鈍い光を放つ武器を握り、曹操は恋と向かい合っていた。
方天画戟の切っ先。かすかな揺れすらなく、静かに自分を威圧し続けている。
名を、倚天の剣というそうだった。剣という割には、刃が片方にしかついていない。普通なら刀と称されるべきなのだろうが、それにしては身が細いのが特徴だった。
それにしても、不思議なほど手に馴む。こんなひと振りを得たのは、はじめてのことだった。
遠駆けをしていた時に旅の道士らと出会い、親交の証として譲渡されたものなのである。話を聞いた桂花は気味が悪いから捨てろと言っていたが、曹操は意に介さず剣を佩いていたのだ。気になる男ではあった。敵意とまではいかないが、態度の端々に棘のようなものを感じたのは確かだったのである。それから、道士と一緒にいた巌のような肉体を持つもうひとり。圧倒的な存在感で、あの場に桂花がいたら泣いて逃げ出していたとしてもおかしくはなかった。それなのに、その者の眼はやけに優しかったのだ。
恋の足が砂利をすり潰す音がする。普通ならば、とっくに鍔迫り合いになっているような場面だと曹操は思った。
「天下の飛将軍殿が、俺ごときに遠慮をしてどうする。かかってこい恋。これは、命令だ」
「んっ……、承知した。一刀の命令は絶対。命にかえても、恋はそれを守る必要がある」
決心がついたのか、恋の双眸に闘志が宿る。
何度目かの対峙だった。それなのに、肌が焼けるような錯覚に襲われるのは、この乱世においても呂布奉先という存在が飛び抜けているからなのだろう。
「おまえとの闘いは、魂すらふるわされる。ははっ。よろこんでいるようだぞ、この剣さえも」
「……武器がよろこぶ? 一刀は、やっぱりおかしなことを言う。そんなの、鈴々にも言われたことがない」
「引き合いに出して、無用な怒りを買っても知らないぞ。さあ、もっとだ。もっと俺に本気を見せてみろ、恋」
「どうなっても、恋は責任を取れない。だから一刀、覚悟して」
恋が戟を振りかぶる。ただ待ち構えているだけでは意味がない、と曹操は一歩前に出た。
倚天の剣を突き出す。
迎え撃つのではなく、相手の攻撃ごと叩き伏せる。恋にとっては、そのくらい造作もないことなのだろう。鞭のごとくしなる戟の柄。気迫だけは上回るつもりで、ぶつかった。
刃と刃。交差し、火花を散らす。そこから巻き起こったのは、眩いくらいの異様な光だった。包まれる。嫌な焦燥感に駆られて、恋に手を伸ばした。
「だめ、一刀……っ!」
光の中に意識が飲まれる。
自分の真名を必死になって呼ぶ声。それだけが、最後の記憶に残っている。
†
顔に小さな痛みを感じる。
それで眼が醒めた曹操は、身体を起こして周囲を見回した。
どこまでも拡がる原野。ぶつかった状態のまま保存でもされていたのか、倚天の剣と方天画戟は仲良くその場で転がっていた。
そして、自分と同じように倒れ込んでいる恋。どうやら、差し出した手はしっかりと届いていたらしい。状況を飲み込めたわけではないが、今はそれだけが救いだった。
「恋。平気か、恋」
「んっ、んぅ……。あっ。おはよう、一刀。……恋はどうして、こんなじゃりじゃりしたところで寝てる?」
「わからない、なにも。とにかく、場所を移すぞ。ここが領内であれば、どうとでもなるのだが」
希望的観測を述べるべきではないと思った。それなのに、考えの甘い言葉をつい発してしまったのは、自分の頭がまだ混乱しているからなのだろう。
恋の手を取り、曹操は歩きはじめた。
どこかで、人に出会えればいいのだが。三人の男が前方からあらわれたのは、その時だった。
「おう兄さん。こんななにもないとこで、どうしたんだい?」
「人か、ちょうどいい。ここはどこの州で、誰が治めている土地だ。それと、城郭までの道のりが知りたい。手持ちはあまり多くないが、報酬は払うつもりだ」
「あん? えらく高圧的な態度をとってくれるじゃねえか、兄さん。いいのかねえ、そんなことして。こっちはせっかく、金目のもん巻き上げるだけで許してやろうとしてたのになあ」
細身で長身の男が三人の頭領格なのか、剣の鞘で肩を叩きながら嫌な視線を向けてくる。
言葉を聞く限り、このあたりで活動している小悪党のたぐいなのではないか。そんな人間と出会ったのは不運としか言いようがないが、曹操は努めて苛立ちをこらえようとした。
「いいかどうかは、おまえが決めることではない。情報さえ貰えれば、俺は金をくれてやると言っているのだ。それから忠告しておくが、この女は常人の手に負えるものではない。だから、下手な真似はしないことだ」
当の恋が理解していないことだけが、幸いだった。
三人の下劣な視線。なにが狙いで、自分たちをどうしたいのかが言葉にするまでもなく伝わってきてしまう。
「かかっ。言ってくれるじゃねえか、兄さん。いいぜ。そこまで言うなら、試してやろうじゃねえか。まずはその細っこい腕をぶった斬って、女と金……を?」
これ以上の交渉は無意味だと悟った。
血飛沫が舞う。倚天の剣を横に薙ぐと、容易く長身の男を胴から斬り落とすことができた。試し斬りの相手としては不本意だが、その威力が確かであるのは証明されている。
あとの二人が、頭領の死に怯えきっている。これでは、もう使い物にはならないと思った。
「もういいぞ。残りの二人を斬れ、呂布」
小さな頷きが見える。
ほとばしる真紅の閃光。それは、勝負といえるようなものですらなかった。
瞬く間に、物言わぬ亡骸が三つに増える。やるせない気分で、曹操は原野をさらに進もうとした。
「あっ、やっと見つけた。というかなによ、この大惨事は。それに北郷、いつもの格好はどうしたっていうの。あれがなかったら、アンタなんて単なる凡夫に成り下がってしまうじゃない」
やって来たのは、馬に乗った詠だった。心中に安堵が拡がる。どうにかしてみせるつもりではあったが、今はまだ手がかりさえ掴めていないような状況だったのだ。
友人との再会にほっとしたのか、恋が腹のあたりを擦っている。正直、ここまで空腹のことを言わなかっただけ、成長したと言えるのではないか。城郭に帰ったら、好きなものをたらふく食わせてやろう。ひもじそうな恋の表情を見ていると、つい甘やかしたくなってしまうのだ。
「ちょっと、聞いてるんでしょうね、北郷。うげっ……。この真っ二つになってるのは、恋がやったの?」
「そっちを斬ったのは、恋じゃない。我慢できなくなって、一刀がえいって」
「はっ? え、これを、ほんとに北郷が……?」
詠の様子が、どこかおかしかった。
鞘に納まっている倚天の剣を見る。不思議な縁から手にした剣。それが導くのは、どのような結末なのか。
「とにかく、詠と合流できてよかった。鄄城のそばなのか、ここは」
「なっ!? ど、どういうつもりなのよ、アンタ。真名の意味は、会ってすぐに教えたはずでしょう。それを自分から侵すだなんて、本気で侮辱しているのかしら、ボクのことを」
表出したのは、怒りの感情だった。
不快なものでも見るかのように、詠は逸れた視線しか送ってくれなかった。それに、頻出している『ほんごう』とはどういう意味なのか。
明るかった恋の表情に、一気に曇り空が拡がっていく。
相対したことのない状況。考えて、どうにかなるようなものではなさそうだった。
「ご主人様で旦那様なんだから、一刀に真名を呼ばれるのは当たり前のこと。詠の言っていることが、恋にはちょっとわからない」
「はあ……!? あなたこそ本気で言っているの、恋。ちょ、ちょっと優しいところがあるくらいで、天の御遣いの名声以外になにもないような男じゃない、こいつは。それがご主人様だなんて、正気の沙汰とは思えないわね。旦那様とか、余計に意味がわからない」
吐き捨てた詠の顔は、冗談などではなく歪んでいた。
混乱でどうにもならなくなったのか、恋の視線がどんどん地面に落ちていっている。
このままでは、どうにも収束がつきそうにない。せめて月がいてくれたらと思いはするが、出産を終えたばかりの身体で、遠出などできるはずがなかった。
「ふう、やっと追いついたよ。あの、詠ちゃん? お二人がすごく暗い顔をしているけど、これはいったい……」
「はあ……。月のおかげで、いくらか頭も冷えたかな。ちょっと、場所を移そうか。ずっと死体のそばで話すのも、気が滅入るもの」
月の出現で、くすぶっていた疑問がほとんど確信に変わっていく。
馬を曳いて歩く二人に続いて、曹操は足を進ませた。
どちらも、姿かたちは自分の知っているものと違いはなかった。だが、まとっている雰囲気があまりにもかけ離れているように思えてならないのだ。
ちょっとあどけないというか、数多の苦しみを経た峻烈さが双方ともに抜け落ちている。その見立ては、きっと間違いではないはずだった。
「月、いつもの首輪をしてなかった。一刀のくれたものだからって、すごく大切にしているのに」
「ン……。少し変なことを言ってもいいか、恋」
「一刀が変なのは、いつものこと。もしそうじゃなくなったら、恋はどうしていいかわからなくなる」
「ははっ。散々な言われようだな、それは。とにかくあの二人は、俺たちの知る月と詠ではないのだと俺は思う。同じなのは姿かたちだけで、記憶や魂に差異があるのだ。かつて、夢でそんな感覚を味わったことがある。今この状況が夢を見ているだけであれば、なにも気を揉むことはないのだが」
「……えいっ」
「痛いぞ、恋。もういい、実験ならこれで十分だ」
恋に引っ張られた頬が痛い。
二人でじゃれ合っているとでも思われたのか、詠の表情には先ほどよりも怪訝さが拡がっていた。
泉のそばまで移動したところで、月と向き合った。
澄んだ瞳。やはり意志は強そうで、記憶が違っていても本質そのものにぶれがあるとは思えなかった。
「ほんとうなんですか、一刀さん。その、詠ちゃんの真名を、許可もなく呼んだことは」
「事実だ、それは。しかし俺にとって、おまえたちを真名で呼ぶのはごく普通のことなのでな。それについては理解していただきたいのだ、董卓殿?」
「は、はあ……? どうしてなのでしょう。今日のあなたは、雰囲気がとても大人びている気がします。それに、言葉遣いすらなんだか変わっていて。あの、無礼を承知でうかがいますが、あなたは北郷一刀さんです……よね?」
「ほんごう。またしても、ほんごうか。わが名は曹操、字は孟徳だ。そして一刀というのは、俺の真名にあたる」
月と詠。その二人の、息を呑む音が聞こえたような気がしていた。
董卓、と呼びかけたことに月は大した反応を示さなかった。やはり、という思いが強くなる。恋もさすがに感覚的に理解してきたのか、握ったままになっている手には嫌な汗が浮かんでいた。
「曹操。北郷さんではなく、あなたは曹操さん……? へう……。どうしよう、詠ちゃん。私が周辺の見回りなんてお願いしたせいで、一刀さんがこんなことに」
「と、とにかく落ち着きましょう、月。ボクだって、正直頭の整理が追いついていないんだもの。ええと……。変な感じしかしないんだけど、曹操殿、でいいのよね? そっちのれ……呂布と一緒に、ひとまずボクらの拠点まで来てもらえないかしら」
「それでよい。俺たちには、選択肢などあってないようなものだ」
愛する女と似て非なる二人と会話をしながら、城郭まで歩いた。
自分がいるのはどうやら涼州で、しかも帝はまだ洛陽に鎮座しているらしい。単に、過去に迷い込んだという話ではない気がする。心にかすかなざわめきがあるのは、そのせいなのか。
同じ容姿を持った男。一刀という名は共通しているが、そちらには北郷という姓があるのだった。ずっと頭の片隅で引っかかっていたことが、鎌首をもたげはじめている。最近では見ることのなくなった夢。桃香たち義姉妹と、桃園で誓いを交わしていたあの男。それも北郷の姓を持つ一刀だったのではないか、という考えが徐々に拡がっていく。
「その……。お連れの方がお腹を空かせていらっしゃるみたいなので、食事の用意をしてこようかなと」
「んっ……。恋のことは、恋でいい。おまえがそっくりなのは、顔や声だけじゃなかった。優しい部分も、恋の知ってる月と一緒」
「あっ、ふふっ……。そういうあなたも、恋さんと同じです。たくさん、召し上がりますよね?」
到着した先の館。
月からの問いに、恋が深々と頷いている。
どんな世界にいようと、その強さ、その純真さが揺らぐことはない。だから、あとは自分が答えを見つけるだけだと腹をくくることができた。
「はじめて感じたが、涼州の風もいいものだ。来て早々に、ちょっと血なまぐさいことが起きはしたがな」
倚天の剣の鞘を撫で、曹操は様々なことに思いを巡らせている。
決戦前の余興にしては手が込みすぎているが、導かれたからにはなにか意味があるのではないか。調理場がすぐ近くにあるのか、漂ってくる匂いに恋がしきりに鼻をひくつかせている。
まずは、腹ごしらえをすることだった。
所在なげに垂れた髪をいじる詠。これではどちらが客人なのかわからないな、と曹操は静かにほほえんでいる。