手足を使って動けるようになった昂を抱き上げる。気がつくと、徐々に力強さを感じさせるようになった長子に、指を無邪気に吸われていた。
やや重いくらいの桂花の視線。ちょっと苦笑して、曹操は母親へとわが子を手渡すのだった。
「桂花殿は、昂がかわいくて仕方がないのですね。お気持ちは、痛いほど理解できますが」
「はあ……。だって、この男の背中なんて下手に追ってみなさいよ。きっと、ろくな大人に成長できないじゃない」
「ふふっ。どうなんでしょうね、それは。お父上の御威光が、子供たちの重圧になることはあるかもしれませんが」
穏やかに眠る娘に視線を送りつつ、月は優しげなほほえみを覗かせている。
仮組みをしただけの施設だったが、使い勝手を確かめるだけなら十分だった。主催となった月の発案で、母親たち以上にわが子が自由に過ごせるような空間作りが行われている。
広間の床は厚めの布が張り巡らされていて、昂のように動き回っても多少は平気なように工夫がなされている。そのため、靴を脱いで過ごすことが基本になっているから、用意されている机も背の低いものに限られていた。求めているのはいわゆる後宮のような仰々しさではなく、なだらかなつながりなのである。
自分の意を汲み、それ以上のものを月は作り上げてくれている。これからの生を、如何様に活用していくのか。その指針のあらわれが養育の場にあることが、今の月には相応しいと曹操は思うのである。
状況が変われば、いずれは鄴に本拠を移すつもりだった。
太平道の蜂起以降も冀州は豊かであり続け、強固な地盤ができあがっている。鄄城は戦に向いていても、長く政治の中心にするような土地ではなかった。移行に向けた準備は麗羽を中心に進んでいて、すでに報告を何度か受けている。袁家の中核となっている城郭だけに、その当主が積極的に動いてくれることはありがたかった。
自分と麗羽が一心同体でなければ、難航することすらありえた事業なのである。それが順調にいっているのだから、これは周囲に対する勢力の強固さを見せつけることにもなるのだった。
桂花の隣に座って、曹操は昂の頬を指で撫でている。
月と丕が一緒でいなければ、とっくに機嫌を悪くしている頃合いなのではないか。伊達にこれまで連れ添っているわけではないから、そのあたりの機微は心得ているつもりだった。
「なによ一刀。今日はもう、十分に昂と遊ばせてあげたでしょう。はっ……!? そ、それともアンタ、まさかこんな場所でっ……!?」
「とんだ思い違いだ、それは。しかし、そのような方向に考えがいってしまうとは、欲求がたまっているのではないか、桂花?」
わが子ではなく、今度は妻の顔を撫でてみる。
伸ばすようになった髪が指に触れる。桂花の表情はどこかもどかしそうでいて、わずかだが視線が泳いでいるのだ。湿り気のある唇。幾度となく情念を交わした場所のひとつで、今は威勢のいい言葉がまったく出てこずにいる。
「まあまあ。父上さまたちの仲睦まじさ、あなたも見届けたくなったのですか。ほら、いい子いい子」
それまで静かに寝ていた丕が、眼を覚ましてしまったようなのである。
月の声。どこまでも穏やかで、慈愛に満ちたものだと曹操は思った。すっかり毒気を抜かれた感じで、不思議と笑いがこぼれた。桂花もそれは同じだったのか、乱れてもいない着物を直しているところがほほえましい。そんな自分たちの間で、微妙な空気感をものともせず昂だけがはしゃいでいる。
「ほ、ほら。アンタが変なことしようとするから、丕が起きてしまったじゃない。ほんっと、最低な父親なんだから」
「ははっ。すまなかったな、桂花。この埋め合わせは、また今夜にでも」
「くうぅう……。その口、どうしたら余計なことを話さなくなるっていうのよ。アンタみたいなどうしようもない性欲の権化でも、一応この子たちの父親なんですからね。自覚を持ちなさいよ、自覚を」
流れが変化したせいか、桂花の勢いが少し増している。
つんと尖った唇。どれだけ貶しても父親であることは認めてくれるのだから、かわいらしいものだった。
「ふふっ。よく見ておくのですよ、丕。これが、よき夫婦のお手本なのですから。私では、なかなかこうは参りません。どうしたって、ねっ?」
娘に語りかけながら、月は肌身離さず着用している首輪に触れている。
誓いの証。それがあれば、いつ、どこにいようと、自分たちは結ばれている。戯れで用意したようなものだったが、月が存外大切にしてくれているから意味が生まれているのだった。
「むぅ……。からかうのはよしなさいよね、月」
「そうですか? 私は、いたく真剣にお二人のご関係を評したつもりだったのですが」
「あなたにそうやって言われると、いちいちむず痒いんですもの。んっ……。というか夫婦仲って話なら、そっちだって」
消え入るように小さくなっていく桂花の声。
他人を素直に褒めるという行為がどうにも苦手らしく、そうなると決まって目を合わせられなくなってしまう。淑やかに受け止めている月は対照的なくらいで、さすがにこの場面で桂花に茶々を入れることは憚られた。
物音が聞こえる。
頭の後ろで纏め上げた髪。理知的な印象を強く与える、縁のない眼鏡。その位置を軽く指で整えながら、稟はなぜか遠巻きに自分たちの姿を観察している。
「ふむ。親子水入らずで過ごされていると、どうにも割り込む勇気が持てなくなると。これも、新たな発見といえばそうなのかもしれませんね」
「なにを遠慮することがあるのだ、稟。それに、いつも言っているだろう。おまえたちひとりひとりが、この子らの母なのだとな」
顔を見せた稟に興味がいったのか、昂が元気に手を振っている。見えない壁を作る気などさらさらなく、養育にはみなが携わるべきだと思っていた。
施設には、常に文官が数人詰めている。風はほとんど常駐しているようなものだが、今日は医師の診察があるから出払っているのだ。
集中したい案件があるからと稟は単身部屋に籠もっていたのだが、それはもういいらしい。隣に来るように手招きすると、やや遠慮がちな咳払いがひとつ聞こえた。
「戦のことでも思案していたのか、稟」
「ええ。まあ、そんなところです。っと……。よろしいのですか、桂花」
「いいもなにも、この子があなたのところに行きたがっているのよ。だから、少し相手をしてやってちょうだい」
桂花に抱き上げられた昂を受け取り、稟がようやく笑顔を見せている。
侍女に声をかけ、曹操は飲み物を用意するように命じた。なにもせずにいると、気を回した月が自分で動くことくらい目に見えている。
ここにいる時くらい、楽をしてもいいと思った。それに、仕えている者に対して仕事をくれてやることも、上に立つ人間の役割といえるのだろう。
「あっ、こらっ。そうやってやんちゃをするところは、お父上にそっくりなのですから」
「そうでしょうか? 一刀さまならこう、もっと大胆に……」
「いや、それは基準がおかしくなっているわよ、月。あなたも大概、この変質者に毒されてしまっているようね」
右も左もわからない幼気な手。それがたまたま胸に触れただけなのに、この言われようなのである。
自分たちのやり取りを見守る娘の表情。なんとなく神妙にしているように見えてきて、余計にいたたまれなくなった。
「それで、稟殿。あちらの動きは、いかがなのでしょうか」
「しばらくは、静かにしているつもりのようですね。ただ、われらが孫堅との戦をはじめれば、まず間違いなく行動してくることかと。不意を打たれるような事態だけは、避けなくてはなりません」
「でしたら、挑発を続けるしかありませんね。向こうから仕掛けるしかないような状況を用意し、即座に撃滅する。こちらとしては、そうなるのが理想ですから」
「まったく、恐れ入りますよ、月殿には。穏やかな表情の裏で、案外容赦のないことをお考えなのですから。わが君が遅れを取られたのも、今なら素直に頷ける話です」
冷たさのある声を聞いていると、かつての記憶が時折顔を覗かせる。
命を削りあった仲。だからこそ、紡ぐことのできる絆がこの世にはあるのだろう。それに、董卓との闘いでは、得たものも少なくはなかったのである。稟との主従関係ができたのも、思えば酸棗の陣でだった。風や香風にしてもそれは同じで、桃香たちと出会い、白蓮との知己を得たのもあの場所での出来事だった。
「表向きは対孫家の兵員を準備しておいて、洛陽を電撃的に奪うのはどうかしら。もし、それだけやられて出てこないのなら、司馬懿はただの腰抜けだったということになるわね。けど、そうね……。あの朱里のことだから、手を回して女物の衣装を送りつける、くらいのことは考えていたりして」
「なんというか、地味な嫌がらせですね、それは。ともかく、西方軍団の初期方針はそんなところでしょうか、わが君」
稟からの問いに、曹操は小さく首肯して答えた。
南方への侵攻に際して、軍団を大きく二つに分けることが決まっている。
ひとつは、徐州を拠点とする東方軍団。揚州にいる孫策の動きを抑えることが主な目的で、桃香が総指揮を執る手はずになっていた。補佐は引き続き雛里に任せるつもりでいるから、連携に関しては問題ない。あとは星を中心とした援軍を派遣してやれば、孫策の相手は十分に務まると思っていた。結束した劉備軍の強さは疑うまでもないし、桃香の胆力は大軍を率いる上で活きてくるはずだった。
「兵力で孫家に勝ってはいるが、こちらには余分な敵がいる。その対処の如何で、戦の展開も変わってくるのだろうな」
「麗羽殿であれば、必ずや一刀さまのご期待に応えてくださることかと。あの方の意気込みには、並々ならないものがありますから」
「俺も信じているさ、月。これでも、あいつとは長い付き合いになるのでな。烏合の連合が喚き散らしていたのとはわけが違う。長安との戦は、曹家の意思を天下に表明するための闘いでもあるのだよ。であれば、麗羽に任せることに意義がある」
変わって、西方軍団は途中でさらに分割されることになる。
主軍を率いるのは自分で、この部隊は南下し荊州を目指すことになる。豫州を抜き、決戦となるのは江陵のあたりになると曹操は踏んでいる。そこは荊州でも屈指の補給基地であり、孫家としては死守するしかない城郭でもあるのだ。
そして、袁家軍を中核とした別働隊の采配を振るうのは、当然ながら麗羽の役目になってくる。朱里は準備を重ねているし、燈の協力で調略も同時に進んでいる。あとは、いかに相手をその気にさせ、早期の戦に持っていけるかだった。速やかな攻めが必要になってくることから、ひとまず馬家の軍勢はそちらに付けるつもりでいる。常磐は特に孫堅との闘いを望むのだろうが、経験の豊かな将軍だけに麗羽の手助けになることは間違いなかった。
「いよいよ、って感じがしてくるわね。というかなによ、その気色の悪いしたり顔は」
「いやなに、そろそろ賭けの結果が出る頃合いかと思ってな。無論、勝つのは俺だ。二度とも、同じ女に負けてやるものかよ」
「はあ? なんなのよ、その賭けって。アンタのことだから、どうせろくでもないことを仕出かしているんでしょうけど」
「ろくでもないか。ははっ。さすがに桂花は、俺という男をよくわかっている。それでこそ、わが子房だ」
「この場面でそんな褒め方されたって、ちっともうれしくなんかないわよ。これだから、女を孕ませることしか頭にない変態精液男は」
「桂花。丕も生まれたことですし、その呼称はさすがに卒業したほうがよいのでは? あなただって、嫌でしょう。こんなにかわいらしい子が、兄君に対し暴力的な口調になってしまうのは」
「う……。そ、そんな未来、確かに想像したくもないわね。稟の忠告、よくよく考えておきましょう」
稟に指摘され、桂花の顔色がちょっと悪くなっている。
夫婦間のことならまだしも、それが息子世代にまで影響するとなると、母親として耐え難い苦痛があるのだろう。かといって、これまで積み上げてきた人格が、そう簡単に変わるとは思えなかった。きっとそのことを理解しているから、桂花はさらに気を重くしているのではないか、と曹操は推測するのである。
「どのような兄妹になっていくのでしょうね、この子たちは。それを見守っていくためにも、今だけは」
様々な苦難を知っている月の言葉には、他にはない重みがある。
次代の幕開けは、すぐそこまで来ているはずだった。重かった扉は徐々に開かれ、隙間からは光が洩れている。だからこそ、月の瞳には澱みのない希望が宿っているのだと曹操には思えているのだ。
侍女の運んでくる茶の香り。昂りかけていた気持ちが落ち着き、思考が澄み渡っていく。
「んっ、一刀……」
一転して気分に変化が生じたのか、桂花が肩を合わせてくる。
かすかに感じる木犀の甘さ。喫する茶は、いつになくとろけるような舌触りをしていた。