで。剣を握れば、いい憂さ晴らしにもなろう。私も、退屈しのぎになりそうなことを探していたのだ。相手をしろ、孫堅」
「なんだ、やけに張り切っているじゃねえか、華雄。オレとしても、それは願ってもない申し出だが……」
なんとなく、孫堅の言葉の歯切れが悪い。
使者に聞かされた話が、よほどつまらなかったのか。この頃は調練の場に出ることも多いし、化け物のような女であってもいくらか疲れを感じているのかもしれなかった。
「炎蓮さま。差し支えさえなければ、どのような内容であったかお聞きしても?」
「ああ? まあ、いいだろう。璃々にとっては、オレ以上に退屈な話になるかもしれねえがなあ」
黄忠に抱きしめられた璃々の頭。ぽんと手で触れてから、孫堅は近くにあった椅子に腰掛けた。
「長安にいる連中にとって、曹操の存在は煙たくて仕方がないようだ。それで孫家に泣きついてきたのならまだかわいいものだが、図々しくも奴の討伐に兵を出せと抜かしてきやがった」
「心中、お察しいたしますわ、炎蓮さま。陛下のお気持ちはわかりませんが、外を知らない廷臣にとって、所詮われらなど地方の領主に過ぎないのでしょうね」
「紫苑。そう思ってくれるのであれば、以降の面倒事はすべて貴様に任せるが、よいのか?」
「ご、ご冗談を。わたくしのような新参者に、御当主の代役などとても……」
椅子に深々と身体を預け、孫堅が瞑目する。
中原に確固たる勢力を築く曹操。帝の、そして廷臣の威信を守ろうとすれば、その増長はなんとしても抑えるべきだった。しかもあの男のもとには、名を変えたとはいえかつての董卓がいるのだ。
今は、董白と名乗るようになっているのか。
ともかく、洛陽焼失から遷都までの出来事は、朝廷にしてみれば空前絶後の行いだったに違いなかった。そして、それをやってのけた女が、公然と曹操の隣に立つようになっている。気位の高い廷臣たちからすれば、これ以上の脅威はないはずだった。
「孫家は、孫家の闘いをする。遠方の者どもがどう動こうと、それはこちらの預かり知らぬこと。それでよいのだな、孫堅」
「ハハッ。わざわざ訊ねるんじゃねえよ、そんなつまらねえこと」
額に指を当てて、孫堅が笑っている。
獰猛さの宿る瞳。この女は、やはりこういう表情をしているべきだ、と華雄は思った。
戦斧を握り、仕合に向けて意識を集中させていく。
立ち上がった孫堅が顔色を変えたのは、その直後だった。黄忠も様子の変化に気づいたのか、なにか言いたげな表情をしている。この場で何事もなく振る舞っているのは、今は璃々だけだった。
「ちっ……。少しばかり、席を外す。昨日の晩の酒が、まだ残ってやがるのかもしれねえ」
「おい、孫堅」
「悪いが紫苑。盛りのついた猪の相手を、しばらくしてやってくれるか」
「なっ……!? 孫堅、貴様言うに事欠いてっ」
気合が乗りかけていたのに、するりと梯子を外されてしまったようだった。
離れていく孫堅の背中。不思議そうに見つめる璃々と同様に、華雄は見送ることしかできなかった。