郷里を発ち、曹操は軍勢とともに西進していた。
原野を駆ける歩兵。整然と隊列を組み、進んでいく。与えた時間こそ少なかったが、夏侯惇たちは着実に調練を実行してみせたのだ。騎馬兵の数が心もとなくはあるが、それはおいおい増やしていけばいいだろう。とにかく、今いる三千を中核として、軍勢を大きくしていくことが肝要なのである。
こちらは、いつでも洛陽に攻め入ることができる。実際には、道中に関があるためすぐにできることではないが、袁紹はそれで圧力をかけようというのだろう。ただし、挙兵に応じた全員がそこに集うかどうかはわからなかった。袁紹が実権を握ることを、袁術などは特に嫌うはずである。領地の位置から考えて、袁術が独自に陣営を構築することになれば、孫堅もそちらに参加するのだろう。
酸棗までの途上。時折進軍を止めては、曹操は義勇兵の募集にあたっていた。張邈のところで兵卒をしている典韋のように、埋もれている人材がまだ残っている可能性があるのである。
優れた者を、掬い取れるかどうか。天運。人の見極めも大事ではあるが、巡り合うためにはまず運が必要になってくるのかもしれないと曹操は思っていた。
曹操軍の陣営。数千人がひと所に駐屯しているのだから、それなりの賑わいにだってなる。商売の匂い。人が集まれば、自然と物が動くものである。鼻の利く者であれば、一儲けしようと考えるのも当たり前のことだった。
募兵に応じてきた者と、商人たち。それらが入り混じって、陣内には活気が生まれている。その流れを、曹操はあえて止めようとは思わなかった。ただし、目に余る行為に対しては、厳しく処罰に当たるつもりだった。軍規の乱れ。それは、曹操が最も嫌っていることのひとつでもあるのだ。
兗州で麾下となった新参兵の中には、そうした履き違えをする者がでてくる可能性がある。目についた者を、今のうちに何人か斬っておくべきか。曹操も、そう考えるようになっていたところだった。
そんな時。ちょうど数日前に、羽目を外して騒ぎすぎた数人の兵卒らがいた。報告を受けた夏侯惇はすぐさまその者らを呼び出し、首を刎ねてしまっている。軍勢の引き締め方。そういうものを、夏侯惇はよく理解しているのだと思う。拡がりかけていた浮足立ったような雰囲気は、それですっかり消え去ってしまったのだ。
「これは笠か。どれ、少し見せてもらおうか」
「はい、ぜひ見ていってください。丈夫にできていますから、きっと満足していただけると思います」
軍中の見回りを兼ねて、曹操はひとり出歩いていた。具足は筒袖鎧だけであり、見た目としてはかなり簡素である。まるで雑兵と変わらない格好だと荀彧は笑っていたが、曹操からしてみればそう見えている方が都合はよかった。
行商人たちの中に、董卓軍の密偵が紛れ込んでいることがありえなくもない。その辺りのことまで探ろうと考えての、行動なのである。
「なるほど、確かにいい作りをしているようだな。少し聞くが、矢筒などはあるのか?」
「ええ、こちらに。自分の友人は、こうしたもの作りが得意なんです。けれど、時折とんでもないことを仕出かすのが玉に瑕で。この前も、籠を作る絡繰を作るなどと言い出してそれはもう……」
普段はもっと、日常で使うような品を売り歩いているのかもしれない。それに、絡繰と呼ばれるものを曹操は見たことがなかった。それ故に、俄然興味が湧いてくる。
「ははっ、そうなのか? ン……、重さもいい具合で、使いやすそうだ。これを、ひとつ貰うとしよう」
行商の少女が、はにかんで見せている。
つい触れてみたくなるような、透き通った銀髪。それに負けないくらい肌も美しかったが、所々に傷がついてしまっている。しかし、その姿はどこか気高くもある。
闘いを生き抜いてきた証。身体に刻まれた傷は、勇士たる証左でもあるはずだ。もう少し、女と話をしてみたい。曹操は、そのように思い始めていた。
「ありがとうございます。貴方も、こちらの軍で働かれているのですよね?」
「まあ、そんなところだな。こんな時勢であるから、闘える者が闘うしかあるまい。ところで、俺の名は一刀という。そちらは?」
矢筒の代金を支払ながら、曹操が言った。出来がいいといったのは、世辞ではなく本当のことである。夏侯淵が予備になるような物を探していたから、これを渡してやるつもりでいるのだ。
「一刀さん、ですか。でしたら、自分のことは楽進と呼んでください。……ひと口に闘いといっても、色々とあるのではないでしょうか。例えば、村を守るためであれば、自分だって臆せず闘います。ですが、率先して戦を引き起こすのはどうなのでしょうか。戦が起これば、それだけ世は乱れますよね」
「楽進の言うことにも、一理あるな。それでも、身を潜めているだけでは変わらないことがある。何かを為すだけの力。それを持つ者であれば、いつかは決心するべき時が来るはずだ。その遅れは、国全体にとっての損失にしかならない。俺は、そう考えているのだよ」
「決心……。決心、ですか」
楽進と名乗った少女の目を見つめながら、曹操は言い切った。
少なくとも、楽進は気概を持ち合わせている。世の中の有り様に関しても、間違ったことは述べていなかった。それは、これまでの闘いから学んだことなのだろう。戦乱が起これば、暮らしが乱れる。そこでまず痛手を受けるのは、楽進たちのような民衆なのである。
それでも、今は起ち上がるべき時だと曹操は思う。腐ったものは、いずれ打ち捨てなければならないのだ。それができなかった時、この国はただ滅びの一途を辿るだけなのである。継承。それなくして、何かが続いていくことなどありはしない。
小さく拳を握る楽進。いくらか、心に響いたものがあったのかもしれない。村よりも、さらに大きなものを背負う覚悟。楽進に足りないのは、多分その一点だけなのだろう。
「あれれー?
「うししっ。わからんのかあ、
「おおっ、アレなの? ということは、お兄さんは凪ちゃんをー?」
二人の少女。やって来るなり、こちらを見ながら楽しげに会話を始めている。下衆の勘ぐり。聞こえた限り、会話の内容はそういった類のものか。
恐らくどちらかが、楽進の話に出てきた友人なのだろう。そう思いながら、曹操は二人を観察している。
はち切れんばかりの、大きな胸。そちらに目が奪われそうになるが、片方の少女の指先が黒くなっているのを曹操は見逃さなかった。それは、間違いなく作業による汚れである。爪の先まで綺麗に整えているもうひとりの手とは、対照的ですらあった。
「
「一刀さん? へえ……。凪ちゃん、ただのお客さんともうそこまで仲良くなったんだ?」
「ふふふ……。これは、ますます怪しいんとちゃうかあ? 兄さん、で……そこんとこどうなん? 凪はウチらの大事な親友や。それを誑かすっていうなら……」
からかいながらも、二人は楽進のことを心配しているようだ。さり気なく、遮るようにして身体を間に入れてきている。構えから察するに、どちらも武の心得がそれなりにあるのだろう。
警戒してしまうのも当然だな、と曹操は小さく笑った。楽進は、自分たち諸侯が闘うことを良しとしていないのである。物が売れるという理由がなければ、陣営になど来たくもなかったはずだ。
「ほう。誑かすなら……、なんだというのだ? 貴様ら、行商といえど覚悟はできているのであろうな。殿に手を出すというのであれば、わたしは一切の容赦をせんぞ」
「ひ、ひいっ……!? アンタこそ、いきなり出てきてなんやねん。それに、兄さんのこと殿って……」
抜身の大剣。それが、楽進の友人に突きつけられている。肩を怒らせている夏侯惇。近くにはいなかったはずだが、いつの間にか駆けつけてきていたらしい。
恐縮する楽進たち。夏侯惇の鬼気迫る表情からは、殺気が四方に溢れ出てしまっている。
「貴様ら、このお方をどなたと心得る。曹操さまは沛国曹家ご当主にして、我らが軍の御大将にあらせられるのだぞ。わかったら、控えぬか!」
「ど、どうしよう、真桜ちゃん……? 沙和たち、もしかしなくても、大変なひとに喧嘩を売ってしまったみたいなの……」
「せやかて、今更どうにもならんやないかあ……。なぁ、凪、どうにかならんやろか……?」
地鳴りのような大声。かなり大げさな紹介のされ方ではあるが、夏侯惇は間違ったことは言っていない。楽進の友人たちは、完全に怯えきってしまっていた。
今のような芝居がかった口調を、夏侯惇はどこで覚えてきたのだろうか。誰かに会う度、これをやられたのでは敵わないな。そんな風に思いながら、曹操は夏侯惇の肩に手を置いた。
「よせ、
「むむっ、そうなのですか? しかし、
「春蘭、話がこじれてしまいそうなことを言うな。口説いたといっても、それは個人としてのことではない」
殺気を収めると、夏侯惇はいじけたように剣先で地面をいじくり始めた。
そのあまりの変貌ぶりに、楽進たちはすっかり呆気に取られてしまっている。当てられた殺気が強烈だっただけに、開いた口が塞がらないのも無理はなかった。
「な、なんやこの姉さん。落差がすごすぎて、ちょっとおもろいかも……」
「ああ……? なんだ、まだわたしに何か用があるとでもいうのか……?」
「い、いやいやいや、なんでもないですっ!?」
「くっ……。真桜、だからといってわたしに抱きつくな!」
夏侯惇と目があったせいか、楽進の友人は飛び上がって距離を取った。大きく縦に揺れる乳房。表に出すぎているくらいの喜怒哀楽も、見ていて飽きなかった。
しかし、立ち直りだけは早いようである。それだけ、肝が据わっているのだろう。それは、三人全てに言えることでもある。
「はあ……、やっと見つけましたわ。遊んでいないで陣屋にお戻りくださいまし、お兄さま。酸棗からの、使者が来ておりますわよ」
「酸棗からの? わかった、すぐに戻ろう。邪魔をしたな、三人とも。すぐに発つことになるかもしれないが、それまで商いは続けてくれていい」
次にやって来たのは、曹洪だった。用件を伝えながらも、その目は楽進のもうひとりの友人へと向いている。
年頃の少女らしい、着飾った格好。陣中ではあまり華美な服装ができないから、羨ましく感じているのかもしれない。それに、曹家の同年代の従姉妹たちは、曹洪ほど流行に敏感ではないのである。いつだったか、語り合いながら心ゆくまで街に出掛けられる友人が欲しいと、嘆いているのを曹操も聞いたことがあった。
「楽進」
「は、はいっ!」
「そう畏まらなくてもいい。今の俺は、矢筒を買いに来たただの一刀に過ぎないのだよ」
曹洪が、呆れたように首を振っている。真名を軽々しく預けていることが、いつまで経っても信じられないのだろう。
「先程はああ言ったが、お前の心はお前自身のものだ。だから、遊ばせておくのも自分の勝手だといえよう。されども、心を遊ばせている間に時は簡単に過ぎていく。その間にできることがあるというのも、忘れてくれるなよ」
「一刀さん……。はいっ!」
楽進にそう言い残して、曹操は陣屋へと
あとは、楽進に任せてみるしかない。ただし、切っ掛けは確かに与えたはずである。見込み違い。あれで火がつかなかったのであれば、自分の人を見る目が曇っていたに過ぎないのだ。
陣屋の前で待っていたのは、田豊だった。五十騎ほどを伴って、ここまで駆けてきたのだという。袁紹から、酸棗に向かう諸侯の出迎えを命じられでもしたのかもしれない。
「あっ。お待ちしておりました、曹操殿」
「よく来たな、田豊。馬に乗ってばかりで疲れただろう、ここでは気楽にしていけばいい」
「お気遣い、ありがとうございます」
仮設した陣屋だから、造りは本当に簡単なものである。そこに田豊を招き入れると、曹操は胡床に座るようにいった。同席しているのは、荀彧だけである。
「田豊といったかしら。その名は、聞いたことがあるわ。袁紹殿のもとで、軍師をしているそうね」
「はい、仰る通りです。その関係もあって、曹操殿には以前からよくしていただいています。曹操殿。この方は、曹操殿の?」
「ああ、潁川の荀彧だ。あの折は、袁紹に世話になった」
「なるほど、あなたが荀彧殿でしたか。これから、よろしくお願いいたします」
拱手をしながら、礼辞を口にする田豊。
なにか気に入らないことがあったのか、荀彧は機嫌がよくないようである。
「なによ、仲良さそうにして。まさかアンタ、他人の麾下にまで手を出そうっていうんじゃないでしょうね」
「そう頭に血を上らせるなよ、
「そ、そうです! なにも……。うん、きっとなにもありません」
「ふうん。まっ、わたしは何だっていいんだけどね。話の腰を折って悪かったわ。続けてくれるかしら、田豊」
口ではそう言いながらも、荀彧はまだどこか訝しんでいるようである。そのせいで、態度が普段よりも不遜なものとなっているのだろう。
荀彧の個性。それに少々面食らいながらも、田豊は咳払いをすると身体をまたこちらに向けて話しだした。
「連合軍に参加するにあたって、
「なっ……、奮武将軍ですって? 一体なんの権限があって、そんなことを」
荀彧の眉が、ぴくりと一度震えた。
現状、朝廷の権限を握っているのは董卓なのである。であれば、これはどういうことなのか。袁紹が官職の任命を行うなど、道理に適ったことではないはずなのである。そのことに、荀彧は不信感を抱いているのだろう。
「ですから、あくまで行なのです。麗羽さまは共闘するにあたり、是非とも曹操殿にそれなりの地位をと……」
「はあ……? 田豊、言葉の意味がわかって言っているんでしょうね。一刀、アンタだってこんなのおかしいと思うでしょう?」
確かに、袁術や韓馥を始めとする諸侯は、太守や将軍といった肩書きを所持している。そして肩書きは、軍勢の大きさにも繋がるのである。自分は、まだそのどちらも得られていないままだった。
行。職名にそれがつけば、すなわち臨時に任命されたものだということになる。朝廷の実権を董卓に握られてしまっているから、たとえ袁紹であっても、紛い物の官職を与えることしかできないのだ。
「はははっ。ひどく下に見られたものだな、俺も。田豊、もう天下を統べた気でいるのか、袁紹は?」
「ううっ……。決して、そのようなことは……」
「さて、どうだろうな……。任命のことだが、ひとまず受けてやる、と袁紹には伝えておくがいい。ただし、これは使者として来たお前の顔を立ててのことだ。俺は、袁家の門前に馬を繋ぐつもりなどはない。それだけは、ここではっきりとさせておく」
立て続けに言い放ち、曹操は陣屋を出た。怒りをぶつけるべき相手は、田豊ではないのだ。
自分のことであるかのように、荀彧は苛立ちを見せている。その姿を見ながら陣営を歩いていると、段々と心が落ち着いていく。一軍の将として、自分にはするべきことがあるはずなのである。
「余人が曹孟徳に従うことはあっても、その逆なんて許さない。さっきのアンタ、そんな顔をしていたわよ」
「ふっ、滅多なことを言うなよ。だが、そういった気持ちで臨んでいかなければな。これから先は、特にだ」
口角を上げる荀彧。反発心の宿った瞳が、強く輝きを放っている。
「それにしても、図に乗りすぎじゃないの、袁紹は。戦闘に入る前からこうだと、さすがに心配になってくるわね」
「どこまでいってもそういう女なのだろうな、あいつは。まあ、いいさ。どの道、この連合軍で董卓を討つのはかなり難しいことだろう。俺とて、袁紹に勝利をくれてやるために、闘うつもりはしていないのだからな」
口を尖らせながら、荀彧は袁紹のことを呼び捨てにした。
普段から、こうして敬称を付けずに呼んでいるのである。そこには、少しも悪びれる様子はない。田豊の前では自重していただけ、よく我慢した方だといえるのだろう。
「董卓の力を削ぐことができれば、御の字ってところかしら。闘う中で諸侯の実力も見えてくるだろうし、こっちは名声を拡めることだってできる」
「そうだな。袁紹に野心があるように、俺たちにも目的がある。他の者たちも、そんなものだろう」
乱世。それが、もうすぐそこまで来ているのである。
誰が死に、誰が生き残るのか。董卓との闘いで、死ぬ者もいるだろう。自分にも、その可能性がないわけではなかった。
「そろそろ、戻ってやるとするか。放っておいたままでは、田豊がかわいそうだ」
「なに笑ってんのよ、一刀。田豊は何もないって言っていたけれど、怪しいものね……」
「ふっ、それはきっとお前の気にしすぎだ、桂花」
ぶつかる肩。荀彧には、はぐらかしているように感じられたのかもしれない。
その腰を抱き、曹操は陣屋に向けて歩いていく。耳に浴びせられる罵声。それが、今はかえって心地いいくらいだった。