一 陳珪の提言
なんとか形を保っている、漢という国。それが今、真っ二つに割れようとしている。
洛陽にて権勢を振るう董卓と、それ以外の者たち。袁紹を筆頭に、溝は深く大きく拡がり始めているのだ。天下の形勢。その流れは、今後刻々と変化していくことだろう。帝を掌握しているとはいえ、董卓に反発する声はまだ少なくないのである。それだけに、各州に散らばる諸侯らは、次なる動きを注視しているはずだ、と荀彧は思う。
渤海に入った袁紹は、董卓の専横を非難しながら、日々自軍の拡張を行っているのだという。事実、曹操のもとにも、そのことを知らせる書簡が何度か届いている。挙兵の時。それはもう、間近に迫っているのだ。
「
「なにか用でもあるの、一刀? そうでなければ、無駄に話しかけないでもらいたいのだけど」
どこにいても、ふらりと現れる。それが、曹操という男だった。
つい突き放すような物言いをしてしまうが、微塵も気にしていない様子である。そんな曹操を見ていると、なんとなく心がむしゃくしゃしてしまう。
実際のところ、自分はどうしたいのだろうか、と荀彧は足元に視線を落とした。理不尽な怒りをぶつけた時も、市井の娘のように甘えてみた時も、曹操はその全てを余さず受け止めてくれるのである。
器の大きさ、とでもいえばいいのだろうか。とにかく、多様なものを受け止められる強さを、曹操は持っている。他者の領域にずけずけと踏み込んでしまえるような無遠慮さも、覇者になるためには必要な部分なのかもしれない。
どうすれば、自分に素直になることができるのだろうか。考えるほどに、心が苦しくなっていく。静寂を打ち破ったのは、やはり曹操だった。
「このところ、眠りが浅くてな。少し膝を貸してもらうぞ、桂花」
「はあ……? えっ、ちょっと待ちなさいってば。ううっ、そんな勝手に……!」
「勝手にするくらいで、丁度いいのだよ。お前を相手にするときは、特にな」
半分強引に、日当たりのいい部屋まで移動させられてしまう。
ひとのことを、曹操はなんだと思っているのだろうか。
重ねられる手のひら。抵抗しても、きっと意味などないはずである。それを理解しているからこそ、こうして付き合ってやっているに過ぎないのだ。そんな風に考えなければ、荀彧はまだ自分を納得させることができなかった。
「ここに座ればいいんでしょう? ほんと、軍師に命じることじゃないわよ、こんなの」
「そう怒るな。桂花の膝ならば、よく眠れるのではないかと思ってな」
「なによ。わたしの膝は、便利な枕じゃないんだからね。はあ、するなら早くしなさいよ。それとも、一刀は掃いて捨てるほど時間を持て余してるっていうわけ?」
男に、膝を貸してやる。もちろん、初めての経験だった。
「ン……、そうだな。少し寝たら、陳珪殿のところに向かうつもりだ。そちらには、お前も来るのだろう、桂花?」
「ええ、そのつもりよ。陳珪殿に繋ぎをつけたのは、わたしだもの。というか、無駄話をしてないでさっさと寝てしまいなさいよ」
「ははっ、そうしよう。うん、思っていた以上に、いい具合だ」
膝に頭を乗せると、曹操はすぐに目を閉じてしまった。
眠りが浅いのには、いくつか理由があるのだと思う。ひとつは、連日の強行軍で
それに、もうひとつ。諸侯に送る檄文の準備に追われていることも、眠りの妨げになっているのだろう、と荀彧は思っている。
「気持ちよさそうにしちゃって、そんなに寝心地がいいのかしら」
無防備な寝顔。しばらくの間、その顔を黙って見続けていた。穏やかに呼吸をする音が、確かに耳へと届いている。
「いたずらされたって、文句はいえないわよ? なんたって、このわたしの膝を身勝手に使っているんだもの。うふふっ、どうしてやろうかしら」
曹操の、油断しきった頬。そこに一本指を走らせながら、荀彧は小さく笑い声を洩らした。
身じろぎ。肌に触れられたのが、こそばゆかったのかもしれない。手の届く範囲に、筆と墨がないのが悔やまれる。落書きをするための下地は、目と鼻の先にあるのだ。
「ふふっ、なんてね。これでも、わたしはアンタの軍師なのよ。主君に恥をかかせるような真似なんて、出来るはずがないわ」
場所を変えて、今度は髪に触れてみる。茶色がかった、少し色素の薄い髪。睡眠の邪魔をしてはいけないからと思い、ゆっくりと撫でてみている。案外、悪くない気分だった。
男の頭を撫でながら、どこか安堵している自分がいる。潁川の屋敷にいた頃には、考えられなかったことだ。これも一応、進歩といえるのか。
「もう、逃げなくたっていいじゃない。わたしにも、ちょっとは楽しませなさいよね」
寝返りをうつ曹操に、荀彧は可愛らしく文句をぶつけた。優しげな陽の光が、二人の姿を照らしている。
難しく考えるのは、やめることにした。自分は、いつまでもありのままの自分でいればいい。それに、曹操もきっと、そうなることを望んでいるはずである。曹操の頭を撫でながら、荀彧はそんなことを考えていた。
なにも、無理に全てを曝け出す必要はないのである。そういう獣じみた振る舞いは、夏侯惇あたりに任せておけばいい。
「一刀」
意味もなく、真名を呼んでみる。
さすがに、これは迂闊だったかもしれない。下手を打てば、膝枕をしている様子を、誰かに見られてしまう可能性だってあるのだ。そんな考えが急に脳内を過り、荀彧は頭を素早く左右に振って確認を行った。
「よかった、誰もいないみたいね。うん……だったら、もう少し……」
気を取り直して、再度頭に触れていく。曹操は、まだ夢の世界にいるようである。
「一刀……」
真名を呼ぶ。
曹操は、気持ちよく眠っている。だから、返事など返って来るはずがない。荀彧は、そう思い込んでいた。
「ふう……。先程から、なんだ桂花。眠ってから、もうそんなに時間が経ったのか?」
「はっ!? あ、アンタ、聞いていたの……?」
「起こせと頼んでいたのは、俺だからな。名を呼ばれれば、気づきもするさ」
頭の中。一瞬で、真っ白になっていく。身体のあちこちが熱く感じられるのは、極度の恥ずかしさが生まれているせいだろう。
こちらの気も知らずに、曹操は呑気にあくびを噛み殺している最中だった。できればもう一眠り、などと考えているのかもしれない。
「んぐっ……! お、起きたのなら、どきなさいよね! これ以上、無差別孕ませ男の側になんていたくないのよ!」
「そうなのか? どうしても嫌だというのであれば、別の者を供にしてもいいが」
曹操のことだ。十中八九、理解した上で言っているのだろう。悔しいが、油断をしていたのは自分なのである。それでも、口の軽い趙雲あたりに知られなかっただけ、傷は浅いといえるはずだ。
こんなところで、下らない失敗を犯してしまうとは。唇を噛み締めながら、荀彧は肩を震わせている。
「行くわよ、行けばいいんでしょう!? ううぅ……。そもそも、アンタが膝枕をしろだなんて言い出さなければぁ……!」
「ははっ。困ったときには、また膝を借りに来る。屋敷を出るから、お前も支度をしておくのだぞ?」
「くうぅう……。この……、ばか一刀っ! 女の敵っ!」
苦し紛れに、出た言葉だ。それをさらりと聞き流しながら、曹操は自室に向けて歩きだしていってしまう。
虚無感と、倦怠感。残っているのは、ただそれだけだった。重い身体。四肢を引きずるようにしながら、荀彧もまた、部屋に戻っていくのだった。
†
陳珪のいる相県までは、ひと駆けでいける距離にあった。馬に乗って原野を駆けていると気分が晴れるのか、曹操が楽しげにしていたのが印象的だった。
夏侯惇と曹仁。二人は、護衛としてついてきているのである。ただし、護衛といいながらも、どちらも曹操との遠出を楽しみに来ているようなものだった。いつも通りといえばそれまでだが、ちょっとした
「ねえねえ、一刀っち。一刀っちは、陳珪さんに会ったことってあるんすか?」
「ああ、何度かな。それなりに、親しいと言っていい仲でもある。父の代からの付き合いがあるから、急な話であっても歓迎してくれているのだよ」
「へえ、そうなんすねー」
間の抜けたような声で、曹仁が応答している。
陳珪のところには、募兵の相談をするために向かっているのである。兵が集まれば、譜代の将として当然曹仁にも部隊が預けられることになる。曹仁の伸び代に曹操は期待をかけているようだったが、妹である曹純と比べてみても、現状では危うい部分が多すぎると荀彧は危惧していた。
「ふふん。それはそうと、知っているか、
「おおー。春姉、さすが物知りっす」
「
「は、はいっ! 曹家の重臣として、このくらいは知っておかねばなりませんから!」
どこまで理解できているのかは怪しかったが、曹仁に語る夏侯惇はどこか誇らしげである。
沛は、漢の太祖劉邦の出身地でもあった。かつての英雄の力。それで自分たちに世間の目が向くのであれば、利用するのも悪くはない。曹操は、そのくらいにしか考えていないようだった。
洛陽で政変が起こって以来、陳珪とは数度書簡のやり取りを行っている。名門出身とはいえ、都にいる間は曹嵩の世話になったこともあるのだろう。感じてきたことが正しければ、陳珪は曹家に対して友好的な感情を抱いてくれているようだった。
とはいえ、油断のならない相手であることには違いない。
「見えてきたわね。華侖、相手に失礼がないように気をつけなさいよ」
「はいっす、桂花。あたしだって、挨拶くらいならちゃんとできるっす!」
「ならいいわ。まあ、ほどほどに期待しているわよ」
城郭の門は、開け放たれている。守兵にも、曹操が来るということが伝わっていたようだ。陳珪は、役所で仕事をしながら待っているらしい。
通された部屋。さすがに一般の文官が使っているものより、立派な造りをしている。読んでいた竹簡から顔を上げると、陳珪は曹操に対して微笑んでみせた。曹操も、軽い会釈で返している。
「あら、到着していたのね。曹操殿も、洛陽では色々と苦労をされてきたみたいだけど」
「久しぶりだな、陳珪殿。そのあたりに関する相談を、今日はしたいと思ってきたのだよ」
「うふふ、らしいわね。荀彧殿から、話は聞いているわよ」
立ち上がった陳珪が、身体をこちらに向けて話しかけてきている。
ひとつひとつの仕草に、色気が漂っているとでもいえばいいのか。馬鹿みたいに大きい胸。それが、曹操の男である部分を誘っているように、荀彧には見えて仕方がない。
「あらあら、怖い目ね。別にわたしは、曹操殿のことを取って食ったりなんてしないわよ?」
「だ、誰がそんなこと……っ! くっ……、わたしが、荀彧です。相談をお受けいただき、陳珪殿には感謝しています」
「へえ、あなたがねえ……? いいわ、座って話をしましょうか。お茶くらい、お出しするわよ?」
女としての風格。なんとなく、そういった部分で圧倒されているような気分に陥ってしまう。夏侯惇や夏侯淵でも随分と大きな乳房をぶら下げていると思っていたのに、陳珪のそれは遥かに二人のものを越えてしまっている。自分の身体を、密かに触ってみる。まるで子供ではないか、と思わず叫びを上げたくなってしまう。
陳珪には、陳登という一人娘がいた。それでいて尚これだけの美しさを保っているのだから、なにか秘訣があるに違いない。そんなことを、荀彧は考えている。
「それで、曹操殿はわたしにどうして欲しいのかしら?」
「董卓に攻勢をかけるためにも、まとまった軍団を編成しておきたくてな。手始めに、沛国内で義勇兵を募集することを考えているのだよ。そのことを、陳珪殿に目こぼししてもらいたいのだが」
「袁紹殿を中心に、さしずめ反董卓連合軍を作ろうっていうのね。ふむ、そうねえ……」
考え込む陳珪。腕組みをしているせいで、巨大な乳房が余計に強調されてしまっている。曹操の視線。隣で観察しているからよくわかってしまうのだが、豊満な身体へはっきりと向けられている。
「ぐっ……」
「ほえ? どうしたんすか、一刀っち?」
「いいや、華侖の気にすることではないさ。こちらにも、事情があってな」
思わず、曹操の腿の肉をつねりあげてしまっていた。
一瞬痛がるような素振りをみせた曹操のことを、曹仁が怪訝そうに見つめている。
今は、女の胸などに気を取られている場合ではないはずだ。そういうことを、荀彧は暗に言おうとしているのである。それは決して、嫉妬の思いからなどではなかった。
曹操を諌めた勢いに乗って、荀彧は口を開いた。
「兵を集めるにあたって、陳珪殿にご迷惑をおかけするつもりはありません。洛陽からなにか言ってきた場合には、全てこちらの責任にしていただいて結構ですので。密かにやっていたせいで気づかなかったといえば、董卓もそれ以上の追及は行わないでしょう」
「あら、わたしたちを気にかけてくれているのね。本当だったら、直接の助力をしてあげるべきなのだろうけど。曹操殿は、次代の旗頭になる。わたしだって、そう信じてはいるのよ?」
一国を預かる立場の者として、多少の迷いがあるのは仕方のないことだった。それに現状、豫州には柱と呼べるような人物がいないのである。
対する董卓は、強大な力を備えている。いまでは長く空席となっていた相国の地位に昇り、宮中でも常に剣を持ち歩いていると聞く。
「その言葉を聞けただけでも十分だ、陳珪殿。ともかく、沛国で三千ほど集めておきたいのだが、許してもらえるだろうか」
「承知したわ、曹操殿。それと、出陣する時期が決まったら、また連絡をしてもらえないかしら。兵糧くらいなら、出してあげられると思うのよ」
「それはありがたい。助かるよ、陳珪殿」
袁紹たちと合流するのであれば、恐らく陳留のあたりで、となるはずだ。最初に纏まった兵を集めておけば、その途上で五千くらいの軍勢にすることは可能だ、と荀彧も考えている。その分調練の期間は厳しくなってしまうが、やるしかないことでもあった。
「荀彧殿」
「なんでしょうか、陳珪殿」
帰り際。荀彧がひとりになったのを見計らって、陳珪が話しかけている。
「あなた、曹操殿のことが好きなんでしょう? 見たところ曹操殿は疲れているようだったし、総攻撃をかけるのならきっと今よ。こういうときにたっぷり愛してあげれば、男なんてイチコロなんだから。それこそ、全身を使って、ね?」
「な、なによそれっ……!?」
そう言うと、陳珪は立てた人差し指を舌を使って舐めあげてみせた。一度本気で大きくなった男根を見せられているから、荀彧であってもそれが何を意味しているのかわかってしまう。
噂は耳にしていたが、世の中の女たちは本当にそんなことをしているのか。想像していた以上に硬く、熱を持っていた曹操の逸物。否が応でも、その形を思い出してしまう。
「あら、荀彧殿はまだあまりそういったことを?」
「し、してないわよ。だいたい、なんでわたしがアイツとそんなことっ……!」
「ふうん。だったら、尚更喜ばれると思うんだけれど。それに、もうすぐ戦に赴くことになるんでしょう? 思い残しなんて、あったところでどうにもならない場合だってあるのだから」
「う……。確かに、それはそうなのかもしれないけど」
離れ離れになる辛さ。それは、自分でも十分に理解できているはずだった。
郷里まで、曹操は生きて帰ってきてくれるのだろうか。そんな不安を抱えて生活していたのは、つい最近のことなのである。
「うふふ、少しはやる気が湧いてきたかしら? 頑張ってね。応援しているわよ、荀彧殿」
「大きなお世話よ……! けれど、覚えておくことにするわ、陳珪殿」
「それならいいのよ。余計な話で足を止めさせて、悪かったわね」
小さく手を振る陳珪。大きすぎるお節介だと思いながら、荀彧はその前を辞した。
「どうした桂花、早く来ないか!」
「うるさいわね、春蘭。そんな大きな声で呼ばれなくたって、わかっているわよ」
我慢できなくなったのか、夏侯惇はわざわざ呼び付けに来たらしい。戦場であっても、よく通りそうな声。それを間近くで聞かされているせいで、耳の内側がびりびりと揺れている。
陳珪による助言。馬に乗っている間も、荀彧はそのことについて考え続けていた。