曹操が十万を楽に越える
東西の両軍団を併せれば、動員されている総数はゆうに三十万を数えることになる。かつて袁紹が、董卓に抗しようと各地の群雄を集結させて作り上げた連合軍を、曹操軍は単独で上回るようになっているのだ。
現在の孫家では、それに拮抗するだけの大軍勢を揃えることは、容易なことではなかった。すべてを投げ打ち、民衆の心を完全に無視すればできなくはない。だが、そんなやり方をして数だけ集めたところで、曹操とまともな戦になるはずがない。自分たちには、自分たちの方策がある。武門の誇り。孫家の意地。見せつけるのなら、それは今しかないのである。
防備の見回りを終え、蓮華は安城の城塔に登った。城としての規模は小さいが、東に流れる汝水のおかげで、守りに適した地になっているのだ。
あと数日で、鍛え上げられた大軍勢が、この地に到着する。汝南を死守しろ、という命令が出ているわけではない。だからこそ、余計にむずかしい戦になるのではないか、と感じている部分がある。それだけ、母は自分に期待をかけてくれているということなのか。ならば、もう腹をくくるしかないと蓮華は思うのだった。
「平気ですか、孫権殿」
「ああ、黄忠か。私は、任された務めを果たすだけだ。孫堅文台の娘として、恥ずかしい戦をするわけにはいかない。たとえ、いかなる命が出ていようとな」
自分の決意を耳にして、紫苑がたおやかに笑んでいる。
麾下の荊州兵三千を率いて、紫苑が最前線にまで出てきている。母はこの地になく、襄陽で戦を待つことを選んだ。
「なにも気になさらず、わたくしのことは存分に使い捨てください。御母上に対する態度は、軍人として許されるものではありませんでしたから、うふふ」
どちらかというと、紫苑は守勢を得意とする将だった。それが荊州の地を離れ、わざわざこんな最前線にまで出向かされている。そこには、確かな理由があったのだ。
曹操の子を孕んだ。その事実を家族に打ち明けた母は、翌日すぐに軍議に臨んだ。
潁川郡を奪られていることもあり、唯一豫州に突き出た汝南だけで闘うのは、いかにも厳しい。であれば、荊州内部にまで曹操の軍勢を引き入れ、策を用いてこれを撃滅するしかない。それが母の示した方針であり、娘である自分たちを含め、ほとんどが賛意をあらわにした。
「やり方など、ほかにいくらでもあったろうに。本気で殺し合いに発展するかと思うような気迫だったぞ、母もおまえも」
「あらまあ。それは、お褒めの言葉として受け取っておきますわ、孫権殿」
母の戦略に猛反対をした紫苑は、戦の中枢から次第に遠ざけられるようになった。同調した豪族も少なくはなく、捨て置けないと判断された者は、処断されてもいる。
そういう経緯があって、黄忠軍は汝南に行くことを命じられたのである。体裁としては更迭であり、もとの麾下の半数ほどは、同じく荊州系の将軍である焔耶が預かることになっていた。
「まあいい。おまえのような経験のある将軍が近くにいてくれると、私としては心強い。その裏に、造反の意図があろうとも、な」
「いけませんわよ、そのようなことを口走られては。敵を騙すのなら、まず味方からとも言うではありませんか。正直に申しますと、わたくしは、孫権殿にも知らせるべきではないと思っていたんです。ですが、御母上はそうされなかった。とても信頼されているのでしょうね、あなたのことを」
「むぅ……。母からいろいろと試されているようで、なんだかたまに息が詰まりそうになるよ、私は。そのうえ、敵は曹操が直に率いる精兵なのだ。毎日のように見回りをしても、眠ろうとすると不安が襲ってくる。辛いものだな、守将というのは」
穏やかな表情で、紫苑が頷く。
しばらく、二人で地平の先を見つめていた。馬蹄の音。耳を澄ますと聞こえてくるようで、蓮華はかすかに身体にふるえを感じている。
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軍馬の手綱を引き、蓮華は意識して背筋を伸ばしていた。水面に反射した朝の日差しが、少し眩しい。
川向うには、曹操の軍勢がいる。麾下の兵力は二万。面と面でぶつかればかなりの劣勢になるが、全部の敵がいきなり汝水を渡河できるわけではない。そういう意味では、守る自分たちの方が優位に動くことができるのか。
ゆっくりと馬を歩かせ、粋怜がやってくる。腹心である思春が水軍の調練のために出払っているから、この宿老の存在はありがたかった。母に付き従って幾度となく戦場を駆けているし、兵からもよく信頼されている。表向き、紫苑を相談相手にすることができないから、粋怜に話をする頻度はかなり増えていた。
「兗州を出た軍勢のすべてが、こちらに向かったわけではないようです。袁紹を洛陽の攻略に向かわせるなど、余裕を見せつけてくれますね、曹操は」
「そうではない。向こうは向こうで、きっと必死なのだ。ただ、そんな中でも、曹操には数々の戦を乗り越えてきたという自信がある。それがあるから、全体が落ち着いているように見えるのではないか、程普」
「へえ。落ち着きなら、あなたも負けていないんじゃありませんか、孫権さま? そのお若さで、これだけ堂々とされているんです。兵たちも、地に足をつけて闘うことができますよ、きっと」
「ならば、よいのだが。退き際だけは、見誤りたくはない。程普。そちらも、用心していてくれるか」
「御意。呂蒙にも、そのあたりのことを言い聞かせておきませんと」
「たのむ。私は、私の采配に集中していよう」
対岸。一団の影が見えている。立ち並んでいるのは、馴染みのない軍旗だった。
黒い軍馬に乗ったひとりが、こちらに視線を送っているのか。少し遅れて、数人の護衛が守りをかためている。
出てくることを、期待されていると思った。曹操はまだ若いが、重ねてきた戦歴は母にも比肩する。
「丸に十字。報告で聞いてはいたが、不思議な紋様を使うのだな、曹操は。どういう意味があるのだろうか、あれは」
「わかりませんが、あの男のそばにあると、なぜか威圧感のようなものがありますね。出られますか、孫権さま?」
「ああ。いきなり尻込みしているようでは、士気に悪影響を与えよう。母のようにいくかわからないが、なんとかやってみせるよ、私も」
気合を入れ、馬を駆けさす。
流れを挟んだ向こう側に、曹操がいる。意を決し、蓮華は叫んでいた。
「よく来たな、曹操。貴殿の果てなき欲望、数多の女に向けるだけでは飽き足らず、ついに孫家の領土を犯すまでに成長したか」
「はははっ。いい気迫をしているではないか、孫権。その強気な姿勢ごと、この戦にて屈服させてくれよう。愉しみにしておけ。国の安寧を、俺のような男が作り上げるのだ。おまえたち
出そうになる舌打ちを、どうにか堪えた。軽いようでいて、相手はどこまでも泰然自若なのだ。動揺を見せては、出てきた意味もなくなってしまう。
自分を見ているようでいて、曹操の眼は母に向いているのではないか。なにかそんな気がしてきて、どうすればいいという思いばかりが強く募る。
「大丈夫。少しも負けていませんよ、孫権さま。やり返してやりましょう、あの男に」
粋怜が言葉で背中を支えてくれる。
息を深く吸い直し、遠く曹操に視線を投げかけた。今だけは、自分だけを見ろ。そんな思いがあるせいか、身体が自然と熱を帯びている。
思えば、短くない付き合いになっていると思った。
酸棗の陣で出会い、戦での苛立ちをぶつけてしまったこともある。その時から、曹操は物事を冷静に捉えていたが、反対に戦場ではどこまでも激しさを見せていた。
そこから年月が経ち、自分も一軍を預かるようになっている。粋怜の気持ちを、これまで積み上げてきたものを、信じてみようと思った。
「その言葉、そっくり貴殿にお返しする。この戦に勝利し、天下に安寧をもたらすのはこの孫家だ。誰にも、邪魔などさせるものか。行くべき道はただひとつ。曹家を降し、われらこそが次代の覇者になるのだ」
飛沫が舞う。無意識に手綱を握りしめていたせいか、手にかすかな痛みがある。
自分の宣言を聞いていた曹操が、二度ほど頷いたように見えていた。ちょっとは、やり返すことができたのだろうか。火照った顔の輪郭。撫でながら、蓮華は曹操の動きを眼で追っていた。
「この論争の答えは、戦にて導き出すしかあるまい。おまえの覚悟、しかと見せてみるのだな、孫権」
それだけ言って、曹操が颯爽と引き返していく。『曹』の一字の旗。それにあの十文字旗が、続いて踵を返す。
どっと吹き出す汗。これだけの疲労を感じるのは、久しぶりのことだと思った。
「ふふっ。お疲れのご様子ですが、孫権さま」
「わかっている。曹操軍の動きから、眼を離すな。きっと、すぐにしかけてくるぞ」
気を緩めている余裕はどこにもない。
水の入った竹筒を、粋怜が差し出している。乾いた喉。一気に飲み干すと、活力が身体の底から蘇ってくるようだった。
天下泰平に向けた第一歩。それを踏み出すのは、自分なのだ。長く伸びた髪を縛り、軍団を鼓舞して回った。
今は、できることをやるしかない。そして、いつかはあの曹操の両の眼に、自分だけを映してみせようではないか。
密やかではあるが、確固たる決意がある。蓮華の中で、ひとつの目標が定まった瞬間だった。