『曹』の一字の旗に囲まれ、戦場を駆ける。
軍兵が粛々と歩を進める。乱れのない行軍というのは、それだけで十分練度の高さを感じさせるのだ。全体で、三万はいるのだろうか。それがひとつの塊となって動くのだから、武器を振るわなくとも威容を示すことがてきる。
曹操が直々に采配をしているのだから、それも当たり前なのか。風に吹かれる羽織。片手で抑えこみ、紫苑は前方を駆ける黒馬の影を追う。
生粋の女狂い。傑出した軍人。そして、乱世に覇を唱えんとする時代の奸雄。投降をしてから十日ほどになるが、曹操の全貌は、まだ当分見えてきそうにない。
雪が進路を閉ざす前に、曹操は荊州に楔を打ちこむつもりでいる。蓮華の率いる守備隊を追い払ったことに満足はない。どこまでも貪欲で、旺盛な野心を備えている男だった。
同時に投降した麾下の三千と切り離されることもなく、陣内でも基本的な自由は約束されている。試されている、と紫苑は考えるほかなかった。
起こそうとすれば、いつでも反乱を起こすことはできる。あるいは、運が自分に傾いていれば、曹操の首を奪ることすら可能なのかもしれない。だからこそ、おそろしいと感じることがあるのだ。
曹操もその配下の将軍たちも、歴戦の
自分ひとりの叛乱くらい、いつでも潰せる。運任せの一撃を放ってみたところで、首と胴とを分断されるのはおのれではないのか。そういう恐怖が、時折頭を過っていく。
「黄忠殿。降将の身だからと、そんなに遠慮をされることはなかろう。殿は、貴殿ともっと話をしたいとお思いなのだ。だから、もそっとお側に」
「え、ええ。お気遣いかたじけありません、夏侯淵殿。ですが、昨日あったことを思うと、わたくしも少し……」
「はははっ。貴殿だって生娘でもあるまいし、なにを気になさることがある。それに殿のお噂は、遥々荊州にまでも届いていると思っていたのだが、違っていたのかな?」
そう言って、夏侯淵が涼やかに笑った。
同じ弓を引く武人として、度々気にかけてくれているのがこの夏侯淵だった。そもそも、投降のきっかけをつくってくれたのが縁のはじまりなのだろうか。戦となれば覚悟を決めるが、好ましい人物だと思わざるを得ないことがむしろ辛い。
荊州侵攻に伴い、曹操から意見を求められることが何度かあった。
降将は普通なら、忠義心を試すために最前線を務めさせられるのが慣例のようになっている。だが、曹操はそういった手段をとろうとはしないのだ。それどころか自分を近くに置き、戦に向かうまでの話し相手をやらせようとしている。ほんとうに、おかしな男だと思うしかなかった。
「ですがその、今朝方お会いした荀彧殿の態度が、いつも以上に冷たく感じられたのです。運が悪かったとはいえ、他人であるわたくしが情事の最中に立ち入ったのですから、やはり気に障ってしまったのではないかと……」
「ふむ。あやつの冷めた対応など、いつものことです。なんせ荀彧のやつは、殿に対しても平気で悪口を叩きつけるような女なのですからな」
「そ、そうなのでしょうか? ですが、ありがとうございます、夏侯淵殿。あなたに慰めていただいて、少しは気分が楽になった気がいたします」
孫家の軍勢にしてもそうだが、厳しい中にどこか気のおけない和やかさがある。それは居心地のよさに直結しているのだが、全軍を統率する人間の器量が色濃くあらわれる部分なのだといってよかった。
前方を行く黒馬が速度を緩めている。名を、絶影というそうだった。
「話はまとまったのか、夏侯淵。ずっと除け者にされているようで、さすがに寂しかった」
「ふふっ。少々、女同士での込み入った事情があったものですから。ほら、黄忠殿」
どこまでも自然体のまま、曹操と夏侯淵は軽口をたたきあう。それでいて、必要とあらば忠臣らしい畏まった態度をとってみせるのだから、たまに驚かされることがある。
馬を駆けさせ、曹操と並んだ。颯爽としていて、暗い部分をほとんど感じさせない男だった。ただ、太平道の叛乱以前から戦歴を積んでいるだけあって、若いだけの戦はしない。麾下の動かし方は地に足がついており、統率にも緩みがなかった。
乱世の育んだひとりの英雄。そう評することしか、紫苑にはできなかった。
「城を守る将。魏延というのは、どんな軍人だ」
「はっ。魏延は武勇に優れ、真っ直ぐな子であるが故に部下にも慕われております。ですがその直情的な性格は、守備の任務においてはかえって仇にもなりましょう。わたくしも、過去に暴走を何度か咎めたことがありますから」
城をいくつか奪られることは想定内だが、弱すぎる相手ばかり配置すれば曹操に勘づかれるおそれがある。
それで派遣されたのが焔耶なのだろうが、お世辞にも城の防衛に向いているとは言えなかった。
「で、あろうな。あの女が、犬を苦手としていたことも覚えている。はははっ。なんなら、兵ではなくそちらに城を囲ませてみるとするか。案外、おもしろい光景が見られるかもしれん」
「驚きました。曹操殿は、あの子とすでに知己となっておいでなのですね」
「野暮用があって旅をしていたのだが、そこでちょうど孫権一行と鉢合わせたことがある。なんなら、その時は真名まで呼んでいた仲だ」
次代の覇者を目指す人物というのは、こういうものなのかと紫苑は思った。
持って生まれた運が違うとでもいうべきなのか。それこそ、天命を自身の力で変えられるくらいでなければ、頂点に登りつめることは叶わないのかもしれない。
「ン……。おまえの娘、璃々といったな。離れ離れとなっていること、寂しくはないのか」
「当然、寂しくないと言えば嘘になるのだと思います。母親として、あの子に悪いことをしているという自覚はありますもの。ですが、これも荊州に根ざすみなのため。わたくしは、そのために使命を果たすだけなのです」
「孫堅が、璃々を人質としてきたらおまえはどうするつもりだ、黄忠。捨てられるのか、かわいい娘の命を」
「はっ……。その時は、覚悟を決めるしかないのだと思います。璃々はわたくしの、軍人の娘なのですから」
それまで視線を合わせてくれていた曹操が、じっと前方だけを見つめている。
月並みな答えを返したことで、自分に対する興味を失ったのかもしれない。確かに、曹操軍に身をおいて闘うのであれば、璃々のことはいずれ問題となってくる。あの子になにもなければ、それはそれで疑念のもとになることがあるのか。そうなったら、あとは炎蓮の考えを信じるしかなかった。
「その時は、軍を離れても構わないのだぞ、黄忠。俺にも、父親となってはじめてわかった気持ちがある。腹を痛めた母親となれば、尚更のことなのだろう」
「曹操殿……」
ますます、曹操のことがわからなくなった。
この優しさの裏で、これだけ多くの人員を容赦なく戦場に送ることができる。自身が率先して闘おうとするのは、ちょっと炎蓮と似ている部分でもあるのか。
人の内面を、物差しで簡単に計ることなどできやしない。改めて、紫苑はそう思わされている。
兵たちの様子がわずかに騒がしくなっている。目標とする城が、そろそろ見えてくる頃合いだった。持ち場にもどる前に夏侯淵が声をかけてくる。揺れる心を持ったまま、紫苑は軽く手を振って応えた。
「おまえはしばらく客人だ。今回の戦は、俺の近くで全体の動きを見ているといい」
「御意に。なにかあれば、わたくしがお守りいたします。あなたさまにも、お帰りを待つお子がいらっしゃるのでしょう?」
「任せる、黄忠」
短く言い放ち、曹操は乗馬を駆けさせる。
自然と生まれてきた言葉だった。女に狂い、戦に狂い、それなのに人並み以上の情を見せる男。
危険な存在。こんなにも気持ちを揺さぶられるのは、そのせいなのか。
だが、いまは眼の前のことに集中するほかなかった。
愛弓の弦を弾いてみる。指に伝わるふるえが、生まれた淀みを少しだけ緩和してくれる気がしていた。