※この作品はR-18です。

恋姫異天記~曹操伝~   作:KKS

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五 雨中の邂逅

 黒雲。天を、どこまでも覆っている。降り注ぐ雨粒。馬蹄が、水溜りを叩いた。泥水が弾ける。濡れた顔を手で拭うと、曹操は乗馬の腹を強く蹴った。

 麾下の兵。次々に駆けていく。自らの手足とすべく、鍛え上げてきた兵たちなのである。無闇に広がることはせず、纏まりを持ちつつ先頭を行く趙雲を追っている。

 夏侯淵が、馬を寄せてくる。少し身体を傾け、曹操は聞き耳を立てた。

 

「殿、間者より報告が入りました。どうやら、宮中に押し入った袁術軍は、宦官を斬って回っているようなのです。この分では、宮中の乱れ具合はかなりのものとなるでしょう」

「宦官を? なるほど、袁術に目障りな宦官どもを誅殺させ、自分は大将軍を追い落とすつもりなのだな、董卓は。考えても仕方のないことだが、共に粛清後の政権を担おうとでも誘われたのかもしれない。あの袁術のことだから、宮中さえ制圧してしまえば、自ずと董卓の上に立てると踏んでいるのだろう。あわよくば、どさくさに紛れて何進をも斬り捨てる。そのくらいの魂胆を持っていても、不思議ではない」

「殿のお考え通りであれば、なかなか強かな策略です。しかも、乗せられているのは袁術殿ひとりではありません。宦官一掃の好機と見たのか、袁紹殿も軍勢を動かし、殺戮に加わっておられるようなのです」

「袁紹も、か。あれは、前々から宦官の存在を疎ましく感じていたようだからな。大将軍にも、武力による排斥を何度も訴えていたくらいだ」

 

 夏侯淵からの報告に、曹操は頷いた。袁紹が、宦官に気を取られている。それは、自分にとっては都合のいいことだった。競合相手が少ない内に、探索の手を広げる必要があるのだ。まず探るべきは。やはり宮中なのか。

 養子の養子だとはいえ、自分も宦官の家系に連なる者であるのは確かなのだ。だからなのか、袁家の二人ほど過激な思考を、曹操は持ち合わせていなかった。目障りではあるが、都の運営するためには多くの人がいる。宦官は、間違いなくその一端を担っているのだ。いつまでのさばらせておくつもりはないが、使える間は使い潰せばいい。自分であれば、そうするはずである。

 

「今は、時が惜しい。兵を分けるぞ、秋蘭(しゅうらん)。お前は一千を率い、宮中の混乱を鎮めつつ陛下をお捜しせよ。(せい)も、そちらにつける」

「御意。お気をつけください、殿。城外には、董卓の猟犬が迫っております」

 

 夏侯淵が首肯する。

 

「わかっているさ。柳琳(るーりん)、お前は俺と共に来るんだ。麾下の者には、とにかく注意を払うように伝えろ。見落としがあってはならん。何であっても、気になることがあれば上申させよ」

「はい、兄さん。騎兵は、こちらに全て編成しても?」

「ああ、それでいい」

 

 雨の中を、駆けに駆けた。董卓の軍勢は、どこまでやってきているのだろうか。それどころか、帝の所在がまだわからないままだった。誰かが保護したという報も、入ってきてはいない。

 喧騒。四方から聞こえている。この雨でなければ、宮殿からは火の手が上がっていたのかもしれない。血には、人の心を狂わせる作用がある、と曹操は思う。袁紹も袁術も、もうとどまれないところにまで、行ってしまっているのだろう。

 逃亡しようとしている者がいれば、捕らえては人相を確認して回った。その中には、着物を血で汚した宦官の姿もあった。いくら袁家の兵が手当り次第に斬りまくっているといっても、まったく抜け道がないわけではないようだった。だとすれば、帝もそれに紛れて、城外へ出てしまっている可能性もあるのか。

 口の中に、塩気のようなものを感じている。雨と汗。それが入り混じったものが、全身に滴り続けていた。

 近くにいる曹純も、同じくしとどに濡れていた。張り付いた衣服。それによって、女らしい豊かな曲線が強調されている。ただ、そこに向けるだけの意識の余裕がないのも事実であり、従妹にしても気恥ずかしさなどは少しも感じていないようだった。

 

「どこにいらっしゃるのでしょう、陛下は。秋蘭さんたちの方からも、まだ何も言ってきていませんし」

「ここまで見つからないということは、城の内側ではないのかもしれないな。宦官の誰かが連れ出したのか、それとも……」

 

 崩れたままの天候。恨めしく思ったところで、なにかが変わるものでもない。

 紅波(くれは)が戻ってきたのは、その時だった。兵卒の格好をしているが、紅い髪がかなり目立っている。纏め直している暇は、なかったのだろう。

 

「殿。探索が遅れてしまい、申し訳ございませんでした。どうやら、帝は大将軍によって連れ出されたようなのです。それも、妹君もご一緒に」

「何進め、ぎりぎりのところで鼻を利かせてきたか。この雨だ、早く追わなければ痕跡が消えてしまう。紅波、お前は宮中にいる秋蘭を呼び戻せ。隊を五百ずつに分け、城外をくまなく探す」

 

 洛陽からの脱出を計るのであれば、まず北に向かうだろうと曹操は思った。南に行っても、ただ原野が広がっているだけなのである。北には、黄河がある。自分が何進であれば、その流れを利用して、船で逃げようとするはずだ。

 手勢の指揮を曹純に任せて、曹操は精鋭十騎と共に駆け出した。紅波も、騎乗して着いてきている。

 まだ、諦めるわけにはいかなかった。初めて得た、天下を掌握する機会なのだ。乗馬からは、熱気が発せられている。泥水を飛ばし、街道を駆けていく。途中からは大きな道を避け、間道を進んだ。

 いまの帝は、鷹揚としていて、あまり意志を感じることのできない人間だった。それに、生涯のほとんどを宮中で過ごし、まともに出歩いたことすらないというのだ。であれば、馬にもまず乗れないだろうから、歩みは当然遅くなるに決まっている。だから、きっと追いつけるだけの時がある。そう信じて、曹操は駆け続けた。

 帝を手中したあとは、急ぎ勅命を発し、近衛軍を纏め上げる必要があるだろう。

 袁紹の存在が厄介ではあったが、大義名分と兵力さえあれば、従わせることは難しくないと思う。近衛軍すべてを併せれば、三万にはなるはずだ。その軍勢を持ってして董卓を破ることさえできれば、天下への道は開けたも同然なのである。

 

「むう。あれはなんだ、紅波」

「いけません。殿、あれは……」

 

 霧のような雨。その先に、粛々と行軍する騎兵の姿が見えている。数は不明だったが、相手が想像している通りの軍であれば、騎馬だけでも五千は下らないことだろう。

 隣りにいる紅波が、警戒感をあらわにしている。だが、逃げ出すつもりはなかった。麾下にはその場で待機するように命じ、曹操は軍勢の接近をじっと待った。

 雨粒の弾ける音。なにもかもが、泡沫のことように思えてくる。掲げられている旗。だんだんと、見えてくる。深紅の地に、黒で染め抜かれた『(りょ)』の一字。鮮やかな旗に合わせるかの如く、騎馬隊の軍装も赤で統一されている。

 一騎。軍勢の中から、飛び出してくる。兵らとは違って具足はつけておらず、褐色の地肌が見えている。ただし、髪だけは燃えるような赤だった。

 

「お前……、だれ?」

「俺は、典軍校尉(てんぐんこうい)の曹操だ。洛陽で一波乱あったゆえ、雨中を濡れ(ねずみ)となって駆けずり回る羽目になっているのだよ。そちらは、董卓殿の配下か」

「……てんぐんの、そうそう? ン……。(れん)は、呂布という」

 

 間延びした感じの返答。恋というのは、真名なのかもしれない。多少皮肉を込めて言ってみたつもりだったが、呂布という将には少しも伝わっていないようである。

 ぼんやりとしているようだが、不思議な魅力を感じる女だった。どことなく保護欲をくすぐられる、とでもいえばいいのだろうか。

 

「恋たちは、洛陽にいく。天子さまを、あるべきところに戻さないといけない。(ゆえ)が、そういってた」

「天子さまだと? ちっ、よもや董卓に先を越されたというのか」

 

 呂布の声。ほとんど、抑揚というものがなかった。それだけに、淡々と現実を思い知らされているような気分になってくる。

 董卓に、主導権を完全に握られている。ここで、自分にできることはなにかあるのか。帝の奪還。命を張ったところで、到底できる状況ではなかった。洛陽に戻って袁紹たちと軍勢を合わせたとしても、絶対的な有利が覆ることはないだろう。

 天運が、手の中からするりと抜け落ちていった。いまあるのは、そんな思いだけである。

 

「邪魔するやつがいれば、斬ってもいい。それも、月が言ってたこと。恋は、すごく強い。おまえじゃ、勝てっこない」

「ふっ、好きなように言ってくれる」

 

 腹のうちに秘めている考えを、読まれたとでもいうのか。穏やかだった呂布の視線。それが、急速に険を帯びていく。

 戟。それが、呂布の得物のようだった。

 汗とも、雨ともとれるようなものが、一筋腕を流れていく。打ち合えば、十中八九死が待っている。自分の直感が、そう告げているのだ。力量差がわからなくなるほど、平静を失っているわけではない。そのことに、曹操は少しだけ安堵していた。

 

「恋さん。脅かすのは、そのくらいで充分ですよ。あとは、わたしから話しますから」

「ん……、わかった。月がいいなら、これでおしまいにする」

 

 鶴の一声。それによって、呂布から溢れ出していた闘気が霧散していく。

 振り返ってみれば、紅波が濡れた顔を腕で拭っていた。恐らく、剣を抜こうとしていたのだろう。抜いていれば、今頃どちらかは斬られていたに違いない。下手を打てば、二人揃って屍を晒していた可能性すらあるのだ。そう感じてしまうくらいの圧力を、呂布という女は備えていた。

 

「典軍校尉の、曹操と申す。貴公が、董卓殿か」

「はい。董卓というのは、わたしです。わが軍は、乱心した何進将軍の手から、天子さまとその妹君を取り返すことに成功いたしました。よって、洛陽に帰還した後は、われらが天子さまの警護を務めます。呂布さんにも伝えてあるように、邪魔する者には容赦をするつもりはありません。よろしいですね、曹操殿」

 

 有無など、言わせるものか。馬上から声をかけてくる董卓には、そんな気配すらあった。少女然としているが、目にはかなり力がある。可愛らしい容貌。その裏側には、鋭い刃が隠されているのかもしれない。

 

「警護を? これは、異なことを申されるのだな。宮中の守護は、近衛軍を預かるわれらの職務でありましょうに」

「慎みなさい、曹操殿。天子さまがお辛い目に遭われることになったのも、ひとえに近衛軍が惰弱だったからに相違ありません。当面、あなた方には謹慎していただくつもりです。それからの沙汰は、追って下すことになるでしょう」

 

 悔しさが湧いてくる。董卓は、すでに政権を掌握したつもりになっているのだ。実際のところ、それは時間の問題だといえよう。

 帝を手にしている限り、袁紹であってもすぐさま董卓に逆らうことはできないだろう。それだけ価値のあるものを、自分は目前で取り逃してしまったのである。多分、しばらくは様子見に徹することになる。それは、苦手なやり方ではなかった。

 政権運営を担ってきた宦官が、死に絶えている。そのせいで、董卓は文官の確保に苦労することになるだろう。政を動かすためには、膨大な数の人間が必要なのである。だから、必ず自由を得られる時がやってくるはずだ、と曹操は思考を切り替えていた。自分たちは、その緩みを狙って行動を起こせばいいのである。しばらくは、守りに徹するべきなのだ。

 言うだけ言うと、董卓は軍勢の中へと消えていった。呂布も、こちらを一瞥しただけで、董卓の後を追っていく。

 

「これは、桂花(けいふぁ)が怒り狂うことになるぞ。危うくなった時は助けろよ、紅波」

「ご冗談を……。あの桂花殿を手懐けられるのは、殿くらいのものでしょう。拙者では、お力にはなれません」

「ははっ、そうか?」

 

 長大な列。そのどこかに、帝がいるのである。

 自分の掴むことのできなかった天運。今回、賽の目を上手く転がしたのは、董卓の方だった。

 空を見上げる紅波。降り続いていた雨が、ここに来て弱くなっている。決着はついた。天が、そう告げているとでもいうのか。

 騎馬に続いて、歩兵が通過していく。

 董卓軍三万。そのすべてを、脳裏に焼き付けたい。唇を噛み締めながら、曹操は過ぎ行く軍勢を見送っていた。

 闘いは、次なる盤面を迎えようとしている。

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