※この作品はR-18です。

恋姫異天記~曹操伝~   作:KKS

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二十七 黄忠誘降

 麾下の弓兵に命を与え、紫苑は曹操軍の動向に気を配っていた。

 話としては何度も聞いているが、実際にその戦ぶりを眼にするのは、はじめてなのである。あの炎蓮が、武人として惚れ抜くような男。その懐に飛び込もうというのだから、緊張がないわけではなかった。

 対岸に大きな影が三つほど見えていた。

 自軍は川を盾にするような格好で布陣しているから、これを正面突破するとなると、かなりの被害を覚悟する必要がある。曹操としてはこれが初戦で、荊州への侵攻を狙っているのだから、そこまでの犠牲を払ってくるとは思えなかった。

 両翼に放った物見からの報告はまだなにもない。対岸に出現した影はゆっくりとかたちを変化させていて、空に向かって伸びている足場のようなものが、下に倒れかかっているところだった。

 

「すごく大きな絡繰ね。だけど、あれを自由にさせるわけには」

 

 真正面からの強行突破。なるほど、舟を使って兵を渡すことを考えれば、簡易的な橋を設置してしまう方が、渡河できる確率は高くなる。

 しかし、歴戦の曹操が、こんなにもわかりやすい手を打ってくるものなのだろうか。頭に過ぎる疑問。それでも、今はからくりをどうにかすることが先決だった。遠距離攻撃をしかけるのに、自分たち以上に適した部隊はない。

 麾下に火矢を準備するように命じ、紫苑は自らも弓をとった。橋の設置を邪魔させまいと、曹操軍が矢を射かけてくる。狙いはまばらで、集中を乱すことが目的の掃射なのだと紫苑には思えた。

 蓮華による采配で、盾を構えた歩兵がすかさず間に入ってくる。これならいける、と紫苑は力いっぱい弦を引いた。

 

「今よ、一斉に放ちなさい」

 

 眼のよさには、自信があった。

 矢の雨。敵軍に吸い込まれていき、不用意に身を晒していた幾人を貫いている。あとの火矢は目立つからくりに命中していて、炎が筐体に燃え移ったせいか、守備兵が慌てて消火作業にとりかかっていた。

 これならば、しばらくはどうにでもなる。攻撃に関しては姉の方に軍配が上がるのだろうが、守りをやらせれば蓮華は家中でもかなりの実力を有している。いずれ荊州まで退くことが戦略的に決まっているとはいえ、はじめから曹操に勢いをつけさせてやる必要はなかった。

 それに、曹操が攻めに苦しんでいるほど、自分の仕事はやりやすくなる。

 

「曹操軍を苛立たせてやりましょう。みんな、一斉につぎの矢を……」

 

 そこまで言って、紫苑の声が途切れた。

 左翼から、異様な雰囲気を感じたせいだった。燃え上がるような闘気。その塊が、自分たちに向かってくるような感覚があったのだ。物見からの報告は、やはりまだなにもない。馬蹄の音。視界を遮るくらいの土煙。それを切り裂いて出現したのは、血をぶちまけたような色をした、『曹』の一字の旗だった。

 

「深紅の曹旗。曹操軍最強の騎馬隊が、どうしてこんなところに」

 

 動揺している場合ではないが、それでもという気分になってくる。やはり、曹操は正面突破を狙っているのではなかったのだ。

 渡河に使う絡繰は囮で、本命は騎馬隊のほうだったのか。おそらくだが、大きく迂回して浅瀬を渡り、最大速度でここまで駆けてきたのだろう。偵察に出ていた物見は、その侵攻によって潰されている可能性もある。呂布の騎馬隊は規模こそ五百を数えるほどだが、ひとりひとりの練度が段違いに高かった。それは董卓に出仕していた頃からの伝統であり、主人を曹操に変えてからも受け継がれていることなのだ。

 軍勢の少なさなどまやかしにすぎず、呂布の騎馬隊は数千から万に匹敵する働きを楽にしてみせる。元同僚の華雄が話していたが、その威力は以前にも増して鋭くなっているのだという。

 

「とにかく、呂布を打ち払う以外に道はないわ。絡繰はいいから、騎馬を狙って。馬の足元を射れば、隊列も乱れるはずよ」

 

 ざわつく麾下を鎮め、紫苑は矢尻を騎馬隊に向けた。

 近づいてくる。あまり遠い状態で射ても、効果はかなり限定されたものになる。なんとか引き付け、攻撃を命じた。

 一直線に並んでいた騎影。矢の雨に呑まれる。そう思った瞬間、隊列が左右に迅速にわかれていく。呂布の騎馬隊というのは、これほどまでのものなのか、と紫苑は奥歯をかんだ。自在にかたちを変化させる、一匹のけもの。自分が相手をしているのは、そういう存在なのだと思うしかなかった。

 闘気の塊が向かってくる。怯まず矢を番え、ひとりを馬上から射落とそうとした。この距離なら外しはしない。息を止め、狙いを定めた。

 

「そこなる将。貴様が、かつて劉表軍にその人ありと謳われた黄忠殿だな。わが名は夏侯淵。私も、弓にはそれなりの自信がある。しばらく、腕比べに興じようぞ」

 

 矢。飛来してくる一本を落としたために、騎兵を射ることは叶わなかった。

 気炎を上げる騎馬隊の中にあって、自分を名指ししてきた相手は冷え冷えとした闘気を放っている。夏侯淵。曹操の最側近であり、弓の名手として名高い女だった。

 乗馬している状態でも、その狙いは正確無比。一軍を率いる身分である夏侯淵がなぜ、という疑問は消えないが、些細なことを気にしてはいられない。

 

「曹操の、一番の愛人というだけのことはある。さすがに、いい腕をしているわね」

「ふむ。一番と言ってもらえるのはありがたいことだが、少し訂正をしてもらえるか。わが殿は、みなを等しく妻として扱ってくださっているのでな。もっとも、子を授けてくださる順番だけは、どうにもならないのだが」

「え、ええ……? 確かに、そればかりは仕方がないものだけれど」

 

 夏侯淵が薄っすらと笑みを浮かべる。呂布軍の攻勢によって部下はかなり浮足立っていたが、被害はそれほどでもないようだった。混乱させるだけさせて、通り過ぎるつもりだとでもいうのか。

 しばらく一騎打ちのような闘いが続き、紫苑は全身に汗を滴らせていた。

 対岸にあった絡繰は、妨害が少なくなったことにより、本来の役目を取り戻しているようだった。いずれは、伸びた橋から歩兵がなだれ込んでくる。そうなれば、いかに守り上手の蓮華といえども、後退するしかなくなる。

 そうなった時、自分はどうするべきなのか。判断だけは、誤るわけにはいかなかった。

 

「聞いたぞ、黄忠殿よ。なんでも、孫堅の指針に不満をぶつけたせいで、かような前線に飛ばされてしまったそうではないか。曹操さまは、優秀な人物に眼がなくてな。貴様のような器量のいい女であれば、なおのことだ」

「それは、夏侯淵殿」

「聞き流してくれても構わない。私としては、別にどちらでも構わないのでな。考えるだけの時間は、今少しあろう。そちらの事情もあるから、殿も即答を求められているわけではない」

 

 誘われている。それも、わざわざ戦場に出向いてまで、こちらを口説きにくるとは思わなかった。

 曹操の考えは、どこにあるのか。おそろしいのは、それがわからないことだった。自ら申し出たことだが、獅子身中の虫に安全が保障されるはずなどない。それでも、炎蓮の目指す作戦を成功させるのなら、自分がやるのが一番だと考えたのだ。祭や粋怜など、宿老たちでは主君との絆が知れ渡っているせいで、潜入任務をやるには無理がある。だから元々敵対していた立場にあり、荊州に根差した人間である自分はちょうどよかった。

 年長者として、男の扱いには多少の自信がある。それに、稀代の女好きだと評される曹操なら、そこにつけ込む隙があるのではないか、とも思えてくる。

 

「また会おう、黄忠殿。いい勝負ができたこと、うれしく思う」

 

 去り際に、夏侯淵が鋭い一撃を放ってくる。それを冷静に撃ち落とし、紫苑は大きく息を吐いた。

 深紅の軍勢が別の標的に牙を剥く。徒歩(かち)の部隊で追うことなど、到底不可能な速度だった。

 流れをものにする手を、曹操は最初から打ってきていたのだ。こちらの腹にある思惑など関係ない。これが覇者を目指す男のする戦だ、という意思をぶつけられたような気分にもなってくる。

 

「曹操」

 

 呟いた声が、風にかき消されていく。

 戦の転機は、想像していた以上に早く訪れた。

 

 

 曹操の軍勢が、豫州の孫堅領に対し侵攻を開始した。同時に、袁紹率いる六万ほどが洛陽周辺に差し向けられていて、制圧は着々と進んでいるのだという。

 昇ってくる苛立ちを噛み殺し、司馬懿は朝議に出席していた。

 出席している廷臣のほとんどが、曹操に対し怒りの感情を抱いている。これなら、全体を自分の思うように動かすことはそう難しくない、と司馬懿は思った。

 袁紹に従っている諸葛亮という者の名で、書簡が長安に届けられていた。どういう大義があって、以前の都を影響下に置こうとしているのか。それをつらつらと書き連ねているが、まともに読むのが馬鹿らしくなってくるような中身だった。

 

「すべて帝のためにしていることだなんて、いったいどの口が言っているのでしょうね。孫堅との戦をはじめた今しか、好機はありません。そのためには、司馬懿殿」

「わかっている、鍾繇殿。私も、根回しはしてきたつもりだ。公儀の軍勢を立ち上げ、逆賊を誅殺する。曹操と孫堅。やつらの勝手な決戦で生き残った片方を滅せば、漢室も新たな時代を築くことができよう」

 

 漢の存続に熱心な連中は多いが、それがすなわち優秀であることに直結するわけではなかった。

 この鍾繇は、それなりに使える。あとは兵を集めるという意味で頼りになるのが董承くらいのもので、戦をするなら自分の身内や直属の部下でかためてしまうしかない、と司馬懿は考えているのだった。

 曹操がその気になったのなら、動きのゆったりとした朝廷であっても決断をするしかなくなる。従いたくなければ、脅威を退ける以外に道はなかった。

 乱世に生まれた男として、このまま終わりたくなどない、という気持ちがあるのは確かだった。曹操は奇妙な噂を流布し、覇者になるための足場がためすら開始しているのだ。

 

「みなに問いたい。このまま曹操による無体な行いを受け入れ、朝廷の威信を失墜させることをよしとしていいのか」

 

 沈黙が拡がる。曹操の息がかかっていると思わしき者の排除は、この数ヶ月でやってきたことだ。だから、あとは腹をくくるしかない状況に追い込むだけでいい。それをちょうど曹操がやってくれたのだから、利用しない手はなかった。

 

「よし。ならばこの司馬懿に、どうか漢室の未来を託していただきたい。私は勝つ。勝って、国の秩序を正しい姿に取り戻してみせよう」

 

 歓声が湧き起こる。

 冷静でいることを心がけているが、今だけはどうしても身体を流れる血が熱くなった。

 袁紹に、諸葛亮。そして、朝廷に反旗を翻した馬騰の一族。まずは曹操の走狗を叩き潰し、それから敵の喉もとに刃を突きつける。

 欲しいのは勝利だけで、ほかにはなにも必要なかった。

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