袁紹率いる西征軍は、制圧した洛陽内に駐屯していた。
かつての勢いこそ影を潜めているものの、確かに暮らしを営んでいる人々がいる。暴君のもたらした破壊のあとにも、芽吹く種は残されていたのだ。陣営の検分を進めながら、朱里はその力強さに感銘を受けていた。
あのとき、長安に移る董卓軍を見ているだけだった麗羽が、威風を纏い洛陽に還ってきた。反董卓連合とは距離を置いていた翠たち、関西の軍勢も曹操と志をともにしている。そして、荊州の片隅で暴虐に対し憤るだけだった自分も、軍人として洛陽の土を踏んでいるのだ。
時代のうねり。一度動き出したからには、決して止めることのできない流れ。それは、連綿と続く歴史が証明していることだ。
「お、いたいた。ひとり歩きは危ないから、見回りには誰かつけろって話だったろ、軍師殿? ここからは、あたしがお供するぜ」
「あっ。すみません、翠さん。私ったら、麗羽さんから言いつけられたばかりなのに。早くお役目をこなさなきゃって、つい」
駆けてきた翠が、ちょっと息を整えている。申し訳なく思い、朱里が頭を下げた。ずり落ちないように、帽子は手で支えている。
「いいって。気にすんな、そんなこと。つまり、一刀殿のために居ても立ってもいられなかったってことだろ。あたしにも、その気持はわかるよ」
「司馬懿だけは、徹底的に潰しておかないといけない。どうしてか、段々とそういう気持ちになってきているんです。長安に蔓延る旧勢力。月さんから続く、天下一新の流れを阻もうとする者たち。理由を挙げたらきりがありませんけど、うーん……?」
「裏でこそこそ動いて、最後に盤面をひっくり返そうってやつらなんだ。それに、いくら私怨があったからって、身重の風を狙うのはナシだっての」
怒りを滲ませる翠の声を聴いて、朱里は一応気持ちを納得させることにした。
生まれつき、相性の悪い相手がいてもおかしくはないのだ。逆に、曹操のように果てしなく誘引される場合もある。
「とにかく、どこに司馬懿の間者が潜んでいるかわからない状況なんだ。相手は、孫堅のように正面からの闘いを好む豪傑じゃない。軍師殿に戦場以外で怪我させちゃ、錦馬超の名が廃っちまうっての」
「間者。そうか、だったら思いきって……」
「あん? 間者がどうかしたのかよ、朱里」
翠の声が、ずっと遠い場所から鳴っているような感覚だった。
長安の軍勢は、ひとまず潼関のあたりに布陣して様子を伺っているのだろう。しかし、いつまでも留まっているわけにもいかないのが現実だった。こうして、曹操軍に洛陽をすんなり接収されたことも気持ち的には効いてくるはず。守りに徹する戦ができない司馬懿は、どこかでわかりやすい勝ちを拾いに来るのではないか。
「麗羽さんは、過去に一度洛陽をみすみす焼き払われている。それに、近しい者ならともかく、宮中で袁家令嬢の評判はあまり芳しいものではなかったはず。司馬懿にとっては、一刀さまの率いる本隊が出てくるまでが勝負の時間とすると……」
「おーい、朱里ってば。あたしの声、聴こえてるんだよなー?」
「はわっ……!? あ、あうぅ……」
軍師としての威厳を損なうような声を朱里が発した。
どうやら、無防備な腋の下に翠が両手を突っ込んでいるようなのである。機能性のある上着なのだが、こうした一手にはとにかく弱い。というか、翠の顔がやたらと近くて同性の自分でも緊張してしまう。
「それで? 護衛の声を無視してどんなことを考えていたんだ、軍師殿は」
「は、はいっ。洛陽占拠を祝して、今夜馬鹿騒ぎをしてみませんか、翠さん。もちろん、軍全体にお酒もお肉もできるだけ振る舞いましょう。復興を目指して頑張る
「おっ。いきなりどうしたっていうんだよ、朱里。そりゃあ愉しそうだけど、あたしの母様が考えそうなこと、言い出してさ」
「あん? いまなにか言ったか、馬鹿娘。それとも、聡明な軍師殿に訊ねてみるのがここは正道か」
どこから現れたのか、常磐が翠の肩を抱いて圧をかけている。こうした女性ともやり合って虜にしてしまうのだから、曹操の懐の深さはやはり尋常ではない。
「なんでも! なんでもないから、今日は愉しいことだけ考えよう、母様。朱里が、宴会したいって言ってるんだ。それならすぐにでも、麗羽殿に相談しないとだな」
「ほう、宴会か。朱里の提案ゆえ、なにか考えがあるのだろうが」
「常磐さんも、一緒にきてくださいますか。愉しいことは、大勢で考えるほうがいいに決まっていますから」
「まあ、いいだろう。あの姫が渋るとは思わないが、たまには年寄りらしく口添えでもしてみようかね」
常磐の同意も得て、朱里は一転麗羽のいる陣所を目指した。