おもむろに立ち上がる母の顔を、蓮華は静かに見据えた。
表情にはやはり威厳があり、ちょっとげんなりしたような素振りをみせていた姉も、黙ってその言葉を待っている。
嫌な知らせではないような気がしていた。
母の眼を見ていれば、そのくらいのことはわかる。親族だけの集まりなのだ。機嫌が悪い時は、露骨にそれが前に出る。
「最近になってわかったことだが、どうやらガキができたようだ。ハハハッ。よろこべ、シャオ。待望の、弟か妹だぞ」
大口を開けて、母が笑っている。
あまりのことで、正直理解が追いつかなかった。姉と妹も同じなようで、瞬きもせず、椅子に座ったまま身体を硬直させている。
ガキ。子供。母が、今になって子を孕んだ。実感として、なにかがあるはずがない。ただ近頃、軍議の途中であっても、突然抜け出す時があったのだという。それが、妊娠の兆候だったのだ。そうなると、問題になってくるのは、誰が父親なのかだった。
「が、ガキですってぇ!? ちょっと母さま、冗談にしては質が悪いんじゃないの」
「冗談などであるものか。オレがこれまで、何人産んできたと思っている」
「もちろん、侍医には見てもらったんでしょうね? というか、このこと、宿老のみんなには」
「医者に見せて、無駄に情報が洩れたらどうする。オレの身体が、新たないのちが芽吹いたと言ってきていやがるんだ。十分じゃねえか、それで」
腹をゆっくりと撫でながら、母が言った。
二人のやり取りを眺めていて、少しだが思考が落ち着いてくる。小蓮は、ちょっと顔を赤くして、そわそわとしている。
「知らせるなら、まずは身内からだ。それが、筋ってもんだろう? 通すべきものは、通す。チッ……。あのチンポを通したのは、ちと余計だったのかもしれんがなあ」
「あの、母さま。子ができたというのは、どうにもならない事実として、もう受け入れます。それで、お相手は? 麾下の、誰かなのですか」
「ああん? 随分と、くだらねえことを訊いてくるじゃねえか、蓮華。これに関しては、貴様がもっとも理解していると思っていたのだがな」
尋ねはしたが、自分でも愚かな問いだと思った。
母と肌を合わせて、やり合えるような男。それこそ、そこで命を燃やすくらいの熱さがなければ、この人に子を宿せるはずがない。
「んなもん、曹操に決まっているではないか。今の孫家に、オレを孕ませようという気概を持つ男が、本気でいると思っていたのか?」
「ああ……。やはり、あの男なのですね。曹操の、決戦を控えた相手のやや子が、母さまの中にいるだなんて」
「いやいやいや! あり得ないでしょ、そんなの。蓮華は、どうしてそんなに納得できるのよ。曹操が相手だなんて、そんな……!」
「そ、そうだよ。いくら自由な母さまだって、曹操と赤ちゃんつくるのはおかしいってば。ねえ、ほんとは違うんでしょ、母さま?」
半分泣きそうになりながら、小蓮が母にすがっている。姉と妹との反応は、当然のものだった。子ができたという報告だけでもかなりの衝撃があるのに、しかも相手があの曹操なのである。停戦交渉の折に、なにかがあったとしか思えなかった。
あの時、室内には母と曹操が二人だけで入り、中の様子を伺うことはできなかった。だが、交渉を終えて出てきた母はやけに機嫌がよく、曹操だけが疲労を滲ませていたのが印象に残っている。
それを知っている自分だけが、妙に得心しているという状態だった。
「戦に、私情を持ち込むことはない。それだけは、ここではっきりさせておく。ガキの父親が誰だろうと、腹がデカくなっていようと、オレは剣をとって闘うだけだ」
「くううぅ……。ほんっと、むちゃくちゃな人なんだからぁ! どうなったって知らないわよ、私は」
「ハハッ。オレに大将が務まらんと判断したならば、力でその地位を奪い取ればいい。相手なら、いつでも受けて立つ」
「そんなことしている場合じゃないのよ、今は。もういい。話題を、変えましょう。戦のことでも考えていないと、頭がおかしくなりそうよ」
「なんだ、やはりまだまだひよっ子だな、雪蓮。乳がでるようになったら、昔のように吸わせてやろうか、アハハッ」
「母さまも、そのくらいに。戦の話に移る前に、休憩を入れませんか」
「まあ、いいだろう。少し、あたりを散歩してくる。付き合え、小蓮」
小蓮だけを連れて、母が部屋をあとにする。
椅子に崩れ落ちた姉。顔を見合わせ、蓮華はため息を洩らしている。
†
もどってきた母が、荊州周辺を記した絵図を上から覗いている。
右手には筆。その先が、自分の統治している汝南のあたりに移動するのを見て、蓮華は気を引き締めた。
「え? 母さま、それは」
「なんだ。なにか言いたそうな顔をしているな、蓮華」
笑顔の母が、汝南の上に朱色のバツ印をつけている。
なんとなく、意味はわかる。豫州には曹操の勢力が伸びてきていて、そこで戦をするなら前回以上に繊細な仕込みが必要になってくるのだろう。
大軍勢を相手取るなら、小勢の方が戦場を選び、地の利をもって迎え撃つべきなのである。そのために、汝南を、豫州を捨てる。母が言いたいのは、つまりはそういうことなのではないか。
「汝南での防衛は最低限にしておき、荊州内部に曹操の軍勢を引き入れる。そうなれば、こちらの戦略はずっと自在なものになる。そう仰りたいのですね、母さまは」
「おう。蓮華が言ったように、汝南は一時曹操に預けようと思う。豫州では、二、三度小競り合いをするだけでいい。向こうの反応を見て、荊州において撃滅を狙う」
曹操やその麾下であれば、領民に無体な真似をすることはない。そんな信頼があるから、母はあえて預けるという言葉を使ったのか。
母の持った筆が、またしても走る。
丸印がつけられているのは、江陵の少し上。夷道との交差点が、赤く染まっている。
それを確認してから、姉が心配そうに意見を述べた。
「平気なの、こんな戦場選びをして。荊州のど真ん中まで敵軍を引き込むということは、それだけ領地を通させるってことになるじゃない。古くからの臣下ならともかく、こっちで加えた将兵は間違いなく腹を立てるわよ。下手を打てば、離反までありえる。そのくらいのこと、わかっていない母さまだとは思っていないけれど」
母も姉も、戦に関しては自分の遥か上をいっている、という自覚がある。その二人を相手にしてもまったく遜色ないのだから、曹操の才覚は言うまでもなく突出していた。麾下の軍団の精強さにしても、同じことがいえる。
「ああ。確実に荒れるだろうよ、次の軍議は。責任感の強い黄忠などは、きっと怒りをあらわにする。その感情が劉表の旧臣にまで伝播すれば、オレでも引き止めきれなくなるかもしれんなぁ、ハハハッ」
「うわぁ……。今の母さま、すっごく愉しそう。それが必殺の策になるんだよね、シャオたちの」
「さあなあ? ただ、あの男は十中八九乗ってくるぞ。敵に策があれば、その策ごと飲み込み、喰らおうとする。そういう男なのだ、曹操というやつは」
「へえ? さすがに、曹操の性格をよくご存知だこと。だったら私たちの役目は」
「劉備の率いる東方軍団に、横槍を入れさせるな。それから、冥琳と思春に、水軍の調練の仕上げを急がせておけ。仔細は、追って伝える」
母の頭の中では、対曹操の大枠がかたまっているようだった。
おそらく、開戦の時期はそう遠くはない。曹操は曹操で、長安の朝廷から根強い敵視を受けている。そちらの増長を避ける意味でも、早期の決戦を狙ってくるに違いない、と蓮華は考えていた。
「オレからの用件は、これだけだ。全体の軍議は明日。さて、あとは……」
部屋を移動する間、母の隣を歩いた。
新たな姉弟の命が、すぐそばにある。そう思うと、なんだか不思議だった。子を宿す感覚は、自分のまだ知らないところにある。そもそも、睦むような相手がいない。姉は冥琳を伴って眠る時があるというが、それはあくまで女性同士の付き合いであり、友情による部分が大きいのではないか、というのが蓮華の抱いている感想だった。
「久しぶりの、親子水入らずだ。今夜は、ぶっ倒れるまで飲んでも構わんぞ」
「はあ? それって絶対、お腹に赤ちゃんのいる人の台詞じゃないでしょうよ」
別室に準備されていたのは、たくさんの料理と酒。
表面的には呆れ返っているようだが、姉がよろこんでいることは明白だった。