街道を行く曹操の軍。酸棗の陣は、もう目と鼻の先である。『袁』の旗。陣営の外郭に、無数に掲げられている。
曹操の呼びかけに応じて、二千を少し越えるほどの兵が新たに加わっていた。元々の兵力に加えると、約五千。日をかけて調練をする余裕もないから、今はこの戦力でなんとかするしかなかった。
周囲を固める旗本。曹操が直に指揮を行う兵なだけあって、統率は取れている。そこに、新たな顔ぶれが参加しているのだ。楽進。あれから、すぐに後を追って来たのである。
楽進に釣られて、友人である李典と于禁もなし崩し的に仕官を決めている。一悶着あったせいか旗本にすることを夏侯惇は渋ったが、どうせなら手元に置いておきたいと曹操は意見を押し通したのである。
「曹操さま」
「一刀でいい、といっただろう。なにか見えたのか、
「はっ。申し訳ありません、一刀さま。その、ご質問に関してなのですが……」
麾下にして以来、楽進のことは真名で呼んでいる。あのとき感じたように、使い所のありそうな少女だった。生真面目な部分が勝ちすぎている気もするが、場面によってはそれが活きてくるはずである。機会を見て、兵を率いさせてみたい。曹操の考えは、そこまで及んでいるのである。
楽進の、無垢なほどに透き通った瞳。それが、なんとなく困惑を示しているように見えている。前方。兵の足が、止まっているようだった。なにか、問題が起きているのだろう。楽進の困惑は、きっとそこから来ているはずである。
「どうした。聞いてやるから、言ってみるがいい」
「はい。その、街道に人が立っているのです。それも、たったお一人で……」
「人だと? その一人のせいで、兵たちは進めずにいるというのか」
「一度、直接ご覧になっていただけませんか。先方は、こちらの将と話がしたいと言っているそうなのです。一刀さまのことを、存じられているのではないでしょうか」
「ン……、俺を知っている者か。わかった、供をしろ、凪」
頷き、曹操は馬を進めていく。楽進は、
軍勢の前に単身立ちはだかった上に、こちらを呼びつけてくる者。規格外な胆力の持ち主でなければ、ただの愚か者といえよう。
記憶を巡らせる曹操。その中で、ほとんど確信に近い感覚が生じている。思い当たる人物。楽進の話を聞いて、それがいないわけではなかったのだ。
「おう、ようやく来やがったな。久しぶりじゃねえか、曹操」
「ははっ、やはりそうか。こんな無茶をされるのは孫堅殿ではないかと、密かに思っていたところなのだよ」
軍勢の進路に立っていたのは、孫堅だった。周囲には、手勢の姿はないようである。
気配こそしないが、どこかに腕利きの者が潜んでいるはずである。猛獣の如き強さを備えていても、警戒心はなくしていない。豪放磊落。表面的に見ればその通りだが、油断のならない一面を持っているのが孫堅という人物なのだ。
「麾下はどうされたのだ、孫堅殿。主君がひとり出歩いていると知れば、配下の方々は気が気ではあるまい」
「フッ、いいじゃねえか。だいたい、出ていくのを見つけられねえほうが悪いんだよ。それに、身一つでほっつき歩くのはお互いさまってもんだろう、曹操?」
「さて……、な」
揚州を旅した折のことを、孫堅は言っているのだろう。あの瞬間に感じた視線の力強さは、現在になっても思い出せるくらいなのである。
気づかれているような予感はあったが、本当にそうだったとは。意味がわからないまま立ち尽くしている楽進に笑いかけながら、曹操は縦に二度小さく首を振った。優れた直感。どんな場面であっても、孫堅はそれを発揮してしまうのだ。戦場においては、それは無二の力ともなる。
「それで、孫堅殿も酸棗に陣を張りに来られたのか? あの袁術が、よくわがままを言わなかったものだ」
「袁術だあ? そんなもん、どうにでもならあな。アレの影響力は確かに大きいが、オレから見ればまだまだひよっ子よ。ククッ……。あいつめ、ちょっと凄んでやっただけで、簡単に酸棗行きを了承しやがった」
「ふっ、それはいい。しかし、口惜しいな。もし、孫堅殿に十万の兵力があれば、今頃洛陽に迫られていただろうに」
「ハッ……、心にもないことを抜かすんじゃねえよ、曹操。今の身代に満足していないのは、お前も同じだろうが。どうだ、相違あるまい?」
孫堅の双眸。それが、じっと自分の方を覗き込んできている。
相違など、あるはずがなかった。五千の兵。得られたのはいいが、この世に波風を立たせるには、当然物足りない力でもあるのだ。孫堅は、より大きな波乱を待ち望んでいるのだろう。それは自分も同様だった。
波が立てば立つほど、自分たちのような小勢力にも好機が巡ってきやすくなるのである。それに、波とは自力で起こすものでもあるのだ。巨大な波濤。いつしか、巻き起こしてみせる。流れを生み出すことができなければ、後は消えるだけなのである。
「違いないな、孫堅殿。国に安寧をもたらすためには、確固とした力が必要なのだ」
「ハハッ! 跳ねっ返りかとも思ったが、案外素直なところもあるじゃねえか。董卓は時勢に乗って上手く権力を手に入れたが、それはいつまでも続くまい。相国だかなんだか知らんが、オレがいつか追い落としてくれよう」
「まったく、孫堅殿らしいお言葉だな。おや、あれは……?」
啖呵を切ってみせる孫堅。胸の前で握った拳には、なんとしてでも大願を成し遂げるという決意が宿っているのか。
その後方に、人の姿が見えている。十人ほどの集団。それが、間違いなくこちらに向かって来ているのだ。萌え盛るような鮮やかな髪色。先頭を駆けているのは、長女の孫策なのだろう。奔放な母親に、手を焼いているといったところか。
「チッ……。策め、とうとう嗅ぎつけて来やがったか。まあいい。曹操、娘の相手はお前に任せたぞ。オレは、袁紹の面でも拝んでくるとしよう」
「ふん、いいのか? 任されるのは構わないが、俺は大層女好きでな。孫堅殿のご息女には、以前より興味があったのだよ」
「勝手にしな。オレたちは所詮、ヤルかヤラれるかの世界に生きてるんだよ。ちょうどよい頃合いだ、男の味ってものを、教え込んでやってくれてもよいのだぞ」
獰猛な笑みを浮かべる孫堅。どこまで本気で語っているのだろうか、と曹操は首を傾げている。
その姿が、軍勢の中に消えていく。人混みに紛れられては、孫策たちも追うことは難しくなるはずだ。
「嵐のようなお方でしたね、孫堅さまは。それにしても一刀さま、先程の言はその……」
「軽薄だと思ったか? だが、男とはそんなものなのだよ。もっとも、自覚があるだけ俺はマシなのかもしれないがな」
「そんな、ものなのでしょうか。自分には、よくわかりません」
「今は、わからなくてもいいさ。だが、いずれ凪にも、理解できる日がやって来るのかもしれないぞ。俺は、お前のことをもっとよく知りたいと思う。主君としてだけでなく、男としてもだ」
「なっ……!? じ、自分には、知りたくなるような魅力などありませんから!」
「ははっ、顔が赤くなっているぞ。可愛らしいところがあるのだな、お前も」
「かわ……っ!? もう、一刀さま。からかうのは、止めてください」
友人たちとは違い、楽進はその手の話題が得意ではないのだろう。火照り。綺麗な肌に、拡がっていく。一文字に結ばれた口。返す言葉が、見つからないようだった。
そうしている間にも、一団は自分たちの方へ近づいて来ていた。孫策。馬上での振る舞いは、堂に入っているように感じられた。
「はあ……。どうやら、一足遅かったようね。母様……、孫堅が、こちらにお邪魔していたと思うのだけど」
「惜しかったな。孫堅殿なら、袁紹に会いに行くと言っていた。しばらくすれば、自陣に帰るのではないか」
下馬をしながら、孫策が話しかけてきている。
諦めにも似た溜息。母を捕まえることができなかったのが、よほど悔しいのだろう。
「そうなの? でも悪かったわね、母様が足止めをしてしまって。それで、あなたが?」
「いかにも、俺が曹操だ。そちらは、孫策殿かな」
「ええ、曹操殿。わたしが孫堅の長女の、孫策よ。それにしても、よく知っていたわね。わたしの武名も、多少は世に広まっているのかしら」
楽しげに笑う孫策。雰囲気こそあるが、孫堅の域にはまだまだ及んでいないようだ。
それでも、武人としては一流なのだという。荊州にも間者を出入りさせているが、孫策は抜きん出た力を持っているとの話だった。賊程度では、敵うはずもないのである。力強い眼差し。孫堅の血を、色濃く受け継いでいる証だった。
「ちょっと姉さま。自分ばっかり喋っていないで、シャオのこともちゃんと紹介してよね? わたしは孫尚香。ほんとは間に孫権ってお姉ちゃんもいるんだけど、誰かが残ってないといけないから、って陣で留守番してるんだー。とにかくよろしくね、曹操!」
「なるほど、尚香殿は末っ子というわけか。孫権殿がいないのは残念だが、どこかで会うこともあるだろう。なにせ、共に闘う仲間なのだからな、俺たちは」
「えへへ、そうだよね。都で好き勝手してる董卓を、懲らしめてやらなくっちゃ。これだけの人数が揃ってるんだもん、きっと出来るよ!」
幼さの残る笑顔。それが、曹操には眩しいくらいだった。
孫尚香が言ったように、連合軍の大義はそこにあった。朝廷を牛耳る董卓を討ち、政を正す。自分たちは、そのために盟約を結んでいるのだ。
「あんまり真に受けない方がいいわよ、尚香。世の中、そんな甘い考えで回るものじゃないんだから。周瑜が言っていたけれど、群雄同士の連合なんて泡沫のものなのよ。そのうち、水面下で牽制し合っていくようになってもおかしくないんだから。もちろん、ウチの母様も含めてね」
包み隠した物言い、というのがあまり好きではないのかもしれない。そう言い切った孫策は、変わらず平然としたまま笑みをたたえていた。
原野を吹き抜ける風、といった感じである。淀んだところがなく、孫策はどこまでも爽やかな女だった。
碧眼。海というのは、このような色をしていると聞いたことがある。河水や江水よりも広大で、豊富な水がどこまでも続いているのだ。その雄大さ。それを、孫策の碧眼は感じさせるのである。
「ふっ……。さすがに、孫堅殿のご息女というだけのことはあるな。しかし、気に入った。孫策殿の闘う姿を、早くこの目で見てみたいものだ」
「ふふん。剣の腕には、わたしもちょっとばかし自信があるの。だから、楽しみにしていてちょうだい。きっと、損はさせないと思うわよ?」
「言ってくれるな、孫策殿。ならば、期待させてもらうとしようか。そうだ、俺の麾下にも剣を得意とする者がいてな。名を、夏侯惇というのだが」
「へえ、夏侯惇か。よし、せっかくここまで来たのだし、紹介してもらってもいいかしら? どうせなら、戦の前の肩慣らしに軽く打ち合ってみたいわね」
孫策の碧眼。その輝きが、はっきりと増している。どこまでいこうが、根幹にあるのは武人としての矜持なのだろう。
「うわあ……。いいの、曹操? お姉ちゃん、一度その気になったら、ちょっとのことじゃ止まらなくなるんだよ?」
「ははっ。それならば、こちらの夏侯惇も似たようなものだ。気が済むまで打ち合ってくれても、俺は別に構わないぞ」
「ほんとに、知らないんだからね? だったら、ただお姉ちゃんを待ってるのも退屈だし、シャオはもっと曹操とお話しさせてもらっちゃおうかなー。ねっ、いいよね?」
身軽な動き。楽進が制止する間もなく、孫尚香が腕に絡みついてくる。
なにも、幼いばかりではないようだった。笑みの中。そこに、かすかながら妖艶さが見え隠れしているのだ。薄い身体。孫家の血は、孫尚香にこの先どういった成長を与えるのだろうか。
「好きにすればいいさ、尚香殿。凪、
「承知いたしました、一刀さま」
駆けていく楽進。
足跡から舞い上がる土煙を、曹操は静かに見つめていた。
†
連合軍の本営。そこに、袁紹の姿はあった。
諸将が集えるようにと大きめに建てられているから、内部はかなり広々としていた。声。入ってきたのは、顔良だった。
多分、また誰かが挨拶に訪れたのだろう。そう思って、袁紹は胡床から立ち上がった。悪い気こそしないが、同じ言葉を何度も聞かされるのは退屈なのである。しかし、待ち人が来たのであれば話は別だ。曹操。洛陽から逃れて以来だから、会えば数ヶ月ぶりの再会となる。
競い合う相手。友誼を結んではいたが、曹操という男はそのような存在であったはずだ。その来訪が、どうしてここまで待ち遠しいのか。
無意識の内に綻んでいく表情。曹操が近くで支えてくれるのであれば、必ず董卓を打倒することができる。そんな風に、袁紹は考えるようになっていた。
「で、誰がいらしたのかしら、
「はい。長沙太守の孫堅さんが、姫にご挨拶をと。すぐにお通ししても、よろしいでしょうか」
「ふうん、孫堅さん? 長沙というと、美羽さんに引っ付いてやってきた将のお一人かしら」
「ご本人の前では、そういう言い方をされないほうがいいと思いますよ、姫。孫堅さんって、とんでもなく恐ろしいお方らしいですから」
「なんですの、斗詩さん。あなたも袁家を代表する将軍であるならば、もっと堂々としていなさいな」
小声で忠告をしてくる顔良を叱咤し、袁紹は腕を組んだ。
孫堅がなんだというのだ、という気持ちがある。名家に生まれた責務。それを果たすためにも、自分は国の頂点まで駆け上がらなくてはならない。
「孫堅さんはともかく、曹操さんはまだ酸棗に到着していませんの? 使者にやった
「ええっと、ですねえ。本営に来るまでに曹操さんと話してきたと、孫堅さんが……。なので、もうしばらくすれば、こちらにお越しになるのではないかと」
「はあ? なんですのそれは。まったく、着いたのであれば、何をおいてもわたくしに会いに来るのが筋ではありませんの。斗詩さんだって、そう思いますわよね?」
「あ、あはは……、そうですよねー」
自分がこれだけ待望しているにも関わらず、曹操はなにをやっているのか。苛立ちを隠さず、袁紹は顔良に愚痴をぶつけている。
「おい、なにをグダグダとやってやがるんだ。オレもそんなに暇じゃねえんだ、悪いが入らせてもらうぞ」
「あなたが、孫堅さんですのね。まあ、いいでしょう。些事にいちいち目くじらを立てていては、連合軍の代表なんて務まりませんもの」
「ハッ、少しはわかっているようだな。それで、戦はいつ始める。明日か、明後日か? なんなら、今から出陣してもよいのだが」
「戦の日取りは、皆で議論して決めるべきことではありませんの? それにまだ、曹操さんにも相談できていませんし……」
連合軍という体裁。それを守るためには、一応なりとも意見を聞いてみる必要があるのではないか、と袁紹は考えている。
舌打ち。はっきりと、耳に届いている。自分の言ったことが、よほど孫堅は気に食わなかったのか。大軍を擁しているのだから、逸るべきではない。逸っては足元を掬われるだけだ、と田豊から聞かされてもいるのだ。
「曹操? ハハッ、あいつには、オレの娘の相手をしてもらっていてな。下手をすれば、一晩中盛ることになるかもしれぬぞ?」
「さ、盛る……? 意味がよくわかりませんが、わたくしは曹操さんに用があるのです。ですから孫堅さん、ご息女の相手くらい、自分でされてはいかがですの?」
「知らんな、貴様の事情など。それに、曹操は自ら喜んで引き受けたのだぞ。そこにわざわざ面倒を背負いに行くなど、オレはご免だ」
挨拶をしにきたのではなく、これでは喧嘩を売りにきたようなものではないか、と袁紹は憤慨している。
微笑する孫堅。その立ち姿は、やけに大きく感じられた。絶大なる自信。それが、身体を通して顕現しているとでもいうのか。
「フッ……。そんなに曹操に会いたいのであれば、自分から出向くしかあるまい。連合軍の代表だろうが、待っていてはなにも変わらぬぞ、袁紹?」
「くううぅ……。そのようなこと、あなたに言われなくともわかっていますわ! 行きますわよ、斗詩さん。さっさとついていらっしゃい!」
「は、はいっ!? あっ……、待ってください、麗羽さまっ!」
孫堅の言葉。どこか、後押しするような響きがあったような気がしていた。自分から動くべきだと思えたのは、そのせいなのかもしれない。
居ても立っても居られず、袁紹は本営を飛び出していく。いきなりのことで、顔良は慌ててその後を追った。
「ククッ、若いねえ。曹操がアレをうまく御すことさえできれば、董卓とも闘えようが」
呟き。その音は風にかき消され、袁紹の耳に入ることはなかった。
酸棗の空は、青く澄み渡っている。