見上げれば青い空。
大通りは騒然としていて、多数の人々が行き交う様子を眼にすることができる。とはいえ、自分からその雰囲気に飛び込もうとは思わない、と風は思うのだった。
物好きな誰かさんに手を引かれでもすればその限りでもないが、あいにく今は単身散歩にでかけているだけなのだ。
「んなぁー。んなぁーご」
膝をかがめ、風は野良猫としばし向き合っていた。
無視される声真似。猫は退屈そうに前足で顔を掻いていて、なんだか虚しささえ感じてしまうのだ。
腹に子がいるからと、邸宅に引き篭もっていいわけではない。そう桂花に諭されて外に出たまではよかったが、特に用事があるわけでもないのである。
ほんのかすかにふくらみはじめた腹を撫でる。お腹の子の父親は忙しそうにしていて、無理に誘うことは憚られた。
変な遠慮をするものではない、なんて笑われそうではあるのだが、これでも自分は曹操の軍師なのである。我儘を通す時がないことはないが、引くべきは引くのが信条といえばそうだった。
「いいですねー、猫ちゃんは。なんの悩みもなさそうな顔で、あくびまでしちゃって」
やわらかそうな体毛を撫でようと差し出した手。やっぱりやめておこうと引っ込め、風は観察を続けた。
茫洋とした猫の両目。なにも考えていないようで、その裏には計り知れない深謀遠慮が隠されているのかもしれない。
曹操にしても、常から鋭さが漂っているのではなかった。だからこそ、恋や桃香のような人物を陣営に加えることができたのだと思うし、自分のような変わり種さえ容赦なく照らせる人でなければ、この世の日輪たり得ないのだった。
「んんー。ようし、決めました。おまえは今より、一刀二号として生きるのですよ。わかりましたか、一刀二号?」
「んにゃ?」
「おおぅ。まさか返事があるとは思わず、びっくりしたではありませんかぁ。なにも、そういうところまで、本物の一刀に似ろと言ったつもりはないんですけど」
不思議そうな顔をして、猫が首を傾げている。
意思の疎通、というにはあまりにも怪しげなのである。それでも、どこかに立ち去ったりするわけではない。じっと眺めているとどこか優しげな眼差しでいるようにも見えて、また不思議な気分になったりする。
「ところで、そこの方ー?」
「は、はわっ!?」
空き家の物陰。そこから上がった声は、想像していた以上にかわいらしかった。
気配には、これでも敏感な方なのである。それで先程から、誰かに見られているという感覚が確かにあったのだ。
襲ってくる気配はない。けれども、視線にはやけに熱がある。それが気になり泳がせていたのだが、結局結論が出ることはなかった。
「まあまあ、こっちに来てみなよ、お嬢ちゃん。悪いようには、しねえからさあ」
「ふへっ? あ、あの……」
「ああー。こら宝譿。初対面の人に勝手に話しかけるなと、いっつも言っているでしょう。むむう……。すみませんねぇ、頭のこいつがお馬鹿さんで」
「い、いえ……? どうか、お気になさらず……?」
頭上の宝譿。拳骨で小突きながら、盗み見ていた少女を手招きする。
先手はこちらのものだ、と風は思った。
日に焼けた肌。まとめ上げた長い黒髪。年の頃は、自分とそう変わらないといったところか。
「それでなんですけど、嬢ちゃんと呼ぶのもなんですし、名前を伺っちゃったりしてもー?」
「はい。でしたら、私のことは幼平とお呼びください。うふふ、それにしても、あぁ……」
「ふむ、幼平ちゃんですか。こちらのことは戯志才と……、ってあんまり聞こえていないみたいですねぇ」
お遊びに、かつて稟が使っていた偽名を持ち出してみる。しかし幼平には自分の声はほとんど届いていないようで、その意識はあの『一刀二号』に注がれているのだ。
「ほうほう。一刀二号に色目をお使いになるとは、いい趣味をなさっているようで。猫ちゃん、お好きなんですかー?」
「は、はい、それはもう。商売の途中で偶然通りがかったのですが、愛らしいお姿につい」
「なるほどー。あの熱っぽい視線の正体は、そちらでしたかぁ」
幼平の言葉には、かすかに南部の訛りがある。それに、商売の途中だと話していたものの、肝心の売り物はどこにあるのか。
駆け寄ってくる際のしなやかさにも、どこか常人とは違う部分がある、と風は感じていた。
「んっ、ごくっ……。お、お猫さま、どうかそのままじっと……」
勘ぐるのであれば、この少女は孫家の派遣した間者なのか。あちらの諜報部隊はかなり優秀だそうで、紅波から手を焼いていると聞いたことがある。そんな相手が、鄄城までやって来て猫にうつつを抜かすことがあり得るのか。
それにしても幸せそうな顔をする、と風は思った。
一刀二号は、ツンとした態度を崩さずに幼平の動きを窺っている。
なんとなく孤高な雰囲気を出そうとするところも、曹操を想起させる。だが、本心がどうであれ、あの人は他者を惹きつけて離さない。そしてその渦は、現在進行形で果てしなく大きくなっていると言ってよかった。
「そーっと、そーっと……。ちょっと、指先が触れるだけでもよいのです」
「くふふっ。がんばってください、幼平ちゃん。一刀二号はきっと美少女好きなので、気に入られる可能性は間違いなくあると思うのですよ」
「ありがとうございます、戯志才さん。ああっ、緊張してしまいますっ」
案外、幼平はこちらの話を聞いていたらしい。
ふるえる指先。どことなく荒い息遣いのせいで、高揚が自分にまで伝わってくるようだった。
「にゃっ」
「ひゃわっ!? おっ、おぉー!」
幼平が、今度は悦びで声をふるわせる。
身体に触れる直前、一刀二号は足先をひょいと差し出したのである。ぷにっとした肉球に当たりでもしたのか、幼平の相好はどこまでも崩れている。
こうしてうまく女を転がすあたりも、一刀らしいといえばそうなるのか。
感激のあまり、幼平は一刀二号を抱きしめてその存在を全身で感じようとする。だが、その試みは儚くも失敗に終わり、虚し気なため息だけが路地裏に残るのだった。
「ううっ……。やってしまったようです、私。一刀さまがくださった好意を、あのように勘違いしてしまい……」
「やっ。ちゃんと二号はつけましょうね、幼平ちゃん。一刀だけだと、なにかややこしい感じになってしまいますので」
「あう……。ご忠告ありがとうございます、戯志才さん。はあ……。一刀二号さまに、鄄城を離れるまでにもう一度お会いしたいものなのです。きっと、できますよね?」
「では、雌の猫ちゃんになりきってお呼び申し上げるしかありませんねえ。練習、してみますか?」
「おおっ、それは名案なのです! ふにゃっ、んっ、にゃおぅ……」
「おうおう、なかなかうまいじゃねえか、お嬢ちゃん。けど、気をつけることだな。お嬢ちゃんの色香で、別のものを釣り上げないように……ってぇ」
そこまで言って、風は立ち上がりあたりを見回した。
ざっと数えて、男が二十がいる。殺気。異様なくらい溢れていて、よくここまで隠したものだと思うくらいだった。
幼平は事態を把握できていないようで、口をぽかんと開けている。つまり、先の推理と結びつけるのであれば、この手合いには孫家は関係していないのだろう。
そもそも、孫堅は戦で雌雄を決したいと考えているはずで、暗殺を狙ってくる時点で別の勢力に狙いをしぼるべきだった。
「そこなる女、曹操軍師の程昱だな。はははっ。孫家の刃、その身でとくと受けてもらおうではないか」
「ふうん。あちらはそう仰っていますが、幼平ちゃん? あっ。それと、名前を騙っていたことについては、平にご容赦を。これでも私は、曹操軍の要人ですので」
幼平の表情が、ころころと変化している。
戯志才というのが偽名だったこと。しかも自分が敵軍の軍師であり、程昱であったこと。そうして、もっとも感情が揺さぶられているのは、相手が孫家の手先だと名乗っていることに対してなのではないか。
「あなたが、程昱さんだったのですね。名前を誤魔化したのは、こちらも同じですから気にしていません。孫堅配下の周泰です。そして、この方々を私は存じ上げません。孫家の刃は、姑息な殺しのためにあるのではない。偽物を名乗るなら、そのくらいのお勉強は必要でしたね」
周泰。それが諜報部隊を率いる将の名だということは、情報として知っている。
男たちが、包囲の輪をじりじりと狭めてくる。時間をかけられるとは思っていないはずだ。この人数で城郭に潜入してきたのだから、それなりの使い手であることには違いない。
迂闊といえば迂闊だったが、もう少し警備の手を厳しくするべきなのかもしれない。とはいえ、締め上げすぎては商売が滞るし、そのあたりは要相談事項なのである。
「てめえが、孫堅の? はっ、笑わせるんじゃねえよ。曹操に届かずとも、程昱をぶっ殺せりゃあ俺たちはそれでいいんだ。孫家の手先を名乗ったのは、手引きしてくれた奴への礼金みたいなものさ」
「ははあ。私個人に対するその怨み節、もしかしなくても元張邈さんの?」
「わかっているのなら、その首を差し出せ、程昱。われらの殿は、おまえに謀殺されたようなものだ。その無念を思うと、俺は」
最期こそ無様だったが、張邈には為政者たる資質があった。忠義ある臣下がいるのは当たり前のことだし、戦に直接関わった自分が標的にされるのは自然の流れとも言えるのか。
謀殺、というとちょっと穏やかではなかった。
自分の上げた方策を検討し、受け入れたのは張邈ではないか、と風は思うのである。うまくいくように根回しはしたが、全体の状況を俯瞰する冷静さがあれば防げないものではなかった。
戦の序盤は曹操だって徐州への固執のせいで苦戦していたし、張邈が有利に立てる場面はいくらでもあったのだ。
「飲まれる程度の器なら、野心なんて持つべきではなかった。踏みつけ、ねじ伏せるくらいでなければ、覇者への道は開かれない。あの方がもっとご自身を見つめていれば、結果も変わっていたことでしょうねぇ。くふふっ。実はお腹の底ではそう思っているのではありませんか、あなたも?」
「なっ……。程昱、貴様」
冷え冷えとした声で、風は正論を叩きつける。
頭目らしき男が押し黙る。意味のない論争には、これ以上付き合うつもりなどなかった。
「おしゃべりは、もうよろしいでしょうか。経緯はどうあれ、あなた方は孫家の名を汚した。となれば、私は斬らねばなりません。どうか、お覚悟を」
どこに隠していたのか、周泰はひと振りの刀を手にしていた。ほどかれる髪。なびく黒はどこか幻想的で、風は少し見とれている。
抜くやいなや、手近な男を斬り捨てる。その一閃は眼で追えないほどで、周泰の武芸が達人の域にあることをはっきりと示しているのだ。
闘いがはじまった直後、屋根上から影がひとつ降ってきた。
「周泰殿。不要ではありましょうが、拙者も助太刀いたします」
「なんだ。やっぱり見ていらしたんですね、紅波ちゃん」
「ええ。部下に追わせてもよかったのですが、なんとなく気になってしまい。ですが、それで正解だったようです」
紅い長髪が舞い躍る。降り立ったのと同時に紅波は刃を振るい、豪剣にて二人を斬り伏せた。
黒と紅。この共演は非常に鮮やかで、敵対する者にとっては地獄の様相を呈している。
「あなたは、曹操軍の。不埒者の成敗を手伝ってくださり、感謝いたします」
「感謝されることなど、なにも。領内での騒ぎ、見過ごせるものではござらん」
見る間に、男たちが数を減らしていく。
戦況を見守り、風は後のことを考えていた。ひとりくらいは捕虜にし、尋問を加えるべきなのか。ともあれ、手引きを行った勢力についてはおおよそ察しがついている。そうした意味では、禍根は徹底して断つのが定石なのである。
「くそっ……。どいつもこいつも、邪魔ばかりしやがって」
紅波と周泰。二人の剣撃は嵐となり、最後の敵に襲いかかる。
周泰にしてみれば、最初からこちらの事情など考慮する必要がないのである。だとすれば、男たちに生きて帰る手立てなどあるはずがない。元より命は捨ててきているのだろうが、こんな死に方は予想外だったに決まっている。
「斬ります。紅波殿、あとは私だけで」
「承知。軍師殿が、よいと申されている。あとは、好きになされよ」
血払いした剣を、紅波が鞘に納めている。
斬撃。壁を蹴り加速した周泰が、頭目をすれ違いざまに両断する。静かだった路地裏は、一転断末魔に満たされている。口もとに袖をあて、風は一度だけ咳払いをした。
「助かりました、周泰ちゃん。わが身から出た錆、思わぬかたちで引き受けてもらってしまいましたねぇ」
「いえ。一刀二号さまとお引き合わせいただき、こちらこそ感謝です。今のは、その借りを返したくらいに思っていただければよいかと」
「はて? 程昱殿、一刀二号さまとはいったい」
「むむっ。紅波ちゃん、そこはあまり根掘り葉掘り聞いてもらわなくて平気ですので」
これだけの騒ぎがあったのだ。程なくして、警備の兵が駆けつけるはずなのである。
その時、周泰はこの場にいるべきではない。紅波が小さく頷いている。考えに相違がないことに安心すると、風は切り出した。
「いってください、周泰ちゃん。それとも、本物の一刀さんの前に引き立てられてみたいですか?」
「はうっ。それは今少し、遠慮させていただきます! それでは、お二人とも」
「よい剣でした、周泰殿。次回は、戦場にて」
「はい。諜報戦でも、負けるつもりはありませんので。程昱さん、あのお猫さまといつかまた!」
明るさを含む声が、段々と遠のいていく。
無念の表情で転がる亡骸。残された風は、なにかを話すことなく、それを見つめるだけだった。