孫堅軍より接収した城内の一室から、曹操は窓の外を眺めていた。物音。振り返ると、そこにいたのは縄で縛られた魏延だった。籠城中、あれだけ喚き散らしていた魏延が、いまでは眼すら合わせてくれようとしないのだ。そのせいか、戦に勝ったのにちょっと気の毒なことをした、という気分になってくる。
時間の経過で、余計に気分が沈んでいるのかもしれなかった。労せず魏延を引っ張ってきた恋が、不思議そうに首を横に捻っている。戦場では誰にも勝る鋭敏な感覚を備えているが、そのあたりの機微には疎い女だった。もうひとり、黄忠は押し黙ったまま、元同僚の敗北した姿を見つめている。
「ぐっ、ぬぅ……。どれだけ辱めを受けようと、ワタシが仲間を売ることはないからな。それだけは勘違いしてくれるなよ、曹操」
どうにか顔をあげ、魏延が吐き捨てるように言った。黄忠の心境は、きっと揺れ続けているのだろう。最終的にどちらに転ぶにせよ、こうした状況はいくらでも起こり得ることだ。それに、黄忠は愛娘を孫堅のところに置いてきてもいる。積もらない心労が、ないはずがなかった。
神妙にしている黄忠を見ていると、もうひとつ揺さぶりをかけてみたくなる。せっかく、魏延が整えてくれた場なのである。
「そうか。おまえがそこまで覚悟を決めているのであれば、残念だが仕方がない」
静かに言うと、曹操は抜いた剣を右手に持った。懸命に堪えているのだろうが、魏延の表情には恐怖の色が滲んでいる。身柄を拘束されているうえに、自分の気分ひとつで首を刎ねられるのがいまの魏延の立場だった。
抜き身をぶらさげた状態で、魏延に一歩近づく。やろうと思えば、いつでも首を落とせる距離だった。
恋は終始無言を貫いている。呂布奉先にとって、自分からの命令は絶対だった。刃向かえば死。それに、交わした契約以上の強い結びつきもあることも、また事実なのである。
「なんのつもりかな、これは」
魏延と自分との間に、黄忠が静かに割って入る。黄忠の動きに対し、危険を少しも感じていないのか、恋は相変わらずぼんやりと突っ立ったままである。
刃の先を黄忠に向ける。動揺はない。瞳から発せられる力が、むしろ強くなっている気がするくらいだった。
「お許しください、曹操殿。敵同士になったとはいえ、やはりこの子がかわいいのでしょうね、わたくしは」
「ぐっ、ぐぬぬぬぬっ……。なにをする、黄忠。貴様にかけられる情けなど、ワタシには」
「いいから、あなたは黙っていなさい、魏延。いま、わたくしが話しているのは、曹操殿なのです」
身体の動きを制限する縄を強引に突破しようと、魏延があがいている。
「あまり先走るなよ、黄忠。それとも、俺のことがそんなにも信じられないか」
「そ、それは……。いえ、んっ……」
黄忠の視線が、自分と魏延との間を何度か移動する。われながら、意地の悪い聞き方をしていると思う。少しも信じていないとすれば、そもそも黄忠が曹操軍の陣内にいる理由がなくなる。かといって、全力で尻尾をふるような行為は、魏延に拒絶の言葉を吐かれた手前、辛いものがあるのではないか。
自分たちのやり取りが茶番に見えたのか、壁にもたれかかる恋が小さく欠伸をした。およそ、戦場などでは見せない顔である。
「呂布。しばらく、黄忠を抑えておけ。おまえも、そろそろ見物に飽きてきたのだろう」
「……がんばって隠してたのに、ばれてた」
「そ、曹操殿。おやめください、このようなこと……っ」
「ごめんね、黄忠。曹操の命令は絶対。守らないと、恋は三食ご飯抜きになる」
自分と恋との間にある誓約は、いつからそんなかわいげのあるものに変化したのだろうか。まあそれはいい、と恋に羽交い締めにされる黄忠の姿を、曹操は一瞥した。
さすがに、焦りが表情にあらわれている。このままでは、二人ともに処断されてもおかしくはない。緊張が高まっているのは魏延にしても同じで、倚天の剣の刃先を胸に向けると、いよいよ覚悟を決めたのか無言で歯を食いしばっていた。
無造作にぶらさげた抜身を、下から瞬時に斬り上げる。狙いは寸分狂いもなかった。
「曹操殿。お待ちください、曹操殿。ここで魏延を斬れば……、えっ……?」
「はっ、はあっ、はっ……? わ、ワタシになにを、曹操」
魏延を束縛していた縄が、力なく床に舞い落ちている。極度の緊張から解放されたせいか、黄忠は恋の腕の中でぐったりと脱力しかかっていた。
「こんな時でも、曹操はおっぱいに夢中? ……恋のだったら、いつでもさわらせてあげるのに」
「お、おっぱ……? 呂布め、なにを言って……ってああっ……!?」
崩れ落ちていた魏延が、いきなり絶叫する。
倚天の剣の斬れ味がよすぎたのか、はたまた自分の腕があらぬ方向に曲がったのか。いずれにせよ、魏延の服の胸元はばっさりと裂けていて、男の視線を誘惑するような谷間が、見事なまでにあらわとなっていた。
羞恥にふるえた魏延が慌てて両腕で隠そうとするのだが、黄忠などは普段から豊満なそこを見せつけているような状態なのである。人によって、そのあたりの線引はかなり違ってくるらしい。記憶を掘り返してみると、孫家の連中は肌をさらすことにあまり抵抗がないのかもしれない、などと思えてくる。
「聞け、魏延」
場の騒乱を鎮めるかのように、曹操が穏やかに声を発した。
「近く、俺は長安の痴れ者を討つために北上する。攻めたければ、いつでも好きにしろと孫堅には伝えろ」
「んなっ……!? そ、曹操貴様、ワタシを伝令として使うために、生かしておくとでも言うのかっ」
司馬懿の撃滅は、曹家にとっての一大事なのだ。長安に寄る、自分を排除しようとする反対勢力が、一堂に会している。これはまたとない機会だった。
麗羽が洛陽を占拠したことで、相手の怒りは最高潮に達している。その後の推移も、朱里がうまく手配してくれているようだった。
「だとしたら、それがなんだ。それとも魏延。翻意して、やはり俺の肉奴隷になってみるか。意外と、愉しく毎日を過ごせるかもしれないぞ」
「……曹操のまわりには、にくどれいがたくさん。いずれはみんなそうなる、って程昱が言ってた。それって、お母さんになるってこと?」
「ン……。あいつのいい加減な話にあまり付き合うなよ、呂布。おまえだけは、いつまでも純粋なままであってほしいな」
もう必要ないと判断したのか、黄忠を放した恋が隣にきて肩にもたれかかる。
桂花、月、それに風もか。肉奴隷といえば、三人ともその範疇に入るような女性たちだった。後ずさった魏延の視線が氷のように冷たかった。それにしても、風の戯言を否定しきれないのが、ちょっと悔しい。
自分の意図を汲んで前々から待機していたのか、部屋の外から秋蘭が声をかけてくる。衛兵に引きずられていく魏延の姿は、いつになく小さかった。はじめから殺すつもりなどなかったし、そう宣言もしていた。ただし決戦ともなれば、今日のように容赦できるかはわからない。
「黄忠は俺に従え。かつての同僚相手に弓を引け、とは俺も言わない。おまえの神弓で、司馬懿を大いに慌てさせてやれ。できるな、黄忠」
「御意に。そのお心の寛大さに、不肖黄忠感服いたしました。これよりは、わたくしを紫苑と真名でお呼びください、曹操殿」
「そう畏まってくれるなよ、紫苑。俺がここにいられるのは、内外様々な導きがあってのことだ。そうでなければ、捨て子だった一刀は何者にもなれなかった。だから、俺の真名など軽いものさ」
一刀さま、と真名を呼びながら紫苑が拝礼をする。
覇者の座をたぐり寄せる一手を、曹操は打とうとしていた。