大方の予想通り、帝という権力の基盤を手に入れた董卓は、その思うがままに力を振るい始めていた。妹の入内によって大将軍の地位を得ていた何進とは違い、董卓にはそもそもの軍事力があった。現在では近衛兵も再編され、董卓の息のかかった将軍が率いるようになっている。横暴ではあったが、誰も異を唱えることのできない状況。それを、董卓は作り上げようとしているのだろう。
様変わりしていく洛陽。
その中で、最たる出来事が数日前に起こっていた。帝の禅譲。董卓は劉宏を皇帝の座から引きずり下ろし、その後釜に妹である劉協を据えていたのだ。
劉宏は茫洋としていてあまり統治に関心がなく、次代の政権の象徴として相応しくない。それに比べて劉協には覇気があり、帝として仰ぐべきはそちらではないのか。董卓の言い分は、そんなところだった。何進時代の印象の払拭と、自身の権限強化。帝を交代させることには、董卓にとって二つの意味があったのである。
曹操は、この日も屋敷で過ごしていた。
鍛え上げてきた兵を取り上げられてしまったから、することがなくなってしまっているのだ。時には、女を抱いているだけで一日が終わることもあった。それは男にとって、ある意味理想的な暮らしといえるのかもしれない。しかし、燃えるものがどこにもない。燃えるものがなくては、いつの日か自分は自分でなくなってしまう。そうした感覚を、曹操はどこかに抱えていた。
袁紹に呼び出しがかかったのは、つい先日のことだった。董卓も、漢きっての名門である袁家を、いつまでもぞんざいに扱うのは難しいと考えたのだろう。それに、使える人材を遊ばせておくのにも、限界があるはずである。董卓は、やはり文官の確保に苦心しているようだった。そのあたりの事情が、名士らへの態度にも表れているのだろう。
順番でいえば、そろそろ自分にも声がかかる頃合いか。曹操は、動く時期を見計らっている。
「少し、出かけてくる。万一、宮中から使者が来た場合は、上手くごまかしておけ」
「どちらへ参られるのですか、主よ? もし迷惑でなければ、わたしもご一緒させていただきたいのですが。主もご存知でしょうが、いまの洛陽は何かと物騒ゆえ」
「
「むむ……。我らの身体にはほとほと飽きたと、主はそう仰せになるのですか?」
「からかうなよ、星。うんざりしているような女を、俺が夜明け近くまで抱くと思うのか?」
口元をにやつかせている趙雲。口をついて出る言葉とは違って、こちらの意図は理解しているのだろう。
だいたい、昨晩もその身体を隅々まで味わったばかりなのである。飄々としているようで、閨では尽くす女なのだ。毎回必要以上に劣情を煽られてしまうのは、そのためなのか。
「おや、確かにそれもそうですな。なるほど、腹のあたりに意識を集中させてみると、昨夜いただいた主の熱さを思い出せてしまうようで……」
趙雲が、下腹の付近を手でさすっている。切れ長の目。それが、すうっと細くなっていく。誘われているような感じがしてくるのは、気にしすぎというやつなのだろうか。
「ははっ。そんな顔を、してくれるな。どうしても、いまは構ってやる暇がないのだ」
「ふっ、さすがに冗談ですよ。しかし、女と逢い引きするとなると、主おひとりのほうがなにかと都合がよろしいか。いや、つまらぬ詮索をしてしまい、相すみませぬ」
「まったく、おまえというやつは……。まあいい、日が暮れるまでには戻るようにする。だから、俺のぶんの夕餉も忘れず用意するようにと、
「ふふっ、承知いたしました。それでは、ゆるりと楽しんできてくだされ、主よ」
「ああ、そうさせてもらうさ。ではな、星」
そう言うと、曹操は裏口から屋敷を出た。尾行を用心するために、
†
洛陽は漢の中心というだけあって、様々なものが揃う都市でもあった。
出ている店も多く、客で賑わいを見せている。だが、その賑わいが鎮まってしまう瞬間が、このところ存在するようになっていた。深紅の騎馬隊。その赤い塊が通るときだけ、民衆たちは水を打ったように静まり返る。董卓の命を受けて、洛陽内を巡回している軍団。率いるのは、呂布である。
屋敷を出た曹操は、遊女たちの集まる区画へと足を運んでいた。遊女といっても春ではなく、芸を売りにしているような女がいないわけではないが、そのほとんどが身体で銭を稼いでいる。
「さてと、もう来ているのかな」
用のある女とは、ここで落ち合うように伝えてあった。屋敷に直接呼びつけてもよかったのだが、それでは動きを董卓に怪しまれる可能性があるのだ。
一軒の店の前。なにやら、数人の男が屯している。
その中央。よく見てみると、目当ての女の顔があった。色街で逢い引きするのに合わせて、下女のような格好をしていた。刺激的な装いであるのはある意味普段通りといえなくもないが、胸元などを妙にはだけさせているのがいけなかったのだろう。
言葉遣いから予想するに、女にちょっかいをかけているのは、董卓が連れてきた涼州の男どもだろうと曹操は思った。都の女を抱くことのできる機会など、地方で生まれた男にはそう何回も訪れるものではないのである。ひとりの男としては気持ちを理解してやりたかったが、邪魔者であることには変わりがない。曹操は足を踏み出すと、輪の中に割り込んでいった。
「やっ、待たせてしまったようだな」
「なんだ兄ちゃん? この女に唾を付けたのは、俺たちが先なんだぜ。相手なら、後でしてもらうこった」
そうだ、と周りの男どもが同調する。女は、少し怯えているようだった。眼鏡の奥に見える瞳が、不安気に揺れている。こういった連中とは、基本的に関わったことがないのだろう。それが自分の身体目当てに舌舐めずりをしているのだから、よく持ちこたえたほうだと褒めてやるべきなのかもしれない。
「あっ、あのっ……」
「おまえは、黙って見ているがいい。ここは、俺に任せておくのだな」
小刻みに頭を上下させ、女は肯定の意を示している。白い肌。幾筋か、汗が流れ落ちている。
「悪いが、この女とはかねてから会う約束をしていたのだよ。貢ぎに貢いで、なんとか心を開かせたような女なのだ。この苦労、同じ男であれば、わかってもらえると思うのだが?」
「ひゃあっ……!? ん、んうっ、あんっ……! やあっ、そんな……いきなり揉んじゃだめえ♡ い、いけません、それに……ひとに見られていますからぁ♡」
女を背中から抱き寄せ、下から持ち上げるようにして胸に指を食い込ませていく。
着物の上からでもわかる、乳房の大きさと柔らかさ。その具合の良さは、想像していた以上だった。
それに、嫌がりながらも感じているのではないか、と曹操は思っていた。案外、情欲が強い方なのかもしれない。その片鱗が、覗きつつあるのか。
本来、ここまでするつもりなどなかったのだが、粗暴な男たちにわからせてやるには、過激なくらいで丁度いいのである。実際、鼻の下を伸ばしながらも、男たちはうんうんと頷いている。
「ほほう……、先客は兄ちゃんの方だったってわけかよ。だがなあ……」
一応納得はしたようだったが、男はまだ不満そうな表情をしていた。連れの男たちも同様に、脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべている。
男たちが、なにを求めているのか。そのくらいのことは、承知していた。懐をさぐり、袋を取り出す。安い女であれば、全員が遊んでも余るくらいの金が入った袋だ。わざとらしく音を鳴らしてやりながら、それを渡す。金庫番である従妹には、とても言うことのできない金の使い道だった。
「いやあ、こいつはすまねえことをしたなあ。兄ちゃんの女に手を出したのは、俺たちのほうだっていうのに、へへっ……」
「なに、気にすることではないさ。ここで出会ったのも、ひとつの縁ではないか。俺も、心にわだかまりを持ったまま、女を抱きたくはないのでな」
「うんうん。わかってるねえ、兄ちゃん。じゃあ、誤解もとけたことだし、スッキリしてこようや。お互いに、な」
金を受け取りながら、男は豪快に笑ってみせた。
もしかすると、どこかの部隊の隊長格なのかもしれない。男が歩き始めると、他の連中はぴたりとその後を追っていく。
「ううっ、お腹痛い……かも」
「平気だったか? だが、こんな欲望塗れの場所に来るのだから、もう少し露出は抑えておくべきだったな。そのお陰で、俺は得をさせてもらえたわけだが」
苦悶しながら、腹を抑えている女。かがんでいるせいで、魅惑的な谷間が見えてしまっている。
「お、思い出させないでください!? ですがその、助かりました。曹操殿が来てくださらなければ、わたしは今頃なにをされていたのか……」
「待て。その名前で呼ぶことは、控えてもらおうか。今ここにいるのは、ただの一刀だ。よいな?」
「すみません、迂闊でした! でしたら、こちらのことも
「それでいい、真直。落ち着いたのなら、場所を移すぞ。ここでは、目立ってかなわぬ」
逢い引きの約束をしていたのは、袁紹配下の田豊だった。田豊は手を引かれたまま、ずれた眼鏡の位置を直している。表情には、冷静さが戻りつつあった。
これからのことを相談しておきたいと思っていたが、さすがに袁紹本人を呼び出すことは憚られた。軍師を務める田豊は、その代理なのである。
店に入ると、曹操は大きめの部屋を借り上げた。ここまで誰にもつけられてはいないはずだが、警戒するに越したことはないだろう。
「真直。董卓は、
「董卓の話では、まずは渤海の太守に、ということでした。麗羽さまが従うことになれば、袁家と親交のある士大夫たちにも取り入りやすくなる。そういったことを、董卓は狙っているのだと思います」
「やはり太守か。同じ西園校尉だとはいえ、俺にはそこまでの地位を用意しないのであろうな、董卓は」
とにかく、袁紹がどう出るか。そのことを、董卓は気にしているのだろう。
「それで、麗羽のやつはどう動くつもりだ。俺は、近く洛陽を出ようと考えていてな。まあ、近衛軍全てを委任するとでも言われれば、その気持ちだって揺らいでしまう可能性もあるが」
袁紹を真名で呼ぶのは、久しぶりのことだった。なんとなく、胸に引っかかりのようなものを感じている。数年前なら、こんなことはなかったはずだ。
結局、洛陽を出奔して反董卓の構えを組むにしても、袁紹抜きではできることではないのだ。上手く乗せられていた袁術も、董卓による専横の様子を見受けたことで、ようやく自身の立場を悟ったらしい。袁家の二人が起つことになれば、まず間違いなく兵は集まる。
「一刀殿ならばお分かりになると思いますが、あの麗羽さまが、董卓の走狗となることを良しとするはずがありません。それに、太守に封ぜられることにも、苛立っておられましたから。自分を誘いたいのであれば、せめて数州くらいは用意するべきでしょう、と」
「ははっ。おまえたちにあたっている様子が、目に浮かぶようだ。それでは?」
「はい。一刀殿がそういうご決心をされているのであれば、我らとしても助かります。ご両人が歩調を合わせて洛陽をお出になれば、世に対する示しにもなりますので」
「では、そのように事を進めようか。麗羽が翻意しないことを、心から願っているよ」
「それに関しては、心配ご無用かと。今回の件については、麗羽さまも憤慨しておいでですから。それで一刀殿、詰めの協議はどういたしましょう? ま、また、今回のようなことがないとも限りませんので……」
「次回からは、俺の配下を遣わすことにする。間者としては、なかなかの腕利きだ」
「承知しました。ええっと、それでは……」
部屋を出よう。田豊が、視線でそう言っている。
胸の前で結ばれた両手。男というものを、知らないのだろう。用件を話し終えたことで、緊張がまた湧いてきているのかもしれない。
「ふっ、可愛らしいものだな。どうだ真直、俺の女になってみる気はないか」
「わ、わたしは、そんなつもりで来たわけでは!? んんっ、一刀殿……っ」
田豊の身体を、抱き寄せてみる。素晴らしく柔らかい上に、女らしい香りが鼻孔をくすぐってくるのだ。
色素の薄い髪。指で触れてやると、田豊は小さく身じろぎをする。
「いい女だよ、お前は。麗羽のところに帰すのが、惜しくなってくる程度にはな」
「そ、そんなことっ……!? 冗談はお止めください、一刀殿……! それにわたし、殿方に触れられること自体初めてで……。ううっ、またお腹が……」
田豊の表情。かすかに、歪んでいる。心には、袁紹への忠義があるのだと思う。苛まれているのは、そのためなのか。
苦しめるのは、本意ではないのだ。謝罪代わりに頭をひと撫でしながら、ゆっくりと身体を離してやる。手篭めにされなかったことに安心したのか、田豊は胸を撫で下ろしている。
「う……、今あったことは忘れますから! 一刀殿も、それでよろしいですね……!」
「悪いことをしたな、真直。だが、おまえのことをかわいく思う気持ちには、少しも偽りなどないのだよ。それだけは、覚えていてくれるか」
「し、知りません……! 行きましょう、一刀殿」
まくし立てるように言うと、田豊は早足に部屋を出ていってしまう。甘い残り香。曹操は、少し後ろ髪を引かれるような気分を味わっている。