麾下の軍勢を引き連れ、曹操は魏延の拠る城に接近した。
相手は籠城を決めこむつもりでいる。
最終的にどうなるにせよ、自分の足止めができればそれでいいとでも考えているのではないか。荊州進出は想定内であるにせよ、領土をとられすぎると反撃に出ることさえままならなくなる。孫堅の戦術は奥地への誘引にあると踏んではいるのだが、どこから本気の闘いを挑んでくるのかは、ぶつかってみなければわからないことだった。
魏延とも親しい黄忠をそばに置き、城兵に対する挑発を開始する。かつて劉表の重臣であった黄忠の顔は荊州兵にも広く知られていて、反応を伺うにはちょうどいい存在だった。
「おーい。せっかくここまで闘いにきてやったというのに、まったくもってつまらんやつらだなぁ、貴様らは。それともなにか? 曹操軍の精強さにおそれをなし、壁の内側でふるえあがっているせいで、誰も出撃できずにいるというのか。あはははっ。悔しかったら、萎びたモノをおっ勃たせて、城壁の上に出てきてみろ」
挑発役に選ばれた春蘭が、流暢に侮蔑の言葉を並べる。
誰が推薦したのかは知らないが、意外にもそちらの才があるようだった。城兵を憐れんでいるのか、黄忠は苦笑いを浮かべている。
城壁から矢の届く距離であるものの、負傷の心配をする意味はなかった。春蘭や秋蘭がいるうえに、護衛として恋が間近に控えているような状況なのである。この防衛網をくぐり抜けて命中させられるだけの腕の持ち主なら、なんとしてでも自軍に降したいと思うほどだ。
それに、荊州いちの弓将は、名目上すでに孫堅軍を裏切っている。
「ふっ。調子に乗ってあまりやりすぎるなよ、姉者。一応、殿がご覧になっているのだぞ」
「むむっ? これも軍務の一環ゆえ、私は全力で敵を罵っているたけなのだが。ですよね、殿?」
「そうだな。確かに、おまえはよくやってくれている。その証拠に、ほら」
城方がにわかにさざめき立っている。じっと佇んでいた軍旗が左右に揺れ、人影が壁のうえに次々にあらわれた。
魏延が回りくどい闘いを苦手としていることは理解している。だから、煽り倒していれば必ず釣れるという確信があったのだ。
見知った女の両側には弓兵が配置されていて、番えられた矢が早くもこちらを狙っている。右手を差し上げて合図をすると、方天画戟を構えた恋が素早く間に割り込んだ。
「放っておかれているのをいいことに、人さまの庭で散々悪口を言ってくれたな、曹操め」
「おお。誰かと思えば、魏延ではないか。はははっ、懐かしい顔を見られて嬉しいぞ」
「ぐぬぬ……。ワタシの名前を、そうやって馴れ馴れしく呼ぶんじゃない。はあ、ふう……。いいか、曹操。眉間を貫かれたくなければ、その裏切り者を連れてさっさと国許に帰るのだな。言っておくが、ワタシは本気だぞ」
「そう力むな。俺たちは、一度は酒を酌み交わし、真名まで許した仲ではないか。それに、この黄忠はおまえの身を案じてくれているのだぞ、魏延? 迂闊な戦をして、雑兵に首を奪られでもしたら逆に俺が申し訳なくなるくらいだ」
「はあっ、はあっ……。き、貴様ぁ……!」
遠くからでもわかる程度に、魏延の全身からは闘気が吹き出している。反対から察するに、魏延は黄忠の行動に本心から苛立ちを感じているらしい。城兵からしてみれば、寝耳に水の情報なのである。頼るべき将軍が、討つべき存在と真名を交わしたことがあるのだ。魏延がうまく取り繕えていればこの場だけはどうにかなったのかもしれないが、怒りを爆発させてしまった以上それも終わりだ。
自分があの時のことを話すだけ、魏延の立場は相対的に悪くなる。となれば、少しでも早く口を塞ごうとするはずだ。それに、ここで敵軍と勇敢に闘ってみせれば、信頼を取り戻すきっかけにもなる。
さすがに心が痛むのか、黄忠が先ほどから地面に視線を落としている。他人をだしに使った挑発は褒められたやり方ではないのだが、仕掛けてきたのは黄忠からなのだから、素知らぬ顔をして曹操は言葉を続けた。
「まあいい。かつて結んだ縁に免じて、この城の存在は一旦忘れてやることにしよう。そうだな……。気が向いたら、黄忠に文でも出して降伏を申し入れるがいい。では、俺は先を急ぐのでな。また会おう、魏延将軍」
「うっわ……。性根のねじ曲がった感じがにじみ出ているわね、アンタの。いつかほんとに絞め殺されたって、私は知らないわよ」
「ン……。俺の話芸がお気に召さなかったようだな、軍師殿には」
「手下の誰かに任せておけばいいのよ、ああいうのは。それこそ、黄忠に役立ってもらういい機会だったわけじゃない。ねえ、あなただってそう思うでしょう?」
「え、ええ。それは、まあ……?」
城に背を向けて歩き出してすぐに、桂花から愚痴をぶつけられた。当然のように半分本気で言ってきているのだから、相変わらず怖いもの知らずの筆頭軍師さまだ。こうした遠慮のひと欠片もないような側近がいてくれるから、自分はやりたいように振る舞うことができる。
権力が大きくなっていくほどに、反対からの意見はかき消されていくものだ。そうなってしまった時、人は簡単に道を踏み違える。その端的な例が、この国をはじめて統一したかの始皇帝なのではないか。
「いつでも反転できる準備をしておけ、夏侯惇。魏延は、すぐにでも仕掛けてくるぞ」
「御意です、殿。それで、あの者の処遇は如何様にいたしましょうか」
「わかっているとは思うが、捕らえられるのなら、それに越したことはない。やってくれるな、春蘭?」
「はっ。殿の御命令でしたら、なんなりと。よぉし……。手伝え、呂布。貴様と私の兵とで、あの猪女を取り囲む。城兵が向かってきたら、合図に合わせて騎兵を突撃させるのだ」
春蘭からの提案に、恋が小さく首を縦に振った。軍団でも一、二を争う精兵の相手を同時にさせられるのだから、魏延にちょっと同情してしまう。そんな状況に放り込まれてまともに部隊を動かせるのは、今となってはあの女傑くらいのものだと曹操は思う。
実際、戦場での孫堅はそれだけ際立つ存在なのである。前回の戦闘では、春蘭と華侖が合同してあたっても手玉にとられた。やり返す機会を与えたいとは思うが、こだわりすぎれば仇ともなる。そのあたりの駆け引きは、自分の得意とするところだ。
しばらく進軍を続けていると、急いだ様子の伝令が駆け寄ってきた。報告を受け取った秋蘭が耳打ちをしてくる。場面が場面であれば、別の意味で心がふるえていた可能性が高い。
「後方に騎影あり。魏延はまんまとかかったようですね、殿のばら撒かれた毒入りの餌に」
「夏侯淵の部隊は援護に回れ。本隊は円陣を組み、攻撃を受け止める。では、任せたぞ」
「よい報告をお待ちください、殿。参るぞ、呂布」
「んっ……。恋も、ぎょい、って言えばいい?」
「まったく、ふざけている場合か。ほら、さっさと武器の準備をしろ」
余裕の笑みすら浮かべた恋が、赤兎の馬腹を軽く蹴った。続いて、歩兵を率いる春蘭が麾下に囲まれて駆けていく。
遠くなっていく土煙。見つめながら、曹操は倚天の剣を抜いた。
†
縄を打たれてうなだれている女を、絶影に騎乗した曹操が見下ろしている。
結局、一刻も経たないうちに戦のかたはついた。そもそも、単独でやってきた魏延に負けるような陣容をしてはない。そこを春蘭たちは周到に締め上げ、最後は護衛を無力化して魏延を捕らえたと聞いている。さすがの手腕であり、褒美を与えられて然るべき働きをしている、と曹操は思うのだった。
「くうぅ……。貴様に辱められるのなんて、これ以上はごめんだ。だから、こ、殺せぇ……」
「俺に友人殺しをさせてくれるなよ、魏延。それに、おまえが死ねば黄忠が悲しむ」
「むぐぐ……。あの女の気持ちのことなど、ワタシは聴きたくない。んぐっ、んうぅ……。な、縄が食い込んで、うまく動きが……」
「ははっ。いい趣味をしているだろう、俺の麾下は。舌を噛んで死なれても困るから、ついでに猿轡も噛ませてやろうか?」
「い、いい。貴様の言うような真似はしないから、それだけはやめてくれ」
「残念だな、それは。おまえの悶えている様子を、もっと愉しめると思っていたのに」
ああ見えて、春蘭は結構手先が器用なのである。亀甲縛りにされた魏延の格好はなかなか魅力的であり、縄によってふくらみを強調された乳房は、さもいじってほしそうにふるえているのだ。
鞍上から飛び降り、俯く魏延の顎を指であげさせる。強気な眉が恐怖によって怯えている。自由を奪われたうえに、女狂いと評判の自分に標的とされているのだ。そう感じるのは無理もない、と曹操は心の中で笑った。
「おまえの麾下は武装を解除し、解き放った。気力の失せた者は、農作業にもどってもいい。また向かってくるのであれば、それはそれで」
「むっ……。そ、それはありがとう、曹操。んくっ……。というか、ワタシはいつまで、この辱めを受け続けねばならないんだぁ……」
哀愁の宿る魏延の声。原野に吹く風に飲まれるまで、そう時間はかからなかった。