暮らしていた現代から、古代中国らしき時代にタイムスリップしたことはまだいい。いや、決してよくはないのだけれど、ひとまずよしとしておくだけだ。
豪勢なつくりをした椅子。それに、着慣れない衣装。なにより、居並ぶ文官から受ける視線の辛いことったらありゃしない。
ちょっと前まで、俺はただの高校生だったんだぞ、と北郷一刀は顔を手で覆う。
「ううっ、涼州に帰りたい……。月の手料理が、こんなに恋しく感じる日が来るなんてなあ」
気づいた時にはなにもない原野に放り出されていて、野盗に剣を向けられたことが記憶に新しい。
しかしまあ、地獄に仏というのはよく言ったもので、月との出会いによって状況は一変することになる。
幼馴染のツン子ちゃんから四六時中険しい眼を向けられているのはアレだけど、月から差し向けられる優しさがあればそのくらいはなんともなかった。
「……さま、曹操さま」
「は、はいぃい!?」
自分の世界に入り込んでいたせいで、場に似つかわしくない大声で返事をしてしまう。拝礼をしていたおじさんが戸惑っているのが、離れていてもすぐにわかった。
これはまずい。どのくらいまずいかというと、黒髪ロングで隻眼のお姉さんが、ゆっくりと剣の柄に手をかける程度にはまずかった。
あの人の危険さは、この世界に紛れ込んだ瞬間から嫌というほど体感させられている。
一刀をどこへやったなんて聞かれたものだから、それは俺のことだと答えたのが間違いのはじまりだったんだ。
思い出しただけでも、全身が総毛立つ。涼州で襲ってきた野盗とは比べものにならない殺気をあの人は持っていて、受けるだけでも目眩がしかけたことをよく覚えている。
曹操。その真名である一刀。俺ではなく、この世界に根差した別の存在。
信じがたいことだけど、そもそも自分自身が普通ではあり得ない体験をしているのだから、そういうこともあるんだと無理矢理納得するしかなかった。
どうやら平行世界の俺はここで曹操の役割を担っているらしく、しかも孫堅との決戦を控えているっていうんだから、歴史なんてのはほんとうに曖昧なものなんだと痛感させられている真っ最中なのだ。
しかも、原因不明の転移によって俺が曹操と入れ替わるように出現したものだから、事態が解決するまで影武者をする羽目になっている。
書類の精査なんてできるはずがないし、基本的には文官のみなさんにすべて投げっぱなしではある。それでも対面の場だけはどうにもならないので、ありもしない威厳をどうにか出そうと、悪戦苦闘する日々が続いていた。
「曹操さまは、いたくお疲れのご様子。よって、本日の謁見はここで打ち切りとさせていただこうか。誰か、客人方のご案内を。もてなしの席を用意してあるゆえ、あとはそちらに」
黒髪ロングのお姉さんの妹は、クール系の美人さんだ。こちらはこちらで恐ろしい目に遭わされたのだけど、それは記憶の底に封印しておこうと思う。うん、きっとそれがいい。
「……ねえ、ねえってば! ちっ。立派についてるその耳は、飾りかなにかだと言いたいのかしら。ほんとうに腹が立つ。こんなの、アイツの影になんてなりっこないじゃない」
「うへっ……!? ご、ごめんなさい。やっと謁見が終わったと思うと、身体から力が抜けてしまって」
「いいから、私に無駄口を叩かないで。次やったら、あの猪をけしかけるわよ」
いやどっちだよ、と一刀は心の中でツッコミをいれる。
猫耳フードのかわいらしさに騙されてはいけない。
口撃力の高さはこの軍師さまが随一で、態度のなにからなにまで注意されっぱなしだった。
曹操という雲の上の存在になっているとはいえ、よくここまで癖の強い集団をまとめられているな、ここの俺。というかここまで差があると、姿かたちが似ているだけで、ほんとうに俺なのかすら怪しいところだけど。
曹操の名を背負ったから、そうなったのか。それとも妥協のない努力が、元々備えていた資質を極限まで開花させたのか。
もし後者だったとすれば、ちょっと勇気が湧いてくる。
今は立っているのが精一杯だったとしても、いずれは俺も月のために。そうやって前向きになれただけでも、別世界への旅路には意味があったんじゃないかと思えてくる。
「荀彧殿。寂しいのはわかるけど、この北郷一刀にあたったところでどうにもならないわよ。さっ、あなたはボクについてきて。楽じゃないわよね。お飾りの代役なんだから、座ってるだけでいいって言われるのも」
「あ、ああ。ありがとう、賈駆さん」
驚くほど穏やかな表情だった。平行世界の別人だとはいえ、これがあの賈駆なのかと疑いたくもなる。あっちの世界だったら、そんな思考をした時点で容赦のない殺気が飛んでくるのは確定事項だ。
ここの俺は史上の英雄よろしく、数多の美人さんを周囲に侍らせまくっているみたいなのである。
だけど、その絆は簡単に結ばれたものじゃない。みんなの態度を見ていれば、そのくらいは俺だってさすがに理解することができる。
董卓に袁紹。極めつけには、曹操最大のライバルになるはずの劉備まで。そんな三人が味方についているなんて、冗談抜きにどんなチートを使ったんだよと問い詰めたくなるのが普通の反応だ。
だけど曹操には、ネット小説でよくある転生特典なんかがあるわけじゃない。
勝つ時があれば、盛大に負ける時だってある。泥臭いというか、そこにいるのはただの人間なんだと同じ空気を吸っていると思えてくる。
「恋、呂布は今日も董白さんのところに?」
「ええ、そうみたい。赤ん坊が二人に増えたみたいね、あれじゃ。昔の恋は、確かにあんな感じだったんだけどさ」
別人だとわかっていても、子持ち人妻になった月との対面にはドキドキしてしまう。強く感じる母性と、時々見せる鋭利な刃物のような側面。そっくり同じなように見えていても、細かい部分に差異があるのは間違いなかった。
そもそも、この世界の月は董卓ではなく董白と名乗るようになっている。細かいことまでは教えてもらえなかったけど、色々な事情が折り重なっての改名のようなのである。
そんな事情などお構いなしの恋だけが、暇さえあれば董卓さんの家に通っているのが現状だったりする。膝で寝かしつけられている場面に遭遇したことがあるけど、羨ましいなんて思ってないからな、絶対。
「なによ、その顔は。みんなに追い込まれすぎたせいで、精神に異常をきたしたわけじゃないわよね?」
「やっ、えとっ……。ちょっと、どう思ってるのかなってさ。俺と曹操が、いるべき場所にちゃんと帰れるかどうか」
「そんなの、当たり前じゃない。帰ってくるわよ、あの人は。でなきゃ、今までの苦しみやがんばりはなんだったの、ってことになってしまうじゃない。だから、曹操殿は帰ってくる。普段はあまり使わない表現だけど、これだけは絶対だと言い切れるわ」
賈駆さんの笑顔がすごく眩しい。
これだけ自信に満ちた答えが返ってくると、それが当然のことのように思えてくる。
頼むぞ、世界の壁をこえた先にいるもうひとりの俺らしき俺。こっちはこっちで、がんばってみるからさ。
一陣の風が吹く。それが返答の代わりだったような気がして、北郷一刀は上空をしばらく見つめていた。
†
多彩な勢力の思惑が動く涼州が、いつまでも静かであるはずがなかった。
中原で動乱を巻き起こす黄巾軍に呼応し、漢室に反発する豪族たちが軍勢を催した。ことの首魁は韓遂と辺章で、そこに羌の部族までもが加わっているのだ。
叛乱軍の総数は少なく見積もっても十万をこえていて、董卓の手勢だけでどうにかなるような規模ではなかった。
まさかとは思ったが、孫堅率いる官軍が少し前に着陣していた。
涼州を代表して挨拶に向かう月。天の御遣いという肩書きを背負い、曹操は同行することになっていた。
「董卓です、孫堅さん。遠路遥々、よくぞいらしてくださいました。援軍、心より感謝しています」
「ハハッ。感謝されるような善行をしたつもりはないぞ、オレはな。朝廷が行けと命じてくるから、ここまで敵兵をぶっ殺しに来てやった。そんなものだ、ここにいる理由は」
大胆な発言をしてのける孫堅に、月が少々たじろいでいる。
堂々たる体躯。腰に佩いた伝家の名剣。そして、野獣を思わせる二つの眼が、獲物を見定めるかのように自分の全身をじっと見つめていた。
「噂に聞いていたのとは、少し違うみたいだな。天の御遣い。そうなのだろう、貴様が」
「いかにも。俺こそが、噂に名高き天の御遣いだ。北郷一刀。その名をしかと記憶しておくのだな、孫堅殿」
白を基調とした衣服が、物珍しい感じがする。
実際はもっときらびやかな印象があるそうで、どんな素材が使われているのか興味深くはある。しかし、今はそんなことよりも、孫堅との対峙が先だった。
いきなりの挑発的な態度に、月が不安を必死に隠そうとしている。
だが、このくらいぶち上げておいてちょうどいい女であることは知っている。それにどうせやるなら、天の御遣いの威光を最大限まで高めてやろうという魂胆が曹操にはあったのだ。
「面白いじゃねえか、天の御遣い。貴様、戦はできるのだろうな」
「期待には、どうにか応えてみせよう。俺の初陣になるのかな、これが」
「は、はいっ。ですが曹……、んっ。北郷さん、ほんとうによろしいのですか?」
「将兵に勇気を与えられずして、なにが天の御遣いだ。だから、俺はやる。心の備えなら、十分にしてきたつもりだ」
「ほう。つまらん戦になることを危惧していたが、なかなかに愉しませてもらえそうじゃねえか、これは。すぐに軍議を開く。相手は涼州のごろつきどもだ、闘いの手法は貴様に任せてよいな、董卓」
「承知いたしました、孫堅殿。北郷さんも、ご一緒に?」
「そうさせてもらおうか。江東の猛虎殿から、戦の手立てを学べるいい機会だ。よろしくお願いする、孫堅殿」
自分の言葉に、孫堅が獰猛な笑みで応える。
この女こそ、どこにいようとなにも変わらない。血の湧き立つ戦を求め、敵を次々に牙にかける。別に、攻略の糸口を探ろうという気があるのではなかった。孫堅とのぶつかり合いは好きで、それが同じ側に立つとどうなるのか試してみたくなっただけなのである。
太平道との闘いで陣を並べた時の自分は、まだまだ心が研ぎ澄まされていなかった。だから、戦場に生きる者として、この機会に恵まれたことは幸運であるとしか言いようがない。
「あの、天の御遣い殿?」
「ン……。なにかな、孫権殿」
「え? こちらはまだ、名を明かしてもいないというのに。驚いたな、さすがに」
「はははっ。天の力の一端なのかもしれないな、これも。それで、俺に用が?」
孫堅と月が離れたところで、若い女に話しかけられた。
つい考えもなしにその名を口走ってしまったが、今後は少し気をつける必要があるのかもしれなかった。
「失礼だが、あなたもこの闘いが初陣になると、そう会話が聞こえてきたのでな。恥ずかしい話ではあるが、私はどうにも緊張してしまっているようなのだ。それで、堂々とされているあなたのことが、ちょっと羨ましく思えてな」
「ああ、そのことか。孫権殿もこれまで、準備は入念にしてきたのだろう? ならば、まずは自分を信じてみることだ。それでもしだめだったなら、母御や宿将を存分に頼ればいい」
「むっ……。なるほど、あなたの言うことには確かに理解できる。独りよがりの戦をできるほど、私には蓄積された経験がない。だったらまずは、周りをしかと見渡してみるべきなのかもしれないな」
「その意気だ。励めよ、孫権殿」
「えっ? あの、ちょっと……、御遣い殿っ!?」
心を抑えきれなくなり、気づけば孫権を抱きしめてしまっていた。
かつて緊張にふるえる従妹たちを戦場に送り出した時も、こうして慰めてやったことが記憶に懐かしい。栄華などは恥ずかしがってかなり嫌がる素振りをしたものだが、最終的には自分の好きにさせてくれたことをよく覚えている。
冷静になって考えてみると、孫堅以外の一門の人間と肌が合うほど密接な状態になるのは、これがはじめてのことだった。
「ふえっ、あっ、ああぁ……っ」
「……っと。少し効きすぎてしまったかな、これでは」
やわらかな感触を短い間だけ愉しみ、曹操はゆっくりと身体を離した。
孫権の顔が、長湯をしすぎた時のように赤く茹で上がっている。手のひら。数度意識を確かめるように振ってみたものの、どうにも反応がない。
この場にあの甘寧がいたならば、間違いなく自分は刃を向けられているはずだった。それがないことにちょっと安堵していると、曹操はもどってきた孫堅に声をかけられた。
「おう、やりやがったなぁ、貴様。どうだった、オレの娘の抱き心地は? ククッ……。これでよくなかったなんて言ってみろ、その口に南海覇王を突っ込んでかき回してやるから覚悟しておけ」
「素晴らしかったさ、とても。しかしまあ、妹たちを思い出してのことだとはいえ、これは少々やりすぎたか」
「ハハハッ。やはり面白いな、貴様は。天人の力を宿したその血、娘に受け継がせてやってくれても構わんのだぞ? なんならここで、一発ぶちかましてみるか」
孫堅の笑い声はどこまでも豪放だった。
天の御遣いの血。それを巡る争いが、いずれ起きてもおかしくはないと曹操は思った。
漢室の力が弱まった時、その血の価値はさらに高くなる。天命の加護を受けた貴種。その噂が民衆の間にまで拡がれば、王朝を覆す理由としてもっともなものになる。
「あ、あの。孫堅殿、北郷さん……?」
「待たせてすまなかったな、董卓。余興はこのくらいで十分だろう。軍議に参ろうか、孫堅殿」
「なんだ、つまらん。おい、そろそろ正気にもどってこい、仲謀。北郷になにかされるまでそうしているつもりなら、オレはそれでも構わないが」
「い、いい、いえっ!? ほら、行きましょう、母さま!」
母親の言葉でようやく硬直を脱した孫権が、おのれを鼓舞するように大きな声を出している。
ほほえましい光景、とでも言うべきなのだろうか。
ちょっと困惑したままの月を連れ、曹操は軍議へと向かった。
さすがに次回で締めます。