拠って立つべき地。それを目指し、曹操たちは昼夜を問わず馬を走らせ続けていた。董卓の息のかかった追手。それが、どこまで近づいてきているのか、分からないのである。
潰れては、代えの馬に乗り換える。逃避行は、そのくらいの強行軍だった。郷里に残してきた、愛しき者たち。その姿が、時々脳裏に浮かんでは、消えていく。夏侯惇や荀彧と無事再会するためにも、いまは踏ん張り続けるしかない。曹操は、そんな思いで手綱を握っている。
故郷である、豫州。
そこまで逃げ切ることができれば、あとは態勢を整え反撃に移るだけなのだ。父祖が豫州に与えた影響というのは、決して小さいものではないはずなのである。だから、諸将がそう容易く董卓に膝を屈することはない、と曹操は踏んでいた。挙兵に付き従うかどうかはともかく、日和ってくれていれば今はそれでよかった。
「曹操さん。わたくしたちは、この辺りで」
「そうか。渤海へ行くのか、袁紹?」
分かれ道。馬を止めたのは、この日初めてのことだった。
さすがに、疲れが溜まっているのだろう。普段壮麗な印象を受ける袁紹の金髪だったが、心なし色艶が良くないように曹操には思えた。
「ええ、そうですわね。董公がくださるというのですから、貰っておかなければ損でしょう? ですけど、渤海へ行くのは、わたくしにとって所詮はじめの一歩に過ぎませんわ。冀州の兵を統合し、諸侯に決起を持ちかける。袁家の声望を持ってすれば、それも難しいことではありませんもの。あの小娘が笑っていられるのも、今のうちですわよ」
いまにみていろ、董卓。そんな風な感情が、袁紹の表情からは見て取ることができた。
繋がりからいって、冀州を統括する立場にある韓馥は、袁紹に従うのだろう。太平道による乱以降、冀州には人が増え続けていると聞いている。そこで袁紹が兵に参集を呼びかければ、まず数万は集まると見て間違いないはずだった。
そうなれば、袁紹は諸侯の中でも飛び抜けた兵力を持つことになるのだ。連合軍。それが結成された場合、袁家が中心となって動いていくのは、自明の理というものである。
「頼もしい話だな、それは。せいぜい、俺も乗り遅れないよう努めなければ」
「うふふっ、そうなさいな。さて、と……」
「ああ。近いうちにまた会おう、袁紹」
「ええ、曹操さんもお達者で。……んっ。これまでのこと、一応感謝して差し上げますわ」
袁紹が、馬腹を蹴る。
乾いた大地。馬蹄に叩かれ、土煙が舞い上がった。
「じゃあな、アニキもちゃんと
「あっ、ちょっと文ちゃん待ってよお! さようなら、曹操さん!」
「色々とお世話になりました、曹操殿! また、必ずやお会いしましょう!」
三者三様。麾下たちが、主君のあとを追っていく。
あとには、木霊するような袁紹の高笑いだけが、風にのって聞こえている。
「俺たちも、行こうか」
「はい、兄さん。そういえば、もうすぐ陳留が見えてきますね。確か、あちらには
張邈は名門の生まれであり、また袁紹とも深い親交を持つ男だった。
曹操もその縁から誼を結んでおり、信頼を置くようになっていたのである。だから、董卓の要請に応じて陳留太守となってはいるものの、それは表面的に従っているだけに過ぎない、と曹操は読んでいる。
「近くを通ってみるとしようか。張邈にはそれとなく知らせておけ、
併走している紅波に向けて、曹操が言う。陽光は、まだ強く原野を照らしていた。
†
逃亡した者を捕らえるための関所。そんなものが、各地に築かれているのだという。自分たちが、董卓を必死にさせている。そう思ってみると、少しは胸がすいた。
踏ん張りどころが、近づいている。袁紹の洛陽出奔で、時勢は大きく変化を遂げるはずだ。それ故に、董卓も躍起になっているところがあるのかもしれない。
「曹操さま。こちらの間道は、地元の者しか知りません。ですから、気を休めていただいても平気だと思います」
「助かるよ、典韋。
「えへへっ、ありがとうございます。村で暮らしているだけでも、面倒事は確かにありますから。それを避けるためなら、みんな知恵を絞りますよね」
森林。その中に密かに通された道を、曹操たちは馬を曳きながら進んでいる。
先導している者の名を、典韋という。見てくれこそ幼かったが、内面はしっかりとできている少女だった。
それでも、張邈のもとでは一兵卒として働いているらしい。ずっと村で暮らしていたようだったから、士官をしたのも最近の話なのだろう。
典韋を寄越したのは、張邈のせめてもの気持ちの表れだといえるのだろう。表立って兵を動かせば、董卓は迷わず陳留を攻め落とそうとしてくるはずである。それに、下手に目立つ兵よりも、土地勘のある典韋のような者の力を借りられるほうが、現状では遥かに役に立つ。このあたりの人選は、さすがに張邈だと曹操は思った。
時折、典韋は戟を振るって伸びた枝を斬り落としていく。自分たちに、無駄な疲労を溜めさせまいとしてくれているのだろう。
張邈からも言いつけられているのだとは思うが、心配りができるのは典韋に優しさがあってのことなのである。
「もうちょっとで、森を抜けられますよ。そこからは駆けっ放しになると思いますから、ここで休憩を挟みましょう。わたしが行って、なにか食べる物を買ってきます。曹操さま、好き嫌いはありますか?」
「そこまで気を利かせてもらうと、なんだか悪い気がしてくるな。ただまあ、まともに食える物であれば、いまは何だってありがたいが」
「いいんです。この辺で暴れまわっていた黄巾のひとたちを鎮めてくださったのも、曹操さまなんでしょう? みんな、感謝していますよ」
「ふっ。そうかもしれないが、それは俺ひとりの力ではないよ。ここにいる夏侯淵と曹純も、よく闘ってくれた。まあ、趙雲はその限りではないのだが」
どうやら、自分の関知しないところで、紡がれてきた絆があったようだ。そして、それがいま、窮地で助けとなっている。
ひとの人生とは、分からないものだ。曹操は、典韋の顔を見つめながらそんなことを考えていた。
「それは嫌味ですかな、主? 知りませんぞ、いつか後ろからぶすりと突かれても」
「そのくらいにしておけ、星。しかし、当時お主のような勇猛な将が曹軍に在籍していれば、姉者もわたしもさぞかし助かったことだろうよ。優れた将は、何ものにも代え難い。全くもって、その通りだな」
趙雲の戯言に、夏侯淵が釘を差している形だ。ただし、雰囲気はそれほど厳しいものではなかった。
青い髪色にも通じるような、涼やかな笑みを浮かべる夏侯淵。二人の緩んだ表情を見るのも、久方ぶりのことだ。
「それは、これからの働きでどうとでもなろう。幸いにして、主はわたしを深く寵愛してくださっているのでな」
「せ、
擦り合わせるようにして、身体を寄せてくる趙雲。女らしく柔らかな部分が、疲れを癒やしてくれるようだった。
気を抜きすぎているようにも思えたが、張り詰めているばかりではいずれ限界がきてしまうことがあるのかもしれない。
嫉妬の炎を、可愛らしく燃やしている曹純。その首元をあやすように撫でながら、曹操はかすかに笑っている。
「あははっ……。曹操さまは、皆さんと仲がよろしいんですね」
「引き留めてすまなかったな、典韋。お前ひとりに行かせてはやはり悪いから、
「はい、承知いたしました。紅波さん、よろしくお願いします」
密偵の紅波であれば、面が割れることもない。なにより、その土地に馴染んだ装いをするのにも長けているのだ。
それに、紅波の同行には見張りとしての側面がないわけではなかった。典韋を信じていないわけではないが、ここはまだ兗州内部なのである。身を守るためには、必要以上の警戒をするべきだった。
時間としては、どのくらいだったのだろうか。ともかく、心配は杞憂に終わったのである。少しの、肉と野菜。それを携えて、典韋は紅波と戻ってきた。しかも趙雲のためにと、僅かだったが酒まで買ってきたのだという。典韋の細やかな心遣いに、曹操は感服するしかなかった。
「うむ、これは旨いな。おぬし、どこかで料理の修行でもしていたのか?」
「いいえ、すべて独学なんですよ。ですから、褒めていただけるとすごく嬉しいんです。やっぱり、料理は食べてくれる人がいないとどうにもなりませんから」
「なるほどな。それは、実によい心がけだ。わたしも包丁を握ることがあるが、そのとき常に考えるようにしていることがあってな。なにをお出しすれば、殿は喜んでくださるのだろうか。それだけは、どんなに時間がない場合であっても、忘れないようにしているつもりだ」
「それって、素晴らしいことだと思います。わたしも、いつかそんな風に思えるようになったらいいなあ……」
夏侯淵と典韋が微笑ましい会話を交わしているのを横目に、曹操は肉を頬張っていた。
買い出しに行った先で、下ごしらえは済ませてきたらしい。串に通された、一口大の豚肉。火の加減まで調節しながら、典韋はそれを自分たちのために焼いてくれたのだ。臭みもなく、もっと欲しいと思わせるような味付けなのである。それを葉物に巻いて食うと、脂の感じ方が変わって一層旨くなる。
「野営で食うには、贅沢すぎる味なのかもしれないな。全身に、力がみなぎっていくようだ」
「むうっ……。わたしだって、兄さんのためならこのくらい……」
「ははっ。典韋に妬いている余裕があるのなら、いまは腹を満たしておくのだな。
「そ、そうですよね! すみません、兄さん。わたしったら、つい下らないことを考えてしまって……」
洛陽から駆け続けているせいで、曹純の中にも心労が蓄積してきているのかもしれない。ささくれ立った部分が見え隠れしてしまうのも、仕方がないことだと曹操は思った。
「おや、主。なにやら、お顔が獲物を狙う狼のようになっておりますぞ?」
「そんなに恐ろしい顔をしていたのか、俺は」
「ええ、そうですとも。可愛い従妹の肢体をねぶるような視線で見つめ、手つきなどこのように……」
そう言って、趙雲は右手を開いて爪を立てるような仕草をしてみせた。
逆の手では、酒の入った瓶をしっかりと掴んでいる。この程度の量では、酔うことなどありはしないのだろう。この酒は、いわば気付けだ。
「に、兄さん? もしかして、その……たまっているんですか? でしたらここで……、いえ……でもそんなっ!?」
「くっ、ふははっ! 愛されておりますな、主よ。しかし、どうしても我慢できなくなったときには、わたしを頼ってくださってもいいのですよ? まあ、主の絶倫ぶりを考慮するのであれば、全員で相手をするのが筋なのかもしれませんが」
「はう……。ここにいるみんなで、兄さんとだなんて……。はっ……!? だけど、わたしも星さんの大胆さを見習わなくっちゃ……」
趙雲の乱入によって、曹純の思考があらぬ方向へ行ってしまいそうになっている。
むっちりとした内もも。それを、曹純は何度か擦り合わせている。木の幹に座ってそうしているだけだというのに、おかしなほどの艶めかしさを感じてしまう。曹純の言ったように、それだけ自分にも溜め込んでいるものがあるというのか。趙雲は、口元を隠して怪しげに笑っている。
「曹操さま、召し上がっておられますか?」
「典韋か。ああ、お前の腕は大したものだ。旨い食事は、なによりの活力となる。これならば、一晩中でも進み続けることができるのかもしれないな」
「そんな……。でも、ありがとうございます。それと、夏侯淵さんと相談していたんですけど、もう少ししたら出発にいたしましょうか?」
「それで構わない。この後もよろしく頼むぞ、典韋」
「はい、お任せください。曹操さまたちを何事もなく豫州まで送り届けることが、わたしの役目ですから」
天真爛漫。典韋の笑顔を見ていると、そんな言葉が浮かんでくる。
それから三日経った頃には、曹操たちは豫州に入っていた。
典韋とは、縁があるような気がしている。州境で別れた後、夏侯淵が言っていたことだ。夏侯淵は、典韋を妹のように思って接していたのかもしれない。それからはなんとなく寂しそうにしていたが、譙では姉が待っているのだ。夏侯惇との再会を心待ちにしているのは、自分だけではないのである。
「殿、あれはもしや」
「秋蘭。帰って来られたのだな、俺たちは」
先に声を上げたのは、夏侯淵のほうだった。懐かしい風景。見えてきたのは、それだけではなかった。
駆け寄ってくる女が一人。正確にいえば、二人だった。しかし、片方の勢いは駆け寄ってくるというよりも、突進してきていると表現したほうが適切なのだと思う。
馬を降りて、曹操は地面を踏みしめた。
風。通り過ぎながら、身体を撫でていく。心地のいい感覚だった。幼き頃から幾度となく感じた、故郷の風なのである。
「かずとッ!」
「かずとぉおぉおぉお!!!」
二つの声。重なり合うというより、互いに反発し合っているのだろう。
特徴的な、猫耳頭巾。それが、左右にふらふらと揺れている。走るのは、余り得意ではなかったはずだ。それでも懸命に脚を動かし、荀彧はこちらに向かって駆けている。
「来てくれたのだな、
「ふんっ。だいたい、このわたしを置いていったりするのがいけないんじゃない。ひどい目に会いたくなかったら、次からはこの荀文若さまを忘れず連れて行くことね。アンタも、今回の結果でそれがよくわかったでしょう?」
荀彧の、薄くて小さな身体。それを強く抱きしめながら、曹操は言葉に耳を傾けている。
「桂花の言う通りなのかもしれないな。だが、こうしてまた会うことができた。いまは、その事実がただ嬉しいのだ」
「ううっ、ちょっとは力加減しなさいよね!? というか、なんで会う度あんたは汗臭いのよ! はっ……!? もしかして、自分のおかしな趣味をわたしに伝染させようとしているんじゃないでしょうね……!? いやっ……、この性癖歪曲男!」
荀彧の絶叫が、身体の内側にまで響き渡る。いま、どんな表情をしているのだろうか。それをうかがい知ることは、できなかった。
盛大に文句をつけながらも、荀彧は顔を胸に埋めたまま動かそうとしないのである。ならば、と頭巾を取り去り、曹操は髪を直に撫で付けてやることにした。繊細で、柔らかな髪。そこに指を何度か通している間に、荀彧はようやく顔を上げる気になったようだ。
「気持ちよかったのか、桂花?」
「んうっ……。うっさいわね、ばか一刀……」
ばつが悪そうに、荀彧は吐き捨てた。
隙だらけの唇。可憐に染まったそこを、曹操はなんの迷いもなく奪った。
「ちょっ……!? んっ、ちゅう、んむっ……。んんっ、やめっ……、あむっ……」
弱々しい抵抗。抑え込むのは、容易かった。他の者に見られているという恥ずかしさも、あるのだろう。荀彧の息遣いは、すぐに荒いものとなっていく。
近くで、夏侯惇の叫びが聞こえている。放っておくつもりなどないが、しばらくは荀彧との口づけを楽しみたい、という気持ちがあったのである。
「離せ! 離さんか、
「わかったから、少しは落ち着け。それともお主、あの凄まじい勢いの突進を、そのまま主に受けさせるつもりだったのではなかろうな?」
「むむむ……! わたしだって、加減くらいはできるに決まっておろう! うぅ……、かずとぉ……」
趙雲が、夏侯惇を宥めてくれている。
涙まじりの声。それを耳にしていると、自分がとてつもなく悪いことをしているような気分にもなってくる。
「んむ、ちゅぷ……。んぅ、かじゅと……」
着物が小さな手で引かれている。今は自分だけを見ていろ、とでも荀彧は言いたいのか。
願い通りに、ゆっくりと舌を挿し込んでいく。口内の滑りを味わってやると、満足したのか鼻から可愛らしい息が抜けていった。
離れていた期間で、荀彧の方にも気持ちの変化が訪れていたのかもしれない。大胆な舌遣い。唾液を流し込むような動きに、理性が焼かれていった。
「久しいな、姉者。もっとも、わたしでは一刀の代わりにはならないだろうが」
「おお、
「ふふっ、そうか? わたしも、姉者が元気でいてくれて嬉しく思う。これからは、また一緒だ。曹家一丸となって、殿の御為に闘おうではないか」
「おう、任せておけ。戦場であれば、なんの遠慮もいらんからな。暴れに、暴れてやるつもりだ」
気合たっぷりに、夏侯惇が言い放つ。曹純もその輪に加わって、さながら小さな決起集会のようなものとなっている。
夏侯惇の姿を頼もしげに見つめながら、曹操は荀彧の肩を抱いていた。身体に、少しの重みを感じている。愛おしい、重みだった。
「ふっ……。命ある限り、どんな負けも負けではない。そうは思わないか、桂花?」
「まったく、そんな都合のいいことばかり言って、負け癖がついたって知らないわよ? でも、一刀の言う通りなのかもしれないわね。抗い続けて、最後に勝てばそれでいいのよ。その過程でのことなんて、どうせすぐに忘れられてしまうんだもの。それが後世の歴史家の目にどう映るかだなんて、それこそ気にしても意味のないことなんだから」
軍師然とした表情を見せる荀彧。笑っているのは口だけで、目は怜悧そのものである。
腹の底から、闘志が湧いてくる。倒されても倒されても、剣を持って立ち上がればいい。そうしていつか相手を斬り伏せることができれば、自分の勝ちとなるのである。
闘う姿勢。自分は、これからそれを世に示し続けることになるのだろう。そのためには、軍としての体裁を早急に整える必要があるのだ。
郷里に戻ったのも束の間、曹操はその先を見据えて、思考を働かせ始めている。