風。ざわめいている。これから起こる騒乱の気配を、感じ取っているとでもいうのか。
窓際に置いた篝火の炎が、妖しく揺らめいた。物音。袁紹の屋敷に向かわせていた
「どうだった、袁紹のやつは」
「それが、どうにも出立を渋っておられるご様子なのです。配下の方々も説得にあたられてはいるのですが、空に浮かんだ月がどうにも不吉だ、と嫌がっておいでで。名門のご当主というのは、そんなものなのでしょうか。決めた日取りを変えれば、時を失います。こうなったら、殿お一人だけでも……」
紅波が、悔しそうに唇を噛んでいる。
田豊との会談からここまでは、すんなりと進んできたのである。それが袁紹の機嫌ひとつで覆りかけているのが、紅波には理解できないのだと思う。
「それでは意味がないのだよ。袁紹を連れて出ることができなければ、董卓への反攻は叶わぬ夢となってしまう。諸侯を呼び集めるためには、やはり名声が必要だ。それだけの力が、袁家にはあるのだからな」
「では、どうなさるおつもりなのですか」
「俺が行って、直接話をしてみるしかあるまい。董卓に気取られるのが早くはなろうが、どうせいつかは露見することだ」
部屋を出て、曹操は中庭に向かった。夏侯淵、曹純、趙雲。三人共に武器を手にしており、闘う準備はできているようだった。表情からは、闘志を感じ取ることができる。
空を見上げる。赤い月。どことなく不気味に、光を放っている。そのせいで、暗闇に包まれているはずの周囲が、おかしなくらい明るく感じられているのだ。
誰が最初に、この月には不吉が宿っていると言い始めたのだろうか。本当に災いをもたらすというのであれば、やってみるがいい、と曹操は鼻を鳴らす。天の意志。そんなものに、人は左右されるべきではない。
「もう出発されるのですか、兄さん? わたしたちは、いつでも平気です」
「屋敷は発つが、門へ向かう前に寄っていく場所ができてな。俺は、袁紹と話をつけに行く。
「なにか、問題が起こったようですね。わかりました、すぐに行きましょう、兄さん」
曹純が同意する。
ここには、もう戻ってくることはないだろう。人気のなくなった屋敷を見ながら、曹操はひとつ頷いた。
「主よ。となると、我らは門を開け放つ段取りでもしておればよいのですかな?」
「そうだな。門の周辺は固く守られているから、注意を逸してやる必要があるだろう。俺たちが出るのは、東門だ。誰かが別の方角で騒ぎを起こしてくれれば、それもやりやすくなる」
「なるほど。でしたら我らはその騒ぎとやらをいち早く門の守兵に伝え、陽動してやればよい、と」
趙雲は、すぐに理解したようだった。
取り上げられた近衛兵の中にも、まだ自分を慕ってくれている者たちがいるのだ。宮殿に近い営舎。今晩、その者たちがそこで暴れる手筈となっている。董卓軍の気を引いた後は上手く逃げるように言ってあるが、それは難しいことのはずだ。その兵たちの思いに応えるためにも、自分はなんとしてでも袁紹を連れて洛陽を出なければならなかった。
「殿が袁紹殿の屋敷に行っておられる間、
「わかっているだろうが、無茶はするなよ。ここで
「承知しておりますよ、殿。わたしとて、殿の天下を見ずして死ぬつもりなどありません」
「ならば、よい。火をかけたら、秋蘭は東へ向かえ。袁紹を引っ張り出したら、俺もすぐそちらに向かおう」
袁紹のところまで、馬を駆けさせた。馬首が、赤い闇夜を斬り裂いて進んでいく。
門前。文醜が、つまらなさそうに柱に背を預けている。大雑把であり、とても説得に向くような
こちらを見つけて、文醜が駆け寄ってくる。身につけている金色の武具が、擦れて音を鳴らしていた。
「おっ、曹操のアニキじゃねえか! なあなあ、姫がうんともすんとも言わないせいで、あたいらすっごく困ってるんだよ。アニキなら、なんとかできるだろ?」
「なんとかする以外に、道はないからな。案内をしろ、文醜」
「おおっ、さっすがアニキ。そういうやる気満々なところ、あたいは好きだぜ?」
馬から下り、文醜の後に続いて屋敷の門をくぐった。曹純は、見張りとして門前に残してある。
袁紹の姿は、すぐに見つけることができた。出立を渋りながらも、一応鎧だけはつけているようである。足音に気づいた田豊と顔良が、こちらに顔を向ける。二人とも、心底疲れ果てたというような顔をしていた。
「こうして直に会うのは久しぶりだな、袁紹。どうした、急に董卓が恐ろしくでもなったか」
「なんですって……? 名門袁家の当主であるわたくしが、あんな小娘を恐れるはずがありませんわ。ただ……」
廊下の縁に腰掛けている袁紹。組み替えた脚の隙間から、白いものが一瞬だけ顔を覗かせた。女の敏感な部分。そこを覆うものだけあって、いい素材を使用した下着を着用しているのだろうな、などと曹操は考えていた。
苛立ち。言葉の端々に、それが感じられた。袁紹は、煽られると我慢が利かなくなる性分の持ち主でもあるのだ。配下たちには難しいことかもしれないが、自分であればそこを遠慮なく突くことができる。
「董卓を恐れていないのであれば、なんだ」
「その……、今夜は月がよくありませんわ。いくら曹操さんでもご存知かとは思いますけど、古くから赤い月は不吉を呼ぶというでしょう? あの血に塗れたような色を見ているだけでも、わたくし嫌な予感がしてなりませんの」
綺麗に巻いた金髪に触れながら、袁紹が不安を吐露していく。確かに、故事には従うべき場面だってあるのだろう。先人らが経験し、伝え残してきた事柄なのである。なにも、全てを迷信だといって斬り捨てればいいわけではない。しかし、それは今ではないのだ。
「な、なんですの。んっ……、おやめなさい」
座ったままの袁紹に近づき、その頬に触れる。柔らかであり、繊細そうでもある肌。指で触れているだけでも、しっかりと手入れされていることがよく伝わってくる。
翡翠色の瞳。それが、こちらをじっと見つめている。主導権は、もう自分のものだ。曹操は、そのことを強く確信していた。
「おまえが赤い月を恐れる気持ちも、分からなくはない。けれども、俺たちはここで立ち止まるわけにはいかないはずだ。そうだろう、袁紹?」
「あっ……。一刀……さん?」
そのまま、少し顔を近づけてみる。視線は、じっと合わせたままだ。
袁紹が、不意に真名を呟いた。懐かしい気持ちが、じわりと湧いてくる。互いに、家を背負うようになるまでは、真名で呼び合うのが当たり前だったはずだ。
背負った分だけ、人はなにかを捨て去らなくてはならないのだろうか。それでは、寂しすぎるようにも思う。だが、袁家は越えるべき壁でもあるのだ。高き壁を越えた先。そこに、きっと自分の目指しているものがある。そんな気が、してならないだけなのだ。
「俺は闘うぞ、
言葉は尽くしたはずだ。
胸に、妙な高鳴りを覚えている。なにか言い繕おうとして、出た言葉ではなかったせいなのかもしれない。
自分が闘うべき相手。それは、なにも董卓だけではないのだ。
腐り果てた、この国の全て。それらを創り変えるまで、剣を置くわけにはいかないのだ。それに、感じていることがある。闘うことを止めた時。それが、自分の死ぬ時なのだろうと曹操は直感しているのだ。。
平穏な生涯。仮にではあるが、天上を越えた先ににある国とやらに辿り着くことができれば、それを享受するのも悪い話ではないのかもしれない、と思うときがある。天下を統べれば、そんな道も見えてくるのだろうか。それは、まだ少しもわからないことだった。
袁紹の頬。かすかに、熱を帯び始めている。そこから手を離し、返答を待つことにした。
考えが、決まったのだろう。閉じられていた、袁紹の目。それが、ゆっくりと開かれていく。双眸。見据えてくる。そこには、確かに覇気が宿っていた。
「ふふっ……。言ってくれますわね、曹操さん。おかげで、わたくし吹っ切れましたわ。馬を曳いてきなさい、
「はい、麗羽さま! ……うふふっ、助かりました。さすがに、麗羽さまのことをよくお分かりですね、曹操さん」
すれ違いざま、笑顔を見せながら、顔良は小声で感謝の言葉を口にした。頷きで返しながら、曹操は西の空へと視線をやっていく。釣られるようにして、田豊も同様の方向を見上げた。
夏侯淵は、今頃門へと向かっているはずだ。かつて麾下であった兵たちも、動き始めているのだと思う。あとは、自分たちがやるだけなのだ。
「なんでしょう……。月の光ではなく、あれは炎なのでしょうか。もしや、曹操殿がなにか仕掛けを?」
「まあ、そんなところだ。秋蘭が、上手くやったようだな。俺たちも、急ぎ門に向かわなくては」
「はい、そうしましょう。武器を使うことは得意ではありませんが、足手まといにはならないように気をつけますので」
「健気なことだが、お前ひとりだけなら俺でも守ってやれる自信がある。だから、そう気負う必要はないのだぞ、
「ま、また、曹操殿はそうやってわたしをからかわれるのですから……!」
田豊が、飛び上がるようにしながら驚きをみせている。
肩の力は抜けているようだから、これならば少々乱戦になっても大丈夫だろう、と曹操は思う。それに、守ってやると言ったのも、あながち冗談ではないのだ。
「む……? 行きますわよ、曹操さん。真直も、話したいことがあるのなら後になさい」
「すみません、麗羽さま。本当に、なんでもありませんからっ!」
訝しんでいる袁紹をなだめつつ、屋敷を出た。喧騒が、風にのって伝わってきている。
馬上に戻り、門まで駆けていく。すぐ横では、袁紹が馬を走らせている。かつては、こうしてよく遠駆けに興じたものだな、と曹操は過去を懐かしみながら遠方を見つめていた。
赤い夜空。それを恐れてか、出歩いている民衆はどこにもいなかった。昼間は洛陽を巡回している呂布の騎馬隊も、夜間は董卓の護衛のために宮殿に詰めている。営舎で騒ぎが起きたからには、呂布の手勢もそちらの鎮圧に駆り出されるに違いない。だから、今ならばやれるはずだった。
「こちらでしたか、殿。説得が成功したようで、なによりです」
「秋蘭か。丁度いい、後方の見張りを頼めるか。誰にも、近づかせるなよ」
途上、夏侯淵と合流することができた。ここまでは、順調なのである。あとは、門の守兵がどうなっているかだけだ。
月光に照らされて、門がぼんやりと姿を浮かび上がらせている。守兵は、まだ残っている。それでも、かなり数は減っているようだ。門の左右。篝火が振られたかと思うと、守兵が数人倒されていく。
趙雲と紅波。斬り込み、一気に開門を狙っているのだろう。
「楼上の兵を狙え、秋蘭。俺たちも続くぞ。臆するなよ、袁紹」
「もちろんですわ。斗詩、
武器を振るい、顔良と文醜は守兵を吹き飛ばしていく。曹操たちも速度を緩めず、馬を突っ込ませていった。誰にも、止められるはずなどない。高笑いを響かせる袁紹。気勢は、すっかり元に戻っているようだった。
剣を抜き、叫びを上げる。守兵は、五十人もいないはずだ。
先に斬り込んだ二人の姿を、曹操は捜した。軽やかに身を跳ねさせ、守兵を剣で制していく紅波。趙雲は、槍で兵の攻撃を打ち払いながら、門を身体で押しはじめている。
「聞け。西園軍、典軍校尉曹操である。今すぐに立ち去れば、命は奪わない。死にたい者だけ、ここに残るがいい」
「同じく、中軍校尉袁紹ですわ。わたくしたちの道を塞ごうとする輩には、少しも容赦しませんわよ!」
突き出された槍を剣で払い、兵を睨みつけた。
曹操と袁紹という名を聞いて、守兵の混乱は大きくなっていく。ここにいるのは、董卓が連れてきた涼州兵ではないのである。それだけに、西園校尉としての名が役に立った。
「見てください、兄さん。門が、開いています」
「よし、もうひと駆けするぞ。ひたすら、東に進み続けるのだ」
心が、沸き立つようだった。
今の洛陽は、自分たちを囚える檻となんら変わらないのである。門の先。そこには、求めていた自由が広がっている。
「後ろには目もくれず、駆け続けろ」
八頭の馬。次々と、門から飛び出していく。生き残った守兵たちは、その影を呆然として見送ることしかできなかった。
赤い光。原野の向こう側にある大地が、燃えているようにさえ見える。幻想的な光景に息を呑みながら、曹操は強く手綱を握りしめた。