異世界からそのまた異世界に飛ばされ、はや五日が経過している。緊張感あふれる政務をどうにか乗り切り、本日はうれしいお休みなり。なんならちょっと鼻歌まじりに、北郷一刀は朝陽を浴びていた。
というか、こうして職務を実体験してみると、曹操の凄まじさが肌を通して伝わってくる。
毎日あれだけ事務仕事をして、人とも会って、ついでに時々戦争もして。それでいて大勢いる奥さんを満足させられるだけの余力を残しているのだから、ほんとに同じ人間なのか疑わしくなってくる。
「あっ、こんにちは関羽さん。今日は、そっちも休みだったりするの?」
「ええ、北郷殿。あまり根を詰めすぎては、戦の前に兵が潰れてしまいますから。おもどりになられた兄上を、がっかりさせるわけには参りません。曹操軍の将軍のひとりとして、それなりに責任を感じているのです、こんな私でも」
「あはは……。たぶんだけど、それなりってものじゃないと思うな、それは。しかしまあ、あの関羽が曹操の妹分なんだもんなあ」
まず訪れないであろう三国時代に合掌。
俺の洩らしたつぶやきの意味なんてわかるはずもなく、関羽さんはかわいらしく小首を傾げている。
黒髪の軍神。劉備の頼れる義妹で、曹操をお兄ちゃんと慕う一本気な次女。
世間一般のイメージする董卓と真逆な存在であるあの子でギャップには慣れていたつもりだったけど、やっぱり日本人にとって関羽ってのは別格なんではなかろうか。
今になっても、たまにあの凛々しい髭の勇姿が頭を過ぎる。真名を許してもらえていればまた印象も違うのだろうけど、過ぎるものはどうしたって過ぎるのだ。
「北郷。北郷、か……」
「え? なにか言った、関羽さん」
「い、いえ、なにも。そうだ、これから軽く身体を動かそうと思っていたのですが、北郷殿もご一緒されませんか? なんでも武芸を磨きたがられている、と小耳に挟んだものでして」
なんとなく気になる視線を一変させ、関羽さんが鍛錬でもどうかと誘いをかけてくれる。
自分ではない一刀のことを知って、勇気をもらえた。だけど気持ちだけでは、あの子の、月の助けになんてなれるはずがない。
少しでも、たった一歩でもいいから、強くなりたいと思った。
この状況が天のくれた短い猶予だとすると、急ぐ必要がある。今日明日の努力で、突然なにかが上達するわけがない。だけど、せめてきっかけだけでも、曹操の影武者でいる間に掴んでおかなくては。
そんなこんなで、時間があれば誰かに剣の相手をしてもらっていたりする。
「北郷殿。鍛練の前に、少しだけ質問をしても?」
「おっけー。なんでも聞いてよ、関羽さん。先生やってもらうんだから、お返しくらいしておかないとね」
「お、おっけー、とは? むむむ……。兄上と同じ声で面妖な言葉を遣われると、なにやら胸のあたりがぐるぐるするというか。と、とにかくですね」
そりゃあそうだよな、と妙に納得してしまう。
正直言って現時点だと、俺と曹操との共通点は声と容姿くらいしかなかったりする。ほかに加えるなら、一刀という名前くらいのものだ。
それですら威厳に欠けてる、とかなんとか苦言を呈されているわけで、何度涙で枕を濡らしたことか。特に荀彧さんはそのあたりのことに厳しく、顔を合わせるだけでも胃がきりきりと痛むのである。
「その……。北郷という家のことを、少し知りたいと思いまして。個人的な話ですし、嫌ならば断ってくださっても結構ですので」
「俺の家の? いいよ、そんなのでよろこんでもらえるなら。ええと、関羽さんの興味がありそうな話っていうと、そうだな……」
関羽さんのきれいな瞳が、真っすぐに見つめてくる。
ちょっとした緊張を感じながら、一刀は北郷家の歴史を思い返していた。小さな頃からじいちゃんに、昔話としてご先祖さまのことを聞かせてもらっているんだ。
武門の末裔として誇りを持てだとか、かつての俺は完全に聞き流していたに違いない。
ごめんな、じいちゃん。
心の中でした謝罪が、届くはずがないことは知っていた。
「こほん。うーんと、北郷は一応古くから続く武門の家でね。何百年も昔のご先祖は、鎧を着て、馬に乗って、当たり前のように戦争に従事していた。現代を生きる俺に同じ気概があるかって言われると、それはまあ、ね」
「なるほど。たとえ流れている血が同じであろうと、人の生き様はこんなにも違ってくるものなのですね。勉強になります、とても」
「やっ、なんだかごめんね? 俺みたいな奴が、曹操の影武者なんてさ」
「あっ、気を悪くされたのなら謝罪します。そういうつもりではなかったのに、つい……」
関羽さんの生真面目さは筋金入りだ。別にそこまでしてくれなくてもいいのに、今も綺麗な角度でお辞儀をしてくれている。
なにか、話題を変えなくては。
九州とか島津とか、なにもかもローカルすぎて余計な混乱を招くだけだろう。だったら、あとは……。
「そうだ。置き土産じゃないけど、俺じゃない一刀によろしくって意味でさ」
「はて、北郷殿。これはいったい?」
手にしていた木刀を使って、地面に図形を描きあげていく。
丸に十字。細かい意匠は再現できてないかもしれないけど、これで間違ってはいないはずだった。
「戦に出る時、俺のご先祖は常にこの軍旗と一緒にあったんだ。だから、きっと曹操のこともこの旗は見守ってくれる、ってね。あははっ……。もしいらないって言われたら、それはそれで悲しいけど」
「いいえ。およろこびになると思いますよ、兄上は。孫堅との決戦を前に、吉兆の証を手に入れられたようなものなのです。北郷の家。それに、この十文字旗。この関羽が、しかとお預かりいたしましょう」
「うん。そうしてもらえると、ありがたいかな。賈駆さんが言ってたんだ。曹操は、絶対この世界にもどってくるんだってね。たぶん、その時はまた入れ違いになる。だから、俺の気持ちはここで託しておく」
「はい。ふふっ……。いい表情をされていますよ、今のあなたは。これなら、武芸の稽古も捗ること間違いなしです」
「お、お手柔らかにお願いします。それじゃあ、関羽さん」
「応、北郷殿」
稽古用の武器を正面に構えた途端、関羽さんの雰囲気が一変する。
どうか、ご先祖さまたちの加護よあれ。思いきって踏み込む一刀は、心からそう願った。
†
原野に闘気が立ち込めている。
ひしめくのは数万の軍勢。その只中にいて、曹操は心地のいい猛りを感じていた。
「これは、孫堅殿」
「よお、天の御遣い。今頃震え上がって、チンポを縮こまらせているんじゃねえかと思ってな。それで、様子を見に来てやったのよ」
「まさか。涼州の乾いた風が、こんなにも気持ちよく吹いている。あとは、この追い風に俺たちがうまく乗るだけではないか」
「ハハハッ。貴様、これがほんとうに初陣か? 答えろ、今まで何人斬ってきた。一人や二人ではあるまい。天の国というのは、案外物騒な場所なのか、ああ?」
隣に立つ孫堅の顔が、ぐっと近くに寄ってくる。
血の匂いというのを、この女は本能的に嗅ぎ分けられるのだろうか。笑いながら、曹操は質問をはぐらかす。
「ははっ。この前、襲ってきた野盗をたまたま返り討ちにしてな。それで、少しは自信がついたのかもしれん」
「チッ、まったくいけ好かない野郎だぜ、貴様は。しかし、それだけに興味をそそられる」
孫堅の双眸。怪しげな光が宿っていて、笑んでいる様は妖艶ですらあるのだ。
涼州の叛乱軍には申し訳ないが、これは血祭りにあげられることを覚悟するべきだと曹操は思った。いざ開戦となれば、この女は一番に飛び出し敵兵の首を討ちに討つのだろう。初陣である娘の方には、仕事らしい仕事など回ってこないのかもしれない。ただ、それは別に自分の気にするようなことではなかった。
「
「ああん、羅馬だぁ? 魔羅ならともかく、なんだそりゃ。おお、というか貴様、あとで時間を空けておくのだぞ。クククッ……。娘とやる前に、オレが天の御遣いの魔羅を味見してやろうと思ってな」
「孫堅殿と共に夢を見るなら、果てしなく大きなものでなくてはならないと思った。貴殿とであれば、いつしか地平のすべてを平らげることができるのではないか、とな。しかしまあ、眼の前にぶら下がる褒美を粗末にしていいわけではない。天の御遣いなどという大層な肩書きを背負ってはいるが、所詮はひとりの男に過ぎないのだよ。特に、よき女の前ではな」
どこにいようと、この女傑とは惹かれ合うような気がしていた。
ぎらついた視線。猛獣の牙の如く、孫堅の歯が光を放っている。
喚声が前方から聞こえてきたのは、その時だった。戦がはじまる。そこに飛び込むことで、倚天の剣が輝きを取り戻すつもりだった。
確信はどこにもない。しかし、今は流れのままに闘うべきだと思った。
「先に行くぞ、天の御遣い。オレがぶった斬った死体の上を、貴様はのんびりと進んでくることだな、ハハハッ」
「武運など祈るまでもないか。なにせ、この俺には天の加護があるのだからな」
孫堅と別れ、曹操は董卓軍の陣営で出動に備えた。
叛乱軍には、連携らしい連携はない。そこを分断し、辺章の軍を孫堅が猛火となって攻めまくっている。韓遂の相手となっているのは参戦してきた馬騰で、こちらには昔からの誼があるから、そのうちに矛を引っ込めるだろうと月は予測を立てていた。
「そろそろ決着をつけるべきだろう。天の御遣いの威名、轟かせるにはいい機会だ」
「は? いや、ちょっと待ちなさいよね。月から、あなたにはあまり無理をさせるなって、きつーく言いつけられているんだから」
「知ったものか。戦場にいるのに、隅で指を咥えているつもりはない。それに、月には最初に宣言したつもりだぞ、俺は」
「いやいや、そんなのボクは聞いてないってばぁ!」
「共をしろ、恋。あとは、使えそうな騎兵が三百ほどいれば十分だ。それではな、詠。世話になったと、月には伝えてくれ」
「はへっ……? ちょ、ちょっとあなた、ほんとになに言って……」
恋や自分の指揮に耐え得る兵は、すでに見繕ってある。さすがに涼州の地で鍛えられてきただけあって、董卓軍の騎馬隊は優秀だった。
栗毛の馬に飛び乗り、曹操は参集の号令をかけた。天の御遣いの命だということもあり、兵たちはかなり従順だった。
倚天の剣を握った右腕を差し上げ、再び声を張り上げる。詠は呆然と立ち尽くしているだけで、それ以上はなにも言ってこなかった。
「おまえたちと戦場を共にできること、俺は光栄に思う。敵は私欲に塗れた賊軍、なにもおそれることはない。ただ進み、蹂躙せよ。天意は、わが身にこそある」
騎馬隊が動き出す。
砂塵を巻き上げる馬蹄。乾いた風に押されて、馬がどこまでも加速していく。
「あ。見て、一刀」
恋が呟く。指は遥か頭上の空を指していて、そこには見たことのない輝きがあふれていた。
星が落ちてくる、と曹操は直感的に思った。
麾下に動揺が拡がる。それでも、隊列は真っ直ぐ敵に向かっている。
「……平気? いくら恋でも、落っこちてくるお星さまはどうにもできない」
「言ったろう。なにもおそれることはない、とな。見ろ。倚天の剣が、うれしそうにしているではないか」
「あっ。ほんとに、剣がよろこんでる。だったら、このまま」
「突っ込むぞ、恋。おまえの命は、とっくに俺がもらっている」
答えなど、聞くまでもないことだった。
馬首を下げ、光に向かって突撃を敢行する。光る鞘から倚天の剣を抜き放ち、曹操は叫んだ。
まばゆいものに包まれる。消えていく感覚。そんな中でも、掴んだ恋の手だけは離さなかった。
†
顔に小さな痛みがある。
それはやがて大きくなっていき、左右の頬にまで拡がっていった。
眼を覚まし、曹操は深々と息を吸った。右手にあるのは、倚天の剣なのか。ちょっと頭にも鈍痛が走るが、そんなことは気にしていられなかった。
「一刀。ねえ、あなた一刀なんでしょう? ねえ、ねえってば」
すがりつくような声。ぼやける焦点をどうにか合わせると、見たことのない泣き顔が浮かんでくる。
桂花、とすぐに真名を呼んでやりたかった。しかし、光による反動のせいか身体がうまく使えない。こんなにも強いもどかしさを感じるのは、いつ以来なのかわからなかった。
「桂花殿。あまり、無理をなさらない方がよろしいのでは? 愛紗さんの話によると、北郷さんの姿は光に包まれて消えてしまったそうではありませんか。私のところにいた別の恋さんも、ちょうどそれと一緒に。そして、この方がお帰りになられたのです。疑うことなどありませんよ、なにも」
「だ、だってぇ……! というか、あなたはなんでそんな冷静でいられるのよ。おかしいじゃない、えぐっ、そんなの……っ」
「ふふっ。桂花殿がお心を乱しているだけ、こちらは落ち着いていられるんです。でなければ、私だって」
近くに、月がいるようだった。
おそらく、自分は台の上に寝かされているのだろう。あの時のように、かたい地面に転がされていたのかもしれないが、拾い上げてもらえただけありがたい話だった。
冷淡な声が耳によく馴染む。それでこそ、自分をもっとも苦しめた女だと思った。
つばを飲む。喉は、なんとか動くようだった。
「けい、ふぁ」
「あっ、んえっ……?」
泣き顔など、いつまでも見ていたくはなかった。左腕で抱き寄せる。すると、ほのかに甘い香りが拡がった。
自分の好みによくあっていて、いつまでも感じていたくなってしまう。それで、腕の力をさらに強くした。
「まあ、一刀さまったら。知りませんよ? 女の嫉妬、意外とこわいものなんですから」
「まったく、月さんの仰るとおりですわね。ねえ、聞いておいでなんでしょう、貴方さま?」
「あ、あはは……。ご主人様がこうして無事だったんだし、ここは一件落着ってことで、ねっ?」
月と麗羽をなだめる桃香がなんだかかわいらしくて、つい笑いそうになる。
もどってきた、という実感がそれで湧いてくる。あの世界には、自分にとって足りないものが多すぎた。
「んっ、んぐっ、えぐっ……」
堪えようとしても、嗚咽が溢れ出してくる。そんな桂花の熱を感じながら、曹操はまぶたを再び閉じた。
残してきた忘れ物は、おまえに預ける。だから、簡単に負けてくれるなよ、天の御遣い。
焚きつけた女の顔がどうしても浮かんでくる。ついで、楽ではない役割を押し付けられた、どこかにいる一刀のことも。
しばらく、このまま眠りたいと思った。
あれだけのことがあったのだ。一日や二日は好きにさせてもらう、と曹操は心にかたく誓っている。